第十五話 密命
夜。
本営の灯が一つ、また一つと消えていく頃だった。
帳簿の整理を終え、筆を置いた瞬間。
「軍務補佐殿」
幕の外から声がした。
低く、抑えた声。
振り返ると、曹操直属の近衛兵が立っていた。
「丞相がお呼びです」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……今、ですか」
「今すぐに」
余計な説明はない。
つまり――私的な呼び出しだ。
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本営中央。
将軍たちの幕舎よりさらに奥。
警備の密度が明らかに違う。
ここへ来るのは二度目だった。
だが慣れる気はしない。
幕が開く。
中には地図。
灯火。
そして――
曹操がいた。
机に肘をつき、地図を眺めている。
顔を上げた瞬間、鋭い視線がこちらを射抜いた。
「来たか」
「お呼びと伺い、参りました」
膝をつく。
「楽にせよ」
短い言葉。
だが命令だった。
曹操はしばらく何も言わない。
沈黙が続く。
試されているのが分かる。
「補給の立て直し」
やがて口を開いた。
「見事だったな」
「……務めを果たしただけです」
「謙遜はよい」
小さく笑う。
「結果を出す者だけが軍を動かす」
曹操の指が地図を叩いた。
南方の街道。
「ここだ」
「昨日の襲撃」
視線が鋭くなる。
「偶然だと思うか?」
即答できない。
だが。
「……いいえ」
曹操は満足そうに頷いた。
「余も同意見だ」
一枚の木簡を差し出す。
「これは表に出ていない補給記録だ」
受け取る。
重い。
内容ではなく意味が。
「内部に目がある」
静かな声。
「敵は我が軍の動きを知りすぎている」
背筋が冷える。
つまり――
「内通者、ですか」
「そうだ」
曹操は迷いなく言った。
「将軍たちに調べさせればよいのでは」
思わず口に出る。
曹操は首を横に振った。
「将は目立つ」
「疑われれば、敵は潜る」
一歩こちらへ歩み寄る。
「だが、お前は違う」
視線が真正面から落ちる。
「誰も、お前を恐れていない」
理解した。
だから呼ばれたのだ。
「補給の流れを見ろ」
「数字の歪みを探せ」
「戦ではなく、仕事で敵を見つけろ」
これは命令ではない。
信任だった。
「……私に務まるでしょうか」
正直に聞く。
曹操は即答した。
「だから任せる」
一拍。
そして静かに続ける。
「郭嘉も同じ名を挙げた」
思わず顔を上げる。
「……軍師殿が?」
「勘の良い者は少ない」
曹操は笑った。
「余は、それを逃さん」
胸の奥が重くなる。
期待の重さ。
失敗すれば終わる仕事。
「この件は極秘だ」
「誰にも話すな」
「たとえ将軍であっても」
つまり。
軍の中で、誰も信用できない。
膝をつき直す。
「……承知しました」
曹操は背を向けた。
「結果だけを持って来い」
それが別れの言葉だった。
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幕を出る。
夜気が冷たい。
手の中の木簡がやけに重い。
(補給を見ろ、か……)
だが。
それならできる。
戦は分からない。
だが仕事なら分かる。
歩き出す。
静かな本営。
誰も知らない任務が始まった。
――敵は、味方の中にいる。




