第四十四話 血族の算譜
曹仁。
曹操の従弟であり、軍の重鎮。
その男が今、鋼の軍勢の背後に立ち、静かに剣を抜いた。
「……身内が最大の欠落であったか」
曹操の声は低い。
怒りではない。
ただ、事実を帳簿に書き込むような冷たさ。
曹仁は歩み寄る。
一歩。
また一歩。
「従兄上。貴方の覇道は速すぎる」
剣先がわずかに揺れる。
「荀攸が恐れた通り、このままでは曹一族は貴方と共に燃え尽きる」
「だから、私を削ると?」
「そうだ」
即答。
「貴方を退かせ、私が管理する。それが一族の生き残る道だ」
――管理。
その言葉に、峻の思考が止まる。
(違う)
帳簿と、合わない。
何かが決定的に噛み合っていない。
峻は巻物を見た。
数字。
流れ。
資金。
そして――“出所”。
(……おかしい)
次の瞬間。
「……嘘だ」
小さく、だがはっきりと声が落ちた。
空気が張り詰める。
曹仁の視線が、峻を射抜く。
「黙れ、小役人」
低い圧。
「お前の役目は終わった」
「いいえ」
峻は前に出た。
足が震える。
それでも止まらない。
「終わっていません」
郭嘉が息を呑む。
「おい、峻――」
「この資金は、曹一族のものではない」
峻は巻物を広げる。
「出所が違う」
曹仁の眉が、わずかに動く。
「これは盧景を経由した資金」
峻の声が強くなる。
「……袁紹軍の旧領から流れた、外部資産だ」
沈黙。
「つまり」
一拍。
「貴方が握っているのは“一族の総意”ではない」
峻は言い切った。
「外敵の金で作られた、偽りの軍です」
空気が凍る。
だが。
曹仁は――笑った。
「……だからどうした」
峻の思考が止まる。
「正義などどうでもいい」
一歩、踏み出す。
「勝つ側に資金は集まる。それだけの話だ」
郭嘉の目が細くなる。
峻の胸に、違和感が走る。
(違う……この男)
“言い訳”をしていない。
正当化すらしていない。
ただ――選んでいる。
「一族も、忠義も関係ない」
曹仁の声が低く響く。
「残るのは勝者だけだ」
その瞬間。
峻は理解した。
この男はもう、曹一族ですらない。
「……殺せ」
短い命令。
次の瞬間。
動ける兵たちが一斉に踏み込んだ。
峻の視界が狭まる。
(間に合わない)
剣が迫る。
死が、目前まで来る。
――その時。
「――そこまでだ」
空気が、裂けた。
曹操が立っていた。
音もなく。
ただそこに“現れた”ように。
その手には、一枚の信牌。
「曹仁」
低い声。
「お前の管理は、杜撰だ」
信牌が、床に落ちる。
――次の瞬間。
天井が動いた。
影。
無数の影。
音もなく降り立つ。
剣。
気配。
そして――存在感。
峻の知らない兵。
帳簿にない兵。
「……な……」
郭嘉ですら、息を呑む。
曹操は笑った。
「帳簿に載らぬ兵は、貴様だけの専売ではない」
盤面が、もう一度ひっくり返る。
峻は膝をついた。
理解した。
自分の計算。
それすらも。
「……試されていた」
曹操は、すべてを見ていた。
最初から。
そして今も。
戦は終わらない。
むしろ。
ここからが――本番だった。




