第七十三話 華容道の決算報告
赤壁の炎から逃れた曹操軍を待っていたのは、
泥濘と絶望が支配する難所、
華容道だった。
もはや軍としての体をなしておらず、
かつて十万を数えた兵の数は、
峻の計算によれば今や数千にまで目減りしている。
「……峻殿、もう歩けません。
この泥に、足だけでなく魂まで吸い取られそうです」
韓恢が泥まみれの手で、
かろうじて守り抜いた最後の帳簿を抱えながら、
力なく呟く。
峻は、泥濘に足を取られながらも、
手元の算盤を一度も手放さなかった。
「魂などという『評価不能な資産』に
構っている暇はありません。
……韓恢殿、聞こえますか。
……この泥濘を越えるには、
動けなくなった馬を敷き詰めてでも、
道を造るしかない。
……それは、現在の保有資産を、
すべて『消耗品』として使い潰し、
主君の命という『唯一の資本』を
無事に届けるための、究極の設備投資です」
峻の言葉は、冷徹さを通り越して、
ある種の狂気を帯びていた。
敗戦の混乱の中でも、
彼は「何を捨てれば何が残るか」を、
秒単位で計算し続けている。
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だが、その行く手を阻むように、
一人の巨大な影が立ち塞がった。
燃えるような紅い顔に、長く美しい髭。
青龍偃月刀を携えた、
義の化身・関羽である。
「……ここまでか」
曹操が、覚悟を決めたように目を閉じる。
絶体絶命の瞬間。
峻は曹操の前に一歩踏み出し、
懐から一枚の、煤で、
汚れた古い「預かり証」を取り出した。
「……関羽殿。
貴方はかつて曹操様に仕えていた際、
膨大な『恩義』という名の無形資産を、
借り受けたはずだ。
……その利息を含めた総額は、
今、貴方が曹操様の首を跳ねることで得られる、
『手柄』という一時的な利益を、はるかに上回る」
関羽の眉が動く。
峻は構わず、算盤を弾くように言葉を重ねた。
「……今ここで曹操様を逃がせば、
貴方は天下に『義』という名の、
不滅のブランドを確立できる。
……逆に、弱り切った主君を討てば、
貴方の帳簿には『不義』という名の、
巨大な欠損が一生残り続ける。
……関羽殿。貴方という高潔な『経営者』にとって、
どちらが賢明な投資か、判断を仰ぎたい」
峻の主張は、感情に訴えかける「情」ではなく、
関羽という男の、
「価値」を損なわないための、
冷徹な利益誘導だった。
沈黙が華容道を支配する。
やがて、関羽は静かに道を空け、
その重厚な背を向けた。
「……行け。……借りた恩は、これで『完済』とする」
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「……助かったのか」
曹操が、震える声で呟く。
「……いえ。恩義という名の、
『特別利益』を使い果たしただけです」
峻は、泥に汚れた眼鏡を拭き、
関羽が去った道を冷ややかに見つめた。
「……曹操様。……これで我が軍の負債は、
歴史上類を見ない規模にまで膨れ上がりました。
……これからは、一分の無駄も許されない、
地獄の『再建計画』が始まりますよ」
峻の手元にある帳簿。
そこには、赤壁で失ったすべてを、
いつか必ず取り戻すための、
血の滲むような「再起の数式」が、
書き込まれようとしていた。




