第七十一話 東南の風と、不渡りの予感
長江の北岸、連環された船団の上は、
峻がもたらした「安定」によって静まり返っていた。
兵たちは揺れのない甲板で炊き出しを行い、
馬さえも大地にいるかのように落ち着き払っている。
「……峻殿、
現在の軍全体の『稼働率』は九十八パーセント。
船酔いによる欠損は完全にゼロとなりました」
韓恢が、誇らしげに最新の帳簿を差し出す。
だが、峻は算盤を叩く手を止め、
天幕の隙間から外を睨みつけていた。
「……おかしい。数字が、わずかに滑っています」
「滑っている? どういうことです?」
峻は立ち上がり、
湿った空気を手で払うように動かした。
「冬のこの時期、
風は北西から吹くのが理です。
……その風圧を計算に入れ、
我軍の船団は北岸に重心を置いて係留されている。
……しかし、先ほどから風向が『三度』南へ振れました。
……さらに気圧の低下。
……これは、私の帳簿にはない、
未知の『外的要因』の介入を示唆しています」
峻の懸念を裏付けるように、
深夜、陣中に不気味な生暖かい風が吹き込み始めた。
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その時、曹操の元に、
呉の老将・黄蓋からの「降伏状」が届く。
「……峻、見たか! 黄蓋が寝返るという。
……この連環された無敵の船団を前に、
呉の連中もついに『破産』を認めたのだ!」
曹操は上機嫌で酒を煽るが、
峻の表情は氷のように冷めたままだった。
「……曹操様。……私はその降伏、承認できません」
「何だと?」
「黄蓋の差し出した軍需物資のリスト、
および彼の船団の喫水予測。
……計算が合いません。
……降伏を装って接近する船にしては、
あまりにも『速度』を重視した軽量設計になっている。
……あれは物資を積んだ輸送船ではなく、
引火性の高い燃料を詰め込んだ、
片道切符の『特攻兵器』である可能性が極めて高い」
峻の言葉に、周囲の将官たちがざわつく。
だが、曹操は笑い飛ばした。
「考えすぎだ、峻!
この南風は一時的なもの。
……仮に火を放たれたとしても、
この巨大な船団の『消火コスト』を考えれば、
致命傷には至らん!」
「……いえ、曹操様。
……連結された固定資産は、
一つの損失が全体に波及する『連鎖倒産』を招く。
……直ちに連環の鎖を解き、
船団を分散させてください!
これでは、赤字が雪だるま式に膨れ上がります!」
峻の悲鳴に近い進言が、
赤壁の夜空に響く。
だが、その瞬間。
「――火だ!
南から、火を噴く船が突っ込んでくるぞ!」
絶叫が上がった。
峻の眼鏡の奥で、
暗黒の長江を真っ赤に染める、
巨大な「火」の数字が爆発的に増殖を開始した。




