第九章 春へ向かう心
一
二月になった。
大学一年の後半が終わり、試験が近づいた。
みずはは大学の試験のために、よく僕の勉強を見てくれた。「見てくれた」というより「隣に座って、テキストを読んでいた」という感じだが、誰かが近くにいると集中しやすかった。
「これ、わかる?」とある時みずはにテキストを見せた。農業生態学の問題だった。
みずははしばらく読んで「……水循環の部分は、理解しやすいです」と言った。「でも炭素循環は、あまりわかりません」
「水循環は得意なの?」
「水がどう動くか、体で知っているので」
「体で知ってる……それ、農学的には最強の理解だよ」
「そうですか?」
「教科書で覚えるより、実体験で理解している方が応用が利く。みずはが川に入ると水の流れがすぐわかるのは、そういう理由だと思う」
みずはは少し考えた。「……私は学校に行ったことがないので、自信がなかったのですが」
「行ってなくても、知識はある。体験が理解の土台になってる」
「……大学に行ける、かもしれませんか?」
「え?」
みずははちょっと恥ずかしそうに「悠太さんの大学を見ていて、私も勉強してみたくなりました」と言った。「でも、学校に行ったことがないから、資格がないと思って」
「資格って?」
「高校の卒業資格とか……」
「高卒認定試験ってのがある。試験を受ければ大学入学資格が取れる」
みずははぱっと顔を上げた。「そういう方法があるんですか?」
「ある。みずはなら、特に理系は得意そうだし。試してみる価値あると思う」
「……試してみたいです」
「じゃあ一緒に勉強しよう。僕も教えられることは教えるから」
「でも、悠太さんは大学の勉強がありますから」
「一緒にやれば効率いい。僕も復習になるし」
みずははじっと僕を見た。「……悠太さんって、本当に」
「うん?」
「なんでも、一緒にやろうと言いますね」
「そういう性格なんだと思う。農業も、一人でやるより皆でやった方が楽しいから」
「……嫌じゃないです、そういうの」
「よかった」
「……好きです、そういうの」
みずはは言ってしまってから、少し慌てたように視線を逸らした。
赤くなっていた。
僕も、なんか変な心臓の動きを感じた。
二
二月の終わり。
高校卒業認定の参考書を二冊買ってきた。みずは用に。
「これ」と渡すと、みずはは大事そうに受け取った。
「……ありがとうございます」
「数学と理科が得意だと思うから、そこから始めよう。国語と社会はちょっと特訓が必要かも」
「国語は、難しいですか?」
「現代文は感覚で解けることもあるし、古文が少し問題かも」
「古文……時代劇の言葉ですか?」
「そうそう、それに近い」
「それなら、少しわかります。時代劇を長年見てきたので」
「時代劇が役に立つとは思わなかった」
「テレビは……勉強になります」
みずははそう言って参考書を開いた。数学のページから読み始めた。
「あの、みずは」
「はい?」
「なんで大学に行きたいと思ったの?」
みずはは手を止めた。少し考えてから「悠太さんを見ていて、羨ましかったです」と言った。
「羨ましい?」
「好きなことを学んで、好きなことを仕事にしようとしているのが……羨ましかった。私も、好きなことをちゃんと学びたいと思って」
「好きなこと?」
みずははちょっと照れたように「水のこと……です。水環境学とか、水生生物とか」
「それ、農学部にある分野だよ」
「……知っています。悠太さんのテキストで見ました」
「じゃあ同じ大学に来れるかもしれない」
「……一緒に、授業を受けられますか?」
「受けられる。選択科目によっては被るかも」
みずははちょっと笑った。嬉しそうな、でもちょっと恥ずかしそうな顔で。
「……頑張ります」
「頑張れ。応援する」
みずはは参考書に向き直った。
その横顔を見ながら、僕は思った。
(みずはが隣で勉強してる時間が、好きだな)
(この時間が続くといいな)
そう思ったことを、自覚した。
三
三月。
引っ越してきてちょうど一年が経った。
「早いな」と僕は言った。
「一年……そうですね」とみずはが言った。
二人でリビングにいた。窓の外に春の光が差し込んでいた。
「一年前、この浴室でバッタリ会ったな」
「……驚きました」
「僕の方が驚いた」
「どちらもびっくりしたんですね」
「あの時の悠太さんは、とても慌てていて……面白かったです」
「面白かった?」
「驚いているのに、水を持ってきてくれたので」
「そりゃ困ってたら助けるでしょ」
「普通は、逃げると思いますが」
「逃げる必要なかったから」
みずはは少し笑った。「……農家育ち、すごいです」
「じいちゃんの教えが良かったんだと思う」
「お祖父様に、会ってみたいです」
「言ってたよ、みずはも来いって」
みずははちょっと目を丸くした。「本当ですか?」
「本当。春休み、岐阜に来る?」
みずははしばらく黙った。「……行っていいんですか?」
「歓迎するって言ってた。カッパを家に入れることを、うちの家族は嫌がらないと思う」
「なんで?」
「農家だから。自然を相手にしてると、変なものへの耐性がつく」
「変なもの……私のことですか?」
「褒め言葉で言った」
みずははちょっと困ったような顔をした。「……カッパを変なものと言う悠太さんも、変だと思います」
「お互い様だ」
みずははくすっと笑った。
「……行きます、岐阜に。長良川も、見てみたいです」
「じゃあ決まり。春休みに帰省しよう」
みずはは嬉しそうに頷いた。そして少しだけ間があって、「悠太さん」と言った。
「うん?」
「一年間……ありがとうございました」
「こちらこそ。料理してもらったり、いろいろと」
「そういう意味ではなくて」
「え?」
みずはは少し俯いた。「……孤独じゃなかったです、この一年。それが……ありがとうございます」
その言葉は、とても静かで、でも重かった。
「こちらこそ、みずはがいてくれて良かった」と僕は言った。「本当に」
みずはは顔を上げた。少し目が潤んでいた。カッパは泣くのかどうか知らなかったが、目が潤んでいた。
「……悠太さん」
「うん」
「私は」
言いかけて、止まった。
「続きは?」と僕は聞いた。
みずはは少しだけ俯いて、「……後で言います」とだけ言った。
後で。
その「後で」が、春休みの岐阜で来るとは、この時思ってもいなかった。




