第十六話 数字の嘘
夜明け前。
本営はまだ静かだった。
兵の交代も終わり、最も人の動きが少ない時間。
俺は補給帳簿を広げていた。
曹操から渡された極秘記録。
通常の帳簿とは別系統の資料。
つまり――
(公式ではない数字)
ここに嘘があれば、誰かが意図的に動かしている。
竹簡を並べる。
搬出記録。
輸送記録。
到着報告。
三列に配置する。
普通なら多少ズレる。
戦場だ。
遅延も誤記もある。
それが自然。
だが。
「……綺麗すぎる」
思わず呟いた。
数字が一致しすぎている。
誤差がない。
まるで――
後から整えたように。
(またこれか)
整いすぎた帳簿。
人間の仕事ではない数字。
筆を取り、別の計算を始める。
輸送距離。
馬の速度。
積載量。
そして止まった。
「……届くはずがない」
ある補給隊。
記録上は三日で到着している。
だが距離から計算すると――
最低四日。
つまり。
一日、消えている。
「記録が早い……?」
いや違う。
到着が早いのではない。
(途中の記録が存在しない)
背筋が冷えた。
輸送は必ず中継地を通る。
検印が残る。
だが今回、それがない。
もう一度確認。
別の日。
別の隊。
同じだった。
「……ここだ」
共通点を探す。
出発地でもない。
目的地でもない。
視線が一点で止まる。
中継倉。
河沿いの小規模補給所。
(ここを通る隊だけ記録が歪む)
地図を広げる。
位置を確認。
前線でも後方でもない。
監視が最も薄い場所。
「……盲点だ」
その時。
「随分早いな」
声。
振り向く。
郭嘉だった。
相変わらず音もなく立っている。
「軍師殿」
「眠っていない顔だ」
苦笑する余裕はない。
帳簿を差し出す。
郭嘉は流し読みし、
すぐ眉をわずかに動かした。
「なるほど」
「数字が嘘をついています」
「いや」
郭嘉は首を振る。
「数字は正直だ」
一拍。
「嘘をついているのは人間だ」
静かな言葉。
「この補給所が怪しいと?」
「はい」
「理由は?」
指で示す。
「ここを通る隊だけ、移動時間が短縮されています」
「つまり?」
「途中で何かが行われている」
郭嘉の口元がわずかに上がった。
「面白い」
「将なら兵を見る」
「軍師なら戦を見る」
一歩近づく。
「だが君は仕事を見る」
視線が鋭くなる。
「だから見つかる」
胸の奥が少しだけ熱くなる。
だが同時に理解した。
「……敵は補給を抜いています」
「可能性は高い」
郭嘉は地図を折りたたんだ。
「では次だ」
「確認する」
「現地へ?」
「当然」
さらりと言う。
軍師が自ら動くらしい。
「ただし」
郭嘉が続けた。
「そのまま行けば逃げる」
嫌な予感がした。
「では?」
郭嘉は静かに笑った。
「餌を撒こう」
背筋に寒気。
「偽の補給隊を出す」
「囮……ですか」
「そう」
灯りが揺れる。
軍師の影が長く伸びた。
「敵が動けば、正体が出る」
帳簿を閉じる。
もう調査ではない。
作戦だ。
戦が。
数字の中から始まろうとしていた。




