第八話 曹操、雑務係と対面する
本営は静かだった。
前線とは別の緊張がある。
兵の声は低く、足音すら抑えられている。
ここが軍の中心――曹操の幕営。
「入れ」
案内の兵に促され、天幕へ足を踏み入れる。
空気が変わった。
重いわけではない。
だが、逃げ場がない。
視線を上げた瞬間、理解した。
中央に一人、座っている。
豪奢ではない衣。
武装も最低限。
しかし。
そこだけが、場の中心だった。
「……ほう」
低い声。
穏やかで、どこか楽しげ。
「その者か」
曹操。
漢の丞相。
未来の覇者。
歴史の中心にいる男が、こちらを見ていた。
視線が合った瞬間、背筋が冷える。
値踏みされている。
言葉ではなく、存在ごと。
「名は?」
短い問い。
一瞬迷い、答えた。
「……雑務係です」
天幕の空気がわずかに揺れた。
側近たちが動く気配。
だが曹操は笑った。
「良い」
指先で机を軽く叩く。
「役職で名乗る者は嫌いではない」
逃げ道を与えられた気がした。
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「補給異常について聞こう」
曹操は言った。
「夏侯惇から概要は受けた。だが――」
視線が鋭くなる。
「私は数字を信じる」
竹簡が差し出される。
「説明せよ」
試験だ。
俺は息を整えた。
「兵糧の減少量は帳簿上、正常です」
「うむ」
「ですが消費速度と兵数が一致しません」
「理由は」
「複数人による横領です」
周囲がざわつく。
曹操は止めない。
ただ見ている。
「証明は?」
「誤差が存在しないことです」
曹操の眉がわずかに動いた。
「続けよ」
「戦場では必ず誤差が出ます。搬入遅延、計量差、配給漏れ。ですが今回はゼロでした」
竹簡を指す。
「つまり誰かが“修正”しています」
沈黙。
数秒。
長く感じた。
やがて曹操が笑った。
「面白い」
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「多くの者は数字の違いを見る」
曹操は言う。
「だが貴様は、違いが“無い”ことを見た」
立ち上がる。
一歩近づく。
距離が縮まるだけで圧力が増した。
「なぜ気づいた」
問いは静かだった。
だが逃げられない。
「……仕事だからです」
思ったまま答えた。
「雑務は、ズレを埋める仕事です」
曹操が目を細めた。
「だからズレが無いと気持ち悪い」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
曹操は声を上げて笑った。
「ははは!」
天幕の空気が変わる。
側近たちが驚いた顔をする。
「郭嘉」
背後に声を投げる。
「お前が寄越した理由が分かった」
幕の影から一人が現れた。
郭嘉。
涼しい顔で一礼する。
「お気に召しましたか」
「実に良い」
曹操は言った。
「武勇ではなく、仕事で軍を支える者か」
こちらを見る。
視線が変わっていた。
観察から、評価へ。
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「雑務係」
「はっ」
「補給監査を任せる」
一瞬、理解が追いつかない。
「全軍だ」
周囲が息を呑んだ。
副官が思わず口を開く。
「丞相、それは――」
「問題あるか?」
一言。
誰も逆らえない。
曹操は続けた。
「戦は剣で勝つのではない」
静かに言う。
「飯で勝つ」
その言葉は重かった。
「乱れた兵站は国を滅ぼす」
俺を見る。
「貴様の仕事は小さくない」
逃げ道は、もうない。
「やれるか?」
断れるはずがなかった。
「……やります」
曹操が頷く。
「よろしい」
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退出しようとした時。
「待て」
呼び止められる。
振り返る。
曹操は机に戻りながら言った。
「名を持たぬのは不便だな」
筆を取る。
さらりと何かを書いた。
「これを使え」
渡された木札。
そこには新しい役職が刻まれていた。
『軍務補佐』
心臓が跳ねた。
「今日より貴様は雑務係ではない」
曹操は微笑んだ。
「私の仕事を助ける者だ」
天幕を出た瞬間、膝が震えた。
(……とんでもないことになった)
ただの雑務のはずだった。
それが今や、軍全体の仕事になっている。
背後で旗が風に鳴った。
まるで、新しい戦が始まる合図のように。




