第九話 昇格の代償
軍務補佐。
渡された木札を、俺は何度も見返していた。
まだ実感がない。
昨日まで雑務係だった人間が、いきなり全軍の補給監査だ。
「……夢じゃないよな」
呟いた瞬間。
「夢なら覚めてほしいものだな」
背後から冷たい声がした。
振り返る。
知らない武官が立っていた。
年は三十ほど。
鋭い目つきで、明らかに不機嫌そうだ。
「貴様が例の雑務係か」
「……はい」
「今は軍務補佐、だったな」
言い方に棘がある。
周囲の兵たちも距離を取っていた。
さっきまで普通に話していたのに。
空気が違う。
歩き出す。
だが視線が刺さる。
ひそひそ声。
「丞相直命らしいぞ」
「雑務上がりが?」
「郭嘉殿の推薦とか……」
聞こえてしまう。
歓迎ではない。
警戒。
いや――反感だ。
(そりゃそうか)
いきなり現れた無名の人間が、監査権限を持ったのだ。
嫌われない理由がない。
補給倉へ向かう。
入口で兵が道を塞いだ。
「立入禁止だ」
木札を見せる。
「監査命令を受けています」
兵は動かない。
「……確認が必要だ」
露骨な足止め。
数秒の沈黙。
やがて奥から別の声。
「通せ」
現れたのは年配の補給官だった。
目が笑っていない。
「丞相のお気に入り殿か」
「違います」
「謙遜は結構」
道が開く。
だが歓迎ではないのは明白だった。
倉庫の中は忙しい。
兵糧袋が運ばれ、記録が書き込まれていく。
戦は止まらない。
つまり仕事も止まらない。
俺は帳簿を開いた。
確認。
照合。
計算。
地味で終わりのない作業。
だが。
背中に感じる視線が重い。
「……信用されていないな」
思わず漏れた。
「当然でしょう」
横から声。
いつの間にか郭嘉が立っていた。
「昇格とは孤独になることです」
相変わらず静かな口調。
「昨日まで仲間だった者が、今日から監督者になる」
帳簿を覗き込む。
「人は監視されるのを嫌います」
「……分かっています」
「いいえ」
郭嘉は首を振った。
「まだ分かっていない」
視線が鋭くなる。
「これからあなたは嫌われます」
はっきり言った。
「正しく仕事をするほどに」
言葉が刺さる。
「それが“代償”です」
「なぜ俺なんですか」
思わず聞いていた。
「もっと経験者がいるはずです」
郭嘉は少し考え、答えた。
「経験者は慣れます」
「慣れる?」
「見逃すことに」
静かな声だった。
「あなたは違う。違和感を放置できない」
微笑む。
「だから丞相は選びました」
背筋が伸びる。
だが同時に、重さも増した。
その時。
倉庫の奥で怒声が上がった。
「誰の許可で帳簿を触っている!」
武官が歩み寄ってくる。
いつぞや見た副官だ。
顔は怒りに染まっている。
「監査など現場を混乱させるだけだ!」
周囲の兵が止まる。
空気が張り詰めた。
「貴様一人の判断で軍が動くと思うな!」
正面から睨まれる。
逃げ場はない。
俺は木札を握った。
「……仕事です」
「何?」
「軍を止めないための仕事です」
沈黙。
副官は舌打ちした。
「気に入らんな」
吐き捨てる。
「その権限、いつまで続くか見ものだ」
去っていく背中。
明確な敵意だった。
----
郭嘉が小さく息を吐いた。
「始まりましたね」
「何がです?」
「出世争いですよ」
さらりと言う。
「あなたが上がれば、誰かが下がる」
帳簿を閉じる。
「だから人は抵抗する」
外では兵たちの声が続いている。
戦は変わらず進む。
だが俺の世界は、確実に変わっていた。
(……楽な仕事じゃないな)
それでも。
逃げるつもりはなかった。
これはもう、俺の仕事だからだ。




