第三章 カッパとの生活マニュアル
一
同棲生活にはルールが必要だ。
翌日の午前中、僕とみずははリビングのテーブルを挟んで向き合い、ルール決めをすることにした。
僕はノートを取り出して、「じゃあお互い困ることを出し合って、解決策を考えよう」と言った。
みずははちょっと驚いた顔をした。「……そういう提案の仕方、人間的ですね」
「人間だから」
「私はカッパ式で解決していました」
「カッパ式って?」
「問題が生じたら、水に潜る」
「問題は解決しないのでは?」
「……気持ちが落ち着くので、後で対処できます」
「なるほど、冷却期間か。悪くないな」
みずはは少し嬉しそうだった。誰かに自分のやり方を否定されないのが嬉しいのかもしれない。
まず、お互いが気になることを出し合った。
僕が気になること:
・浴室を使う時間が被る(というか昨日被った)
・みずはの食事事情が謎(川の魚を夜中に取りに行くのはやめてほしい)
・皿の水が乾くと体調が悪くなるので、緊急時の対応を確認したい
みずはが気になること:
・悠太さんがどのくらい水を使うか(水道代は分担したい)
・悠太さんの生活リズムに合わせたい
・(もじもじしながら)入浴時間が被るのは……困ります
「入浴は、みずはが先にしていいよ」と僕は言った。「夜の九時から十時は浴室優先で。それ以外に僕が使う。どう?」
「……私が先でいいんですか?」
「カッパは水が大事でしょ。湯船のお湯がぬるくなる前に使った方がいい」
みずははお辞儀しかけて止まり、こくりと頷いた。
「食事は、一緒に作ってもいいし、別々でも」と僕は言った。「実家から米を持ってきてるし、基本的な食材は共有で良ければ」
「……私も、食費は出します」
「お金、どこから出してるの?」
みずははちょっと恥ずかしそうに「川で取った魚を……近くの居酒屋に売っています」と言った。
「居酒屋に?」
「はい。品質がいいと言ってもらえて……月に一万円くらいになります」
「それは……割とちゃんとした収入だ」
「あとは、川に落とし物が多くて……拾って届けるとお礼が」
「落とし物を届けてお礼金?」
「はい。スマートフォンや財布を川から引き上げることが多くて」
「カッパの特技が生活費になってる」
「……変ですか?」
「変じゃない。むしろすごい。自立してる」
みずははまた少し嬉しそうだった。
皿の水の緊急対応については、「洗面台のそばに常にコップを置いておく」「僕がいる時に皿の水が少なくなったら声をかけてもらう」という方針に決まった。
「一つ聞いてもいいですか」とみずはが言った。
「なんでも」
「悠太さんは……大学では何を勉強するんですか?」
「農学部。農業と生物と生態学が中心かな」
みずははちょっと考えた。「生き物が好きなんですか?」
「大好き。虫も植物も動物も」
「カッパも……好きですか?」
少し探るような、少し心配そうな顔で聞いてきた。
「好きだよ」と僕は迷わず言った。「カッパって民話とか伝承では色々出てくるけど、実際に会ったのは初めてだし、興味しかない。ただ、標本にしたいとか研究対象にしたいとかは全然ないから安心して」
みずはは少し笑った。「……よかったです」
「何が?」
「嫌われなくて、よかったです」
その言葉は、ひどく素直で、なんだか胸に来るものがあった。
二
大学が始まる前の一週間、僕とみずはは少しずつ互いのことを知っていった。
わかったこと。
みずはは水回り全般が好きで、雨の日は特に機嫌がいい。晴れた日は窓の外の公園の水飲み場をよく見ている。風呂に入る時間が長い(標準の三倍くらい)。しかし水道代を意識してちゃんと節水もする(矛盾しているようで、本人の中では筋が通っている)。
料理は魚料理とご飯ものが得意で、野菜炒めは少し苦手。野菜の切り方が均等すぎる(正確すぎて逆に食感が単調になる)。「もう少し不揃いでいい」と言ったら、「不揃いは気持ち悪いです」と言い返された。カッパも几帳面だったらしい。
人間の文化に興味はあるが、知識に偏りがある。テレビは大家が置いていったブラウン管のものがあり、時代劇と料理番組は詳しいが、バラエティはよくわからないと言う。スマートフォンは持っていない。「画面が光るのが、眩しくて」と言っていたが、後日タブレットを見せたら普通に使えた。適応力は高い。
人見知りは強い。外に出る時はいつも帽子を目深にかぶる。話しかけてくる人間には基本的に目を合わせない。しかし知っている人間(つまり今のところ僕だけ)には、少しずつ話すようになっている。
夜中に一人で笑っていることがある。聞いたら「夢を見ていました」と言ったが、起きていたから夢ではないはずだ。川の思い出かもしれない。
みずはが僕についてわかったこと(みずはが言った内容):
「悠太さんは、朝が早いです」
「悠太さんは、虫の話になると止まりません」
「悠太さんは、メガネをはずすと顔が変わります」
最後のは微妙なコメントだった。「変わるってどういう方向に?」と聞いたら、みずははちょっと赤くなって「……かっこよくなります」と言った。
「メガネをはずしたままにしないの?」とみずはに聞かれたことがある。
「はずすと何も見えないから」と答えたら、「水の中でも見えますか?」と聞かれた。「見えない」「私は水の中でも見えます」「羨ましい」「……そうですか?」という会話をした。
カッパと人間の視力の違いについて、三十分ほど話し合った。結果として、水中視力はカッパが優位、暗所視力は互角、遠距離視力は眼鏡着用時の僕が優位、という結論が出た。
「悠太さんの農学部では、そういう比較をするんですか?」とみずはが聞いた。
「生態学的にはする。複数の種の能力比較とかは」
「私は……研究対象にはなりたくないですが、こういう話は嫌いじゃないです」
「じゃあたまにこういう話しよう」
「……はい」
同棲生活は、そんな感じでゆっくりと始まっていった。
三
問題が起きたのは同棲四日目だった。
みずはが外に出た。珍しいことではないが、その日は気温が高く、晴れていた。晴れた日はみずはの頭の皿が乾きやすい。
「帽子かぶってる?」
「かぶっています」
「水筒に水入れていく? 口で飲むんじゃなくて、皿に補充する用に」
みずははぱっと顔を上げた。「それは……考えていませんでした」
「折りたたみのコップも持っていくといいと思う。念のため」
「悠太さんって、なんでそういうことに気づくんですか?」
「農家だと、植物が水切れを起こす前に手を打つのが基本だから。水の管理に敏感なのかもしれない」
みずははじっと僕を見た。なんとも言えない表情だった。
「……なんか変なこと言った?」
「いいえ」みずははふいと視線を逸らした。「ありがとうございます」
水筒を持って出かけたみずははしかし二時間後、顔を真っ赤にして帰ってきた。
「どうした?」
「……スーパーで」みずはは俯きながら言った。「帽子がずれて、皿が見えてしまって」
「騒ぎになった?」
「なりそうになって、すごく慌てて……水筒の水を皿に入れようとして、こぼして……」
そのままうまくできなかったらしい。皿の水が少なくなり、ふらつき、スーパーの店員さんに声をかけられ、そこで気を遣ってもらったのが逆に辛かったようだ。
「大丈夫?」
「大丈夫です。皿の水も補充しました。ただ……人混みは苦手です」
「そりゃそうだよ。何年もほぼ一人でいたんだから」
みずははソファに座り、少し疲れた顔をしていた。
「私は、ちゃんと外に出られないんです」
「そんなことないと思うけど、今日は疲れたんでしょ。今日は休んで」
「でも……将来、ずっとこのままじゃ」
「焦らなくていい」と僕は言った。「外に出る練習、一緒にすればいい。最初は近所の公園から」
「……一緒に?」
「そうしたい。嫌じゃなければ」
みずはは少し考えた後、「嫌じゃないです」と言った。
その日の夕飯は、みずはが作った鯛の塩焼きだった。どこで鯛を手に入れたのかは聞かなかった。美味しかった。




