第十二章 夏の奇跡
一
六月の末。
みずはが体調を崩した。
最初は「少し疲れています」という程度だったが、徐々に皿の水の蒸発が早くなり、補充してもすぐ減るようになった。
「病院に行った方がいい?」
「……カッパを診てくれる病院があるかどうか」
「武川さんに聞いてみる?」
武川に連絡すると、「医者はいる。人間とカッパの両方を診られるやつが」と言った。「新宿に」
新宿にカッパ対応の医者がいる東京、さすがだ。
武川の紹介で、その医者に診てもらった。見た目は普通の内科医だったが、みずはの頭の皿をごく自然に診察した。
「うん、体がね、少し変わろうとしてるんですよ」と医者は言った。
「変わる?」とみずはが聞いた。
「カッパと人間のハーフはね、成人期になると、どちらの性質が強くなるか決まることがあるんです。みずはさんは今、そのタイミングかもしれない」
「どちらが強くなるか……」
「カッパに近くなるか、人間に近くなるか。皿の状態が変動しているのは、その影響です」
みずははしばらく黙っていた。「……どちらになるかは、選べますか?」
医者は少し考えた。「完全に選べるわけではないですが……気持ちの方向性が影響することは、あります。あなたが今、どちらの方向に向いているか、ということが大事かもしれない」
「どちらの方向……」
「難しいことを急いで考えなくていいです。しばらくは水分を多めに摂って、乾燥を避けて、無理をしないこと」
「はい」
帰り道、みずはは少し沈んでいた。
「大丈夫?」
「……はい。ただ、考えてしまって」
「どちらになりたいか?」
「……それが」みずはは歩きながら言った。「わからないんです。カッパとして生きた方が、楽かもしれない。でも……人間社会の方が、好きなものが多い」
「好きなもの?」
「料理とか……本とか……大学の勉強とか」
「それはカッパには関係ないの?」
「関係ないとは思いませんが……人間の方が、やりやすいかもしれない」
「みずは自身は、どう思う?」
みずはは少しだけ僕を見た。「……人間の方が、いいです。悠太さんの隣にいやすいから」
「僕の隣が基準なの?」
「……ダメですか?」
「ダメじゃない。むしろ嬉しい」
みずはは少しだけ笑った。「……でも、決めるのは私じゃなくて、体が決めることかもしれないので」
「そうかもしれないけど、医者が言ってた。気持ちの方向性が影響するって。みずはの気持ちが大事なんじゃないか」
みずはは少し考えた。「……そうですね」
二
七月の終わり。
みずはの体調が少しずつ落ち着いてきた。
そして変化が現れた。
ある朝、みずはがリビングに出てきた。普通に。
「おはよう」と僕は言った。
「おはようございます」
ご飯の準備を始めようとして、気づいた。
「……みずは、皿は?」
みずははふっと笑った。「……ないんです」
「え?」
「今朝起きたら、なかった」
頭の上を見ると、確かに皿がない。ツルっと普通の頭だ。
「大丈夫なの?」
「はい。なんか……すっきりしています」
「体調は?」
「問題ないです。むしろ、なんか身軽な感じがして」
「皿がなくなると……人間に近くなるの?」
「そう思います。昨日まであんなに気にしていたのに、今は全然気にならなくて」
「嬉しい? 悲しい?」
みずはは少し考えた。「……両方です。皿がなくなるのは、カッパの部分が薄くなるということなので、少し寂しい。でも……人間に近くなれるのは、嬉しいです」
「武川さんに連絡した方がいいかな」
「連絡します。でもその前に、朝ごはんを食べませんか」
「うん」
「悠太さんが好きなお味噌汁、作ります」
「みずはの味噌汁、好きだよ」
みずははふっと笑った。皿のない頭で。
「……変な感じ?」
「変というより、なんか新鮮」
「私もです。少し、別の人になった感じ」
「人間になった感じ?」
「……少しずつ、なっているのかもしれません」
三
武川に連絡すると、「そうか」と一言言って、翌日来た。
みずはの頭を確認して、「皿がなくなったな」と言った。
「はい」
「人間の方に傾いたか」
「そう思います」
「カッパの能力はまだ残ってるか?」
「水の声は……まだ少し、聞こえます」
「そうか。ゆっくりなくなるかもしれないし、残るかもしれない。そこは個人差がある」
「叔父さんは、どう思いますか?」
武川はみずはを見た。それから「お前が決めたことなら、文句はない」と言った。
「私が決めたわけじゃ……」
「体が決めたのは、お前の気持ちを反映したからだ。医者がそう言っただろ」
みずはは少し黙った。「……人間の方が、良いことが多かったので」
「良いことって?」
みずははちらっと僕を見た。
武川はその視線を見て、ふんと鼻を鳴らした。「そういうことか」
「……叔父さん」
「いいことだ。お前の父親も、そうだったんだから」
「お父さんが?」
「兄貴も、人間の女を好きになって、お前が生まれた。カッパが人間を好きになることは、珍しくない。ただ……こういう形で変化するのは、珍しいかもしれんな」
「こういう形って?」
「皿がなくなる方に、か。まあ、それぞれ違うから」
武川は立ち上がった。「お前はちゃんとやっているか?」
「……はい。勉強も、生活も」
「そうか。じゃあいい」
また窓から帰ろうとして、みずはが「玄関から帰ってください」と言い、武川は「わかった」と渋々玄関から帰った。
「叔父さん、玄関から帰ってくれた」とみずはが言った。
「成長だね」と僕は言った。
「……悠太さんも成長しましたか?」
「どこが?」
「……驚いたり、慌てたりしなくなりました。最初の頃より」
「みずはのおかげかも。驚くことに慣れた」
「良いことですか?」
「良いことだと思う」
みずははにっこりと笑った。皿のない、普通の笑顔だった。
でもその笑顔は、最初に浴室で見た、ちょっと困ったような笑顔と同じで、やっぱりみずははみずはだなと思った。




