第二章 同棲初日、波乱の幕開け
一
問題は山積みだった。
まず、みずはがどこで寝るかという問題。
浴室にいたということは、浴室をねぐらにしていたのか。それとも他に居場所があったのか。話を聞いてみると、どうやらみずははこの部屋に住んでいるというより、浴室に棲み着いていたというのが正しいようだった。
「浴室の水回りが……好きなので」とみずはは言った。
そりゃそうだ、カッパだから。
二人でリビングに座り、向かい合っていた。みずはは大家が置いていったと思しき古い浴衣を着て、きちんと正座している。頭のお皿には水が満タンに張られている。皿はよく見ると、平たい緑色の楕円形で、淵がわずかに盛り上がっている。頭の上に自然に生えているようで、触れたら壊れそうで、しかし本人は全く気にしていない様子だった。
見た目は本当に普通の女の子だった。黒髪のショートカット、きれいな肌、少し丸い目。身長は僕より頭一つ低いくらい。お皿さえなければ、どこにでもいる大学生くらいの女の子だ。
「なんでこの部屋にいるの?」と僕は聞いた。
「ここの、浴室の水が……綺麗で、気持ちいいので」
「水道水が?」
「はい。この地区の水は、地下水を混ぜているので、少し自然の味がして好きなんです」
水の味がわかるらしい。さすがカッパ。
「大家のお爺さんは、知っていたんですか? あなたがここにいること」
「はい。五年前に、ここを見つけて、大家さんに謝りに行ったら、『まあええか』と言われて、そのままに」
「五年間ここにいたの?」
「はい」
「……大家、それを黙って貸すのか」
それで「訳あり物件」だったわけだ。カッパ付き。文字通り。
「あの」みずはが少し俯いた。「私が出て行けばよいと思います。悠太さんがここの正式な入居者なのですから」
「いや、待って」
「え?」
「出て行くって、どこ行くの?」
みずはは少し黙った。「……川」
「川? 住むの?」
「はい。川の近くか、川の中か、池か……カッパなので」
「でも東京で川や池は管理されてるし、そもそも人目が多い。皿がある状態で外歩いてたら騒ぎになる」
みずはは少し考えた。「帽子を、かぶれば」
「帽子で隠せるの?」
「以前はそうしていました。でも、帽子を脱ぐとびっくりされるので、なかなか」
そりゃそうだ。
「とりあえず」と僕は言った。「今夜は出て行かなくていい。明日、大家に連絡して事情を確認する。それからどうするか決めよう」
「でも……」
「二万円の部屋だぞ? カッパ込みで二万円なら、正直破格もいいところだよ。出て行ってもらったら家賃の説明がつかない」
みずははっとしたような顔をした。それから、くすっと笑った。
初めて笑った瞬間だった。
「悠太さん、変わっていますね」
「農家育ちで、虫も動物も好きだから。カッパが出てきても、わりと受け入れられる気がする」
「カッパを見ても、逃げなかった人は初めてです」
「逃げる理由がないじゃないか。あなたが何か悪いことをしたわけじゃないし」
みずははまた少し笑った。今度はもう少し長く。
「……じゃあ、今夜だけ、お世話になります」
「うん。布団もう一枚あるから使って。そっちの部屋がいい」
「ありがとうございます」
みずははお辞儀をした。
そして皿の水がざばっとこぼれた。
「あっ」
「あっ」
「……お辞儀、苦手?」
みずはは赤くなった。「……皿が傾くと、こぼれてしまって」
「浅いお皿だからかな。深さがあれば多少傾いてもこぼれない?」
「……あまり考えたことがなかったです」
「農業でも、水をためるときは形状が大事なんだよ。田んぼのあぜとか」
「は、はあ……」
僕の農業うんちくは不要だったかもしれない。
「まあ、水はまた補充するから。おやすみ」
「おやすみなさい」
みずはは再びお辞儀をしようとして、途中で止まり、代わりに軽く頭を下げた。今度は皿からこぼれなかった。
こうして同棲初日の夜が更けた。
二
翌朝。
目が覚めると、いい匂いがした。
なんだこれ、と思いながら起き上がると、キッチンから何かを炊く音が聞こえた。
「みずは?」
リビングに出ると、みずはがキッチンに立ってご飯を炊いていた。
「おはようございます」
「おはよう……なんで炊飯してるの?」
「昨夜、冷蔵庫を確認させていただいたら、お米があったので。朝ごはんを作ろうと思って」
冷蔵庫に米が入ってたのは、実家から持ってきた農家の自家製コシヒカリだ。一升ほど。
「作ったことあるの?」
「はい。一人で暮らしていたので、基本的なことは」
「五年間、この浴室で一人暮らし?」
「はい」
「食材とか、どうしてたの?」
みずははちょっと恥ずかしそうに「川で魚を取って……近くのスーパーで、簡単なものを買って」と言った。
「川で魚を? 東京の川で?」
「善福寺川という川が近くに流れていて、そこで」
「あそこで魚取ったら問題にならない?」
「……夜中に、こっそり」
「それは内緒にしておこう」
ご飯が炊き上がり、みずはは冷蔵庫から昨夜僕が買ってきた卵を取り出し、卵焼きを作り始めた。手際がいい。
「料理、うまいの?」
「普通だと思います。でも魚料理は得意です」
「そりゃそうか。カッパだし」
みずははちらっと僕を見た。
「……悠太さんは、私がカッパであることを、ちゃんとわかっていますか?」
「うん」
「普通、驚くと思うのですが」
「驚いたよ。昨日の夜は。でも、驚くのと受け入れるのは別じゃないか。じいちゃんが『妖怪とも仲良くしろ』って言ってたし」
「お祖父様が?」
「うん。変な人だけど、当たることが多いんだよね」
みずはは少し考えた。「……妖怪という言葉は、少し抵抗があります」
「あ、ごめん。そういう言い方は嫌?」
「嫌というより……私は、人間でもあるので」
「え?」
みずははご飯をよそいながら言った。「私は、カッパと人間のハーフです。父がカッパで、母が人間でした」
「そんなことが……あるんだ」
「珍しいらしいです。私も、詳しいことはわかりません。お父さんはもうおらず、お母さんには人間社会で育てると迷惑がかかると思って……自分で出てきたので」
出てきた、という言葉の重さを、僕は少し感じた。
「一人で出てきたの?」
「はい。十三歳の時に」
「十三歳で?」
「カッパの時間の流れ方は、人間と少し違うので。体の年齢より精神的に大人に育ちやすいと聞きました」
「今、年齢は?」
「外見と同じで、十八です。たぶん」
「たぶん?」
「正確な誕生日がわからないので」
それはまた複雑な事情だ。僕は黙ってみずはの置いたご飯茶碗と卵焼きの皿を受け取った。
「ありがとう」
「いいえ」
「……その話、あとでもっとゆっくり聞いていいですか。焦らなくていいから」
みずははちょっとだけ驚いた顔をした。それから「……はい」と静かに答えた。
朝ご飯は美味しかった。
三
大家に電話した。
しゃがれた声の老人が出た。前と同じだ。
「もしもし、コーポ松葉の二〇三号室に越してきた片桐です」
「ああ、ああ! 片桐さん! ご入居おめでとうございます。どうでしたか、部屋は」
「綺麗でした。ただ」
「ただ?」
「浴室にカッパがいました」
電話口が数秒沈黙した。
「……そうですか。みずはちゃん、まだいましたか」
「いました。しかも五年間いたらしいです」
「そうなんですよ、あの子ね、出て行くって言わなくてね。ここの水が好きだからって言ってね。まあ静かにしてるし、悪いことするわけでもないし、放っておいたんですが」
「放っておいたんですか」
「いやあ、カッパを追い出すとなると、こちらにも色々とバチが当たりそうで」
バチ。
「それで、これからどうすればいいんですか?」
「そうですねえ」老人はうーんと唸った。「片桐さんが嫌でなければ、一緒にいてもらえると、こちらとしては助かるんですが」
「え、なぜ」
「みずはちゃんはいい子なんですが、一人でいると何かと心配でしてね。人間のちゃんとした人と一緒にいた方が、いろいろいいんじゃないかと、年寄りとしては思うんです。いつか人間社会に馴染んでほしいと思っていますし」
「あの、でも、それって入居者にとってはずいぶんな話では?」
「そうなんですよ、だから二万円にしたんです。その部屋、本来は八万円ですから」
八万円。
差額六万円。
カッパ代六万円。
「……わかりました。しばらく一緒に暮らしてみます」
「ありがとうございます! みずはちゃんをよろしくお願いします! 家賃は引き続き二万円で!」
「あ、あと一つ聞いていいですか」
「なんでしょう」
「大家さん、どこに住んでるんですか?」
「……まあ、遠くです」
「遠く?」
「はい。来られなくて申し訳ないんですが、何かあったらいつでもお電話を」
電話が切れた。
謎の多い大家だった。
四
みずはに電話の内容を伝えると、みずははしばらく黙っていた。
「……あの、私は出て行っても」
「嫌じゃないから一緒にいる」と僕は言った。「大家がどうこうより、そっちが理由」
「え?」
「一人で出てきて、五年間一人で暮らしてたんでしょ。それって辛くなかったの? きつくなかったの?」
みずははちょっとだけ視線を逸らした。
「……孤独は、慣れます」
「慣れてほしくない」
「え?」
「孤独に慣れるのは、良くないと思う。せっかく同じ屋根の下にいるんだから、少しくらい頼ったり話したりしていいじゃないか」
みずはは僕を見た。少し困ったような、少し嬉しそうな、複雑な顔だった。
「……変わっていますね、悠太さん」
「よく言われる」
「嫌いではありません、そういう人」
それがみずはの言える最大限の好意表現だったと、後から気づいた。
「じゃあ決まり。しばらく一緒に住む。ルールとか必要なら決めよう。お互い不便じゃないように」
「……はい。よろしくお願いします」
お辞儀しかけて、今度はみずは自分で気づき、頭を少しだけ下げた。
皿の水はこぼれなかった。
少しだけ進歩した瞬間だった。




