エピローグ
一
大学三年の春。
ゼミの合宿で、岐阜に行くことになった。
調査地点として長良川を選んだのは、みずはの提案だった。「水質が優れており、河川生態系の研究に最適」という理由を、発表資料にまとめてゼミで発表し、教授に認められた。
「うちの田舎に来るのか」と僕は言った。
「はい。長良川、また行けます」
「じいちゃんにも会える」
「お爺様に……はい、会いたいです」
合宿は三泊四日。ゼミメンバー十人と教授で、実家近くの民宿に泊まった。
初日の夕方、川に調査に入った。みずはは水中センサーを持って川に入り、計測しながら「ここの水温は……こっちと違います、流れの影響で」と言った。データを見た教授が「面白い観察だ」と言った。
「みずはの感覚と機械のデータが一致してる」と僕がこっそり言った。
「合ってる方が気持ちいいですね」とみずはがこっそり返した。
夜、祖父と話した。
「みずはをまた連れてきたの」と祖父が言った。
「合宿の調査地が長良川になって」
「そりゃいい。あの子は川が好きじゃから」
「じいちゃん、一年前みずはと何を話してたの? 秘密にされてたやつ」
祖父は少し笑った。「まだ気になるか」
「気になる」
「……そうじゃな。教えてやる」
祖父は縁側に座って、川の音を聞きながら言った。「あの子は、人間になりたいかどうか、迷っておった。カッパとして生きた方がいいか、人間として生きた方がいいか。どちらが幸せかと」
「それで、じいちゃんは何と言ったの?」
「幸せとはどっちかを選ぶことではない、と言った。どちらの自分も持ちながら、好きな人の隣にいることが幸せだと」
「……それが正解だった?」
「正解かはわからん。でも、あの子はうなずいた。そして、その方向で体が変わっていった。皿がなくなって、人間に近くなった。でも完全にはなくならなかった。それがちょうどいい」
「ちょうどいい」
「両方持ったままの方が、あの子らしい。カッパの感覚で水を読んで、人間の言葉で研究する。そういう人間が農学部に一人くらいいても、面白かろう」
「……じいちゃん、すごいな」
「歳を取ると、いろいろ見えてくる」
「見えすぎじゃないかとは思う」
祖父は笑った。「悠太もいい男になった。最初は頼りなさそうだったが」
「最初から頼りなくない」
「メガネをはずせ」
「見えなくなる」
「それでいい。たまにはぼんやり見ろ。細かいことが見えすぎると、大事なものを見失う」
「……何が大事なものですか?」
「隣にいる人間だ」
僕は少し黙った。
「……わかってる」
「ならいい」
川の音が続いていた。
二
最終日の朝。
みずはは早起きして、一人で川べりにいた。
僕が行くと、靴を脱いで足だけ川に入れていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「早いな」
「川の朝の声が聞きたくて……今日は特に、よく聞こえます」
「何を言ってた?」
みずははちょっと笑った。「……『またお前か』みたいな感じがしました」
「川に顔を覚えられてる」
「たぶん。去年も来ていたので」
しばらく並んで川を見た。
「悠太さん」
「うん?」
「ゼミが終わったら、どうするんですか? 卒業後」
「地元に帰ろうと思ってる。農業をしたいし、学んだことを活かしたいし」
「岐阜に」
「うん」
みずははしばらく川を見ていた。「……私は」
「うん?」
「私はどうすればいいですか?」
「どうしたいか、聞いていいですか」
みずははちょっと考えた。「……岐阜に来てもいいですか?」
「来ていい。むしろ来てほしい」
「川が綺麗なので……研究の場としても、いいですよね」
「長良川は研究価値が高い」
「うちの田舎の近くには長良川があります、と言えますか?」
「言える。そういうことにしていい」
みずははちょっと笑った。「……一緒に行ける、と思っていいですか」
「一緒に行こう。最初からそのつもりで言ってた」
みずははしばらく黙った。
「……カッパが農家の嫁になれますか?」
「農家の嫁って、早いな」
「早いですか?」
「まだ大学三年だよ」
「でも、そういう方向で考えていいですか?」
「考えていい。というか、そういう方向で僕も考えてる」
みずははまた少し目が潤んだ。なんか毎回潤む。カッパだから水分が豊富なのかもしれない。
「……農家は大変じゃないですか」
「大変だけど楽しい。みずはも農業向いてると思う。水管理が得意だし」
「水管理なら任せてください」
「任せる」
「田んぼの水も?」
「田んぼの水はプロに任せたかった」
「カッパの本領発揮です」
「そうそう」
川がきらきらと光った。みずはの足元で水が流れていた。
「……ありがとうございます、悠太さん」
「何に対して?」
「浴室で会った日から、ずっと。全部に」
「こちらこそ」
「私も……悠太さんに出会えて、よかったです」
「よかった。全部」
みずははにっこりと笑った。川の朝日の中で。
皿は今日はうっすらと出ていた。疲れた時や、水が好きな日に出ると言っていたが、今日は後者かもしれない。
川が好きな日。川の声が聞こえる日。
それはカッパのみずはが、まだ生きている日だ。
どちらも持ったまま、長良川のそばで生きていく。
それがみずはらしい。
(それが好きだ、と思う)
言葉にするかどうかは後で考えよう。
今は、川のそばで二人でいる。
それで十分だった。




