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1LDKカッパ付き  作者: hiro
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第一章 1LDKカッパ付き


 時は遡ること三週間前。三月の中旬。


 「お兄ちゃん、絶対変な部屋借りないでよ」


 妹の沙希さきが、リビングのソファに寝転がりながら言った。十六歳とは思えない毒舌の持ち主で、実家にいる間じゅう僕をいじり続けている自慢の妹だ。


 「変な部屋って何だよ」


 「心霊スポットとか、ゴミ屋敷の隣とか、なんか曰くつきの物件とか」


 「そんなの借りるわけないだろ」


 「お兄ちゃん、安さに釣られてろくでもないもの選ぶじゃん。去年も釣り竿買ったとき、千円の激安品買って一発で折れてたし」


 それは関係ない。関係ないけど一理ある。


 片桐悠太、十八歳。岐阜県の山あいにある小さな農村――正確には「大字おおあざ」という地名でさえ地図にかろうじて載っているような集落――の出身で、この春から東京の私立大学に進学することが決まっていた。専攻は農学部。虫と植物が好きすぎて、気づいたら農学部を志望していた。


 実家は代々続く農家で、父は米と野菜を育て、母は梅干しや味噌を手作りし、祖父は山で山菜を採り、祖母は縁側でカエルに話しかけている。そういう家庭だ。


 「東京、大丈夫なん? お兄ちゃん、都会に出たことほとんどないじゃん」


 「名古屋には行ったことある」


 「一回だけでしょ。しかも乗り換えで迷子になってたし」


 「あれは案内表示が悪い」


 「ほんとに大丈夫?」


 沙希の声に、珍しく心配の色が混じっていた。僕は少し笑って、彼女の頭をぽんと叩いた。


 「大丈夫。そのための農学部だし。東京に出て、ちゃんと勉強して、帰ってくる」


 「帰ってくるの?」


 「帰ってくるよ。この土地が好きだから」


 沙希は少しだけ黙った後、「じゃあ変な部屋だけはやめてよ」とまた言った。


 その言葉が、まさか予言になるとは、この時は思ってもみなかった。



 物件探しは難航した。


 東京の家賃相場を初めて調べた時、僕は検索結果を見て目を疑った。


 ワンルーム、六畳、駅徒歩十五分、築三十年、七万円。


 七万円。


 岐阜の実家なら、月七万円あれば一家四人が一ヶ月食べていける気がする(多少の誇張はあるが)。それが六畳の箱一個分の値段とは、東京というのは一体どういう世界なのか。


 大学から出る奨学金と、両親からの仕送り合計で月十万円。食費や光熱費や生活費を引いたら、家賃に使えるのは精々五万円。それもかなり厳しい。


 「もっと安い物件ないかな」


 パソコンの前でうなっていた時、同じく東京進学が決まっていた中学からの友人、鈴木圭介すずきけいすけからLINEが来た。


 『おい悠太、これ見てみ。おじさんの知り合いが昔使ってた物件情報サイトらしい』


 URLが貼り付けられていた。


 クリックすると、明らかに時代遅れのWebサイトが表示された。デザインが二〇〇〇年代初頭のそれで、フォントはゴシック体、背景はグレー、そして「江戸物件相談所」という屋号が大きく書かれている。


 江戸物件相談所。


 怪しい。明らかに怪しい。しかしURLに飛び込んでしまった手前、一応見てみることにした。


 物件一覧をクリックすると、確かに相場より安い物件がいくつか並んでいた。とはいえ、せいぜい五万円台後半。もう少し安いものはないかと「格安」タグで絞り込むと、一件だけ、異様な物件が引っかかった。


 【特選】東京都杉並区 1LDK 2万円/月 礼金なし・敷金なし

 ※訳あり物件です。内見前に必ずお問い合わせください。


 二万円。


 一LDKで二万円。


 どんな「訳あり」なのかが気になったが、それよりも二万円という数字が頭を占領した。一LDKならリビングと寝室に分けて使える。東京で二万円は何かの間違いではないか。


 翌日、「江戸物件相談所」に電話した。


 電話口に出たのは、しゃがれた声の老人だった。


 「はいはい、江戸物件相談所でございます」


 「あ、あの、サイトで見た杉並区の1LDKの物件なんですが」


 「ああ、あの部屋ね。よくかけてくれましたね、お若い人。あれはちょっと、普通とは違う物件でしてね」


 「どんなふうに普通じゃないんですか?」


 「それはですねえ」老人はもったいぶったように間を置いた。「入居していただければわかります」


 そんな説明で決める人間がどこにいるのか、と思ったが、僕は「わかりました」と言ってしまった。


 後悔は翌日に来た。



 「内見なしで決めたの?」と圭介に言われたのは、その翌日のことだった。


 二人でファミレスに入り、向かい合って座っていた。圭介は呆れたように眉を持ち上げている。


 「いや、電話で話して、まあ問題なさそうだったから」


 「電話の相手がしゃがれた声の謎の老人でも?」


 「謎とは限らない。普通に物件業者じゃないか」


 「江戸物件相談所って名前だぞ? 江戸って何? 江戸時代から続いてんの?」


 「老舗じゃないか」


 圭介は頭を抱えた。「悠太、お前さ、良く言えば大らかだけど、それって田舎育ちのせいで疑うことを覚えてないんじゃないかと思うわ」


 それは一理あるかもしれない。僕の育った集落では、隣家が車で五分かかる距離にあり、夜は真っ暗で、人間より動物の方が多い。知らない人に騙されるより、山で道に迷う方がよほど危険な生活をしてきた。東京の危機察知能力を養う機会がなかったのは認める。


 「まあでも、激安物件ってそういうもんじゃないか。事故物件とか心霊とかいろいろ訳があって安いだけで、住んじゃえばどうってことないっていう」


 「でも内見はしろよ普通」


 「した方が良かったとは思う」


 「思ってるならなぜした」


 「あの電話の雰囲気が、なんか懐かしい感じがして。じいちゃんみたいな感じで」


 圭介はしばらく僕を見た後、深いため息をついた。


 「まあ、霊でも出たらすぐ引っ越せよ」


 「霊は出ないと思う。なんか別の訳があると思う」


 「別の訳って?」


 「なんか……動物でも住んでたんじゃないかとか?」


 「動物が住んでたら大家が普通に片付けるだろ」


 「まあそうか」


 会話はそこで終わり、二人でハンバーグを食べた。圭介は工学部進学で、僕とは別の大学だ。上京するタイミングは一緒だった。


 その夜、「江戸物件相談所」から書類が届いた。賃貸借契約書と、それと一緒に古びた和紙に毛筆で書かれたメモが入っていた。


 「本物件には特殊な事情がございます。入居される方には、ご理解とご寛容をお願い申し上げます。詳細は追ってご説明いたします。 主人より」


 特殊な事情。


 それが何を意味するのか、その時の僕にはわからなかった。




 引っ越し当日、三月二十八日。


 朝から父が軽トラックを出してくれ、荷物を積み込んだ。といっても大した荷物はない。衣類、布団、少しの本、農学部の教科書類、そして農家育ちの性分でなぜか持ってきてしまった小型の植木鉢が三個。


 「悠太、ちゃんと飯食えよ」と父が言った。


 「うん」


 「野菜も食え」


 「うん」


 「虫ばっかり見てないで、ちゃんと勉強もしろ」


 「虫の勉強もするよ」


 母は泣いていた。沙希は泣いていなかったが、見送りの時に小さな守り袋を手渡してきた。


 「なんか変なことあったら逃げてよ」と沙希は言った。相変わらず予言めいた言葉だ。


 祖父は「東京には妖怪がおる」と言った。


 「妖怪?」


 「ああ。昔はな、東京もといえど江戸の昔から、いろんなもんが住んどった。人間ばかりじゃないでの」


 祖父は山育ちで、山の生き物や言い伝えに詳しかった。たまに不思議なことを言う人だ。


 「そういうもんと出くわしたら、怖がらずに仲良くしてやれ。お前は不思議と動物と折り合いが良いからの。妖怪もたぶん同じじゃ」


 「妖怪に折り合いをつけるのか」


 「そうじゃ。おかしいと思うな。珍しいと思え」


 祖父の言葉は、いつもそういう感じだ。非科学的だが、なぜか妙な説得力がある。


 軽トラックは集落を出発した。東名高速を走り、首都高を抜け、杉並区の住宅街へ。


 カーナビが「目的地周辺です」と告げた場所は、古い住宅が立ち並ぶ、緑の多い閑静な通りだった。その奥に、三階建てのマンションがあった。築年数は不明だが、かなり古い。外壁は薄くひびが入っているが、倒れそうではない。「コーポ松葉」という名前が、錆びた看板に書かれていた。


 「これか」


 父が軽トラから降りて、渋い顔をした。


 「古いな」


 「古いけど、中は綺麗かもしれない」


 「二万円で綺麗はないだろ」


 正論すぎる。


 大家の連絡先に電話すると、しゃがれた声の老人が出た。「鍵はポストに入れておきますから」と言われ、表のポストを確認すると、確かに鍵が入っていた。


 「大家が来ないのか?」と父が首をひねった。


 「なんか都合が悪いらしくて」


 「都合が悪い大家って……まあいいか」


 荷物を運び込んだ。部屋は二〇三号室だった。


 ドアを開けると――思ったより悪くなかった。


 玄関を入ると小さな廊下があり、左手に洗面台とトイレ、右手に浴室、正面がLDKへのドアになっている。LDKに入ると、リビングが八畳ほど、続きの部屋が六畳。フローリングはそこそこ綺麗で、キッチンも古いがシンクの汚れは少ない。窓から外を見ると、小さな公園が見えた。


 「悪くない」と父が言った。「古いけど悪くない」


 「だろ?」


 「でも二万円はやっぱりおかしい」


 「まあ……」


 「何かあるんだろうな」


 「まあ……」


 「まあ、困ったら電話しろ。いつでも迎えに行く」


 「そこまでしなくていい」


 父と一緒に荷物を運び込み、必要最低限のものを配置した。布団を敷き、本棚を組み立て、植木鉢を窓際に並べた。夕方近くに父は帰っていった。


 「ちゃんと飯食えよ」という言葉を最後に残して。



 夜になった。


 コンビニで買ってきた弁当を食べ、少し部屋を片付けてから、シャワーを浴びようと思った。


 浴室のドアを開ける前に、なぜか嫌な予感がした。


 いや、予感というか、音がしていたのだ。


 水の音。


 かすかに、浴室の向こうから。


 (水道管の音か?)


 そう思いながらドアを開けた。


 そこには。


 湯船に入った女の子がいた。


 年の頃は十七か十八か、大学生くらいの見た目の女の子が、ちゃんとお湯を張った湯船に浸かって、目を閉じて、くつろいでいた。


 しかも。


 頭の上に、小さなお皿がある。


 直径十センチほどの、緑がかった灰色の、明らかに身体の一部として生えているような、平たいお皿が。


 そのお皿の上には、水が張ってある。


 女の子は目を開けた。


 丸くて、少し緑がかった黒い瞳が、僕を見た。


 「……」


 「……」


 沈黙が、三秒続いた。


 「あああああ!!!」


 叫んだのは僕の方だった。


 「ご、ごめんなさいっ!!!」


 女の子も叫んだ。しかし叫んだ拍子に身体を起こし、お辞儀のような動作をしてしまった。


 その瞬間、頭の皿が傾いて、お水がざばっとこぼれた。


 「あっ」


 「あっ」


 女の子が、そのままぐらりと揺れた。


 「ちょ、大丈夫?!」


 慌てて飛び込もうとして、浴室が混浴状態であることに気づいて踏みとどまり、代わりにドアを大きく開けて「大丈夫ですか!」と叫んだ。


 女の子は湯船の縁につかまり、なんとか体勢を保っていた。が、顔色が明らかに悪い。さっきまで元気そうだったのに、皿の水がこぼれた途端に力が抜けたように見えた。


 「す、すみません……皿の水が」


 「え、あ、水?」


 「頭の皿に水がないと、倒れてしまって……」


 まず僕は、目の前の状況を整理した。


 ①自分の部屋の浴室に見知らぬ女の子がいた。

 ②その女の子の頭には皿がある。

 ③皿の水がこぼれると体調が悪くなるらしい。


 農家育ちで、生き物全般に詳しい僕の脳みそが、ある答えを弾き出した。


 (……カッパ?)


 「あの」と僕は言った。できるだけ穏やかに。「ちょっと待ってて。水、持ってくる」


 「え」


 「頭の皿、水補充したら大丈夫?」


 女の子は驚いたように僕を見た。「は、はい。そうです、けど」


 「ちょっと待ってて」


 洗面台に行き、コップに水を汲んだ。それをそっと持って浴室のドア前に戻り、「目閉じてて、入るから」と言ってから目を逸らしながら入室し、コップを差し出した。


 「……頭に、かけてほしいんですが」


 「わかった」


 目を逸らしたまま手探りで、お皿の中にそっと水を注いだ。


 少し間があった。


 「……ありがとうございます」


 声に力が戻っていた。


 「大丈夫?」


 「はい。大丈夫です」


 「よかった」


 沈黙。


 「あの」と女の子が言った。


 「うん」


 「ここ、新しい人が来るって、きいてなくて」


 「え、きいてない?」


 「はい。大家のお爺さんから、しばらく誰も来ないって」


 「あ……いや、三月中旬に契約したんだけど。大家に話は行ってないのかな」


 「そうなんですか……すみません、びっくりしました」


 「こっちもびっくりした。まあ、お互い様ってことで」


 また沈黙。


 「あの、すみません」女の子が言った。「もう出ていきます。ご迷惑をおかけしました」


 「あ、いや」


 「大家さんに相談しますので」


 「うん、でも」


 女の子がお湯から出ようとしている気配があった。目を逸らしたまま、僕は言った。


 「名前、聞いていいですか」


 「え」


 「いきなり追い出すのも悪いし、とりあえず話し合いたいなと思って。あなたが何者なのか、どういう事情でここにいるのか」


 少しの沈黙。


 「……みずは、といいます」


 「みずは。いい名前だ。僕は片桐悠太。この部屋の新しい入居者です。よろしく」


 「……よろしく、お願いします」


 こうして、カッパの女の子・みずはとの同棲生活が、半ば強制的に始まった。

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