第十章 岐阜への旅
一
春休みになった。
みずははバッグを一つと、水筒を多めに持って出発した。電車の中で「水筒が多いですね」と高橋に言われた(なぜか高橋もついてきた)。
「水が大事なので」とみずはは言った。
「カッパは水が命だからね」と圭介が言った(圭介もなぜかついてきた)。「でも今は新幹線だから大丈夫でしょ」
高橋と圭介は「農家の実家ってどんな感じか見てみたい」という理由で同行してきた。みずはも「賑やかな方が緊張しない」と言った。大所帯になってしまったが、まあいいかと思った。
名古屋で在来線に乗り換え、岐阜へ。さらに山の方へ向かうバスに乗り、実家の最寄りバス停で降りた。
「……山だ」と高橋が言った。
「山ですね」とみずはが言った。
「川の音が……」とみずはが耳を澄ました。「聞こえます。近くに川がありますか?」
「実家のすぐそこに、小川がある。長良川の支流」
みずははくっと顔を輝かせた。
実家に着くと、母が出てきた。「悠太! 帰ってきた!」
「ただいま」
「あなたが……みずはちゃん?」と母がみずはを見た。
みずははちょっと緊張した顔で「はい、みずはと申します。お世話になります」と言い、今度はしっかりお辞儀の角度を計算しながら、皿をこぼさない程度に礼をした。
「可愛いじゃないの!」と母が言った。「頭の皿も、素敵ね」
みずははほっとしたような顔をした。
沙希も出てきた。みずはを一目見て「わ、本当にカッパだ!」と言い、圭介を一目見て「あ、かっこいい人が来てる」と言い、完全にみずはよりも圭介に興味を持った。
「沙希」と僕は言った。
「え、なに? 客人に失礼なこと言ったかな」
「みずはに失礼なこと言わないように」
「カッパって言ったのが失礼?」
「カッパだけど、普通の女の子でもあるから」
沙希はみずはをじっと見た。みずははちょっと緊張して見返した。
「……可愛いね」と沙希が言った。
「あ……ありがとうございます」
「お兄ちゃんと仲良くしてくれてありがとう。一人暮らしで寂しそうじゃないかと思ってたから、良かった」
「寂しくない……です。悠太さんがいるので」
「そう。良かった」
沙希はあっさりと受け入れて、圭介の方に興味を移した。農家の沙希も、やはり変なものへの耐性がある。
二
翌朝、祖父がみずはに会いに来た。
縁側に二人で座って、何やら話していた。僕が近づくと、祖父が「悠太、ちょっと席を外せ」と言った。
「え、なんで?」
「大人の話じゃ。男は邪魔じゃ」
「僕が男? みずはとどういう大人の話を」
「良いからちょっと行け」
追い払われて、仕方なく畑仕事を手伝った。しばらくして戻ると、みずはと祖父は並んで座ったまま、川の方を見ていた。
「何話してたの?」と後でみずはに聞いた。
みずははちょっと考えてから「……秘密です」と言った。
「なんで秘密?」
「お爺様が、まだ悠太さんには早いと言っていたので」
「早い? 早いって何が?」
「秘密です」
絶対に教えてくれなかった。
祖父は夕食の後、僕に言った。「いい子じゃ」と。「あの子は、お前が思うよりずっと頑張っておる」
「知ってる」
「いいや、知らん」祖父は静かに言った。「お前はまだ、あの子の全部を知らん。でも、知る機会は必ず来る。その時に逃げるな」
「逃げるって、何から?」
祖父は少し笑った。「その時になればわかる」
謎めいた祖父だった。
三
翌日、みずはを長良川に連れていった。
川に着いた瞬間、みずはの目が大きく開いた。
「……すごいです」
「どう?」
「水が……全然違います。東京の川と」
「そりゃそうだよ、ここは清流で有名だから」
「こんな水が……流れているんですか、ここに」
みずはは川べりにしゃがんで、手を水に入れた。しばらくそのままいた。目を閉じていた。
「何してるの?」
「……水の声を、聞いています」
「水の声?」
「川は、いろんなことを話しているんです。ゆっくりと聞くと、聞こえます」
「何を話してる?」
みずはは少し笑った。「……遠くから来た水の話。山の雪が溶けた話。土の匂いの話」
「それを聞き取れるの?」
「カッパなので……水の言葉は、少しわかります」
「教えてほしい」
「水の言葉は……体で聞くものなので」
「じゃあ体で聞く練習をしよう」
「農学部の勉強ですか?」
「半分は趣味」
みずははくすくすと笑った。それから少し真剣な顔になった。「……悠太さん」
「うん?」
「一年前、東京で言いかけたこと」
ああ、あの「後で言います」か。
「言えそう?」と聞いた。
みずはは川の方を向いたまま、「……はい」と言った。
少しの間があった。
「悠太さんのことが……好きです」
川の音だけが流れていた。
「……カッパが人間を好きになっていいのかと、ずっと思っていました。でも、好きになってしまいました。どうしたらいいか、お爺様に聞いたら、正直に言えと言われました」
僕は川の向こうを見た。山が続いていた。空が青かった。
「僕も」と言った。
「え?」
「好きです、みずはのことが」
みずはがこちらを向いた。目が潤んでいた。
「……本当ですか?」
「本当。カッパでも人間でもどっちでも関係ない。みずはがみずはだから、好きです」
みずははしばらく黙っていた。それから少し笑った。泣きながら笑った。
「……皿がこぼれそうです」
「傾いたら補充する」
「悠太さんは、いつもそういうことを言います」
「農家だから、水の管理はしっかりする」
みずははくすくすと笑い続けた。泣きながら笑って、川の音の中に溶けていった。
皿の水が少しこぼれた。
でも今回は補充しなかった。
代わりに、みずはの手を握った。
「……冷たい」とみずはが言った。
「川の水で冷えてるから」
「悠太さんの手は、温かいです」
「農家は手が荒れてるから」
「温かいです」
川がきらきらと光っていた。




