第二十一話 丞相の前で
本営中央。
曹操の幕舎の前に立つと、胸が重くなる。
昨日の戦場よりも、今の方が怖い。
「入れ」
低い声が響く。
幕を開けると、曹操が地図の前に立っていた。
背を向けたまま、指で街道をなぞっている。
振り返り、峻を一瞥する。
「来たか」
その一言だけで、空気が変わる。
峻は膝をついた。
「報告を聞こう」
曹操の声は静かだった。
だが逃げ場はない。
峻は竹簡を差し出す。
「敵の動き、補給所の歪み、横流しの証拠……すべて記録しました」
曹操は竹簡を受け取り、目を通す。
その表情は読めない。
沈黙が落ちる。
長い。
戦場の静寂よりも重い。
やがて曹操が口を開いた。
「峻」
名を呼ばれた瞬間、背筋が伸びる。
「お前は、なぜ気づいた」
問いは短い。
だが本質を突いている。
峻は息を整えた。
「……数字が、自然ではありませんでした」
「自然ではない?」
「はい。戦場の数字は乱れ、誤差が出るのが普通です。ですが」
峻は竹簡を指した。
「この補給所だけ、誤差が“消えていた”」
曹操の目がわずかに細くなる。
「誤差が消えるのは、誰かが整えている時だけです」
沈黙。
曹操は竹簡を閉じた。
「郭嘉が言っていた」
「……?」
「“峻は数字の乱れではなく、数字の静けさを見る”とな」
郭嘉が、そんなことを。
曹操は机に手を置き、峻を見下ろした。
「戦場で最も恐ろしいのは、静けさだ」
一歩、近づく。
「数字も同じだ。静けさは、誰かの意図だ」
峻は息を呑んだ。
曹操は続ける。
「お前は、その意図を見抜いた」
評価なのか、試験なのか分からない。
だが次の言葉は、明確だった。
「峻」
「はっ」
曹操は何も言わず、峻を見ていた。
測るように。
値踏みするように。
「この件、任せる」
心臓が跳ねた。
「内通者を見つけろ。補給を乱す者を、すべてだ」
「……すべて?」
「一人ではない」
曹操は断言した。
「横流しの規模から見て、複数だ。補給所だけではない。後方にも、前線にも潜んでいる」
峻の背中に冷たい汗が流れる。
曹操は続けた。
「将軍たちには知らせぬ。知らせれば、敵が潜る」
「……では、誰が?」
「お前だ」
逃げ場はなかった。
曹操は峻の目をまっすぐに見た。
「峻。お前は“軍務補佐”ではない」
幕舎の空気が止まる。
「軍の目だ」
その言葉は、褒美ではなかった。
責任だった。
峻は深く頭を下げた。
「……承知しました」
曹操は満足そうに頷く。
「行け。数字が示す先に、必ず敵がいる」
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幕舎を出ると、朝日が眩しかった。
風が冷たい。
だが胸の奥は、熱い。
(軍の目……か)
重い名だ。
だが逃げるつもりはない。
数字は嘘をつかない。
数字は裏切らない。
ならば、数字の先にいる敵を、必ず見つける。
峻は竹簡を握りしめた。
新しい任務が始まる。
そして、戦はまだ終わらない。




