第十三話 名を問う者
帰還した補給隊を、兵たちは静かに迎えた。
歓声はない。
ただ、安堵の空気だけが広がっている。
荷車が無事であること。
それがすべてだった。
「損害は軽微!」
報告の声が響く。
「補給物資、損失なし!」
兵たちの肩から力が抜ける。
戦において、それは勝利と同じ意味を持つ。
本営へ呼び出されたのは、その直後だった。
伝令は短く言った。
「丞相がお呼びだ」
幕舎の前で足を止める。
中から低い声が聞こえる。
軍議が終わった直後らしい。
「入れ」
許可が下りた。
中には曹操と、数名の将。
そして郭嘉。
視線が一斉に集まる。
慣れない重さだった。
「囮作戦、成功したそうだな」
曹操が言う。
「夏侯惇より報告を受けた」
「……運が良かっただけです」
「運も才のうちだ」
即座に返された。
机の上には戦報。
赤い印がいくつも押されている。
「補給線は維持された。前線は三日持つ」
指で竹簡を叩く。
「三日あれば戦は動く」
つまり。
戦局そのものに影響したということだ。
「貴様」
曹操の視線が真っ直ぐ向く。
「以前、言ったな」
記憶が蘇る。
――人を救う仕事ほど、恨まれる。
「はい」
「実感したか」
少しだけ考える。
「……はい」
短く答えた。
倉庫で向けられた視線。
捕らえられた者の言葉。
戦場の恐怖。
全部、繋がっている。
曹操は満足そうに頷いた。
「良い顔になった」
評価だった。
だが次の言葉は予想外だった。
「ところで」
一拍。
「貴様、名は何という」
空気が止まった。
郭嘉の視線がわずかに動く。
将たちも沈黙する。
答えるべき問い。
だが。
「……ありません」
正確には、名乗る必要がなかった。
雑務係に名前は要らない。
呼ばれることもない。
ただ仕事があれば良かった。
沈黙。
誰かが小さく息を呑む。
曹操はしばらくこちらを見ていた。
値踏みするように。
いや。
確かめるように。
「そうか」
短く言う。
そして立ち上がった。
「ならば不便だな」
「……?」
「働かせるにも、呼びづらい」
将の一人が小さく笑いを漏らした。
曹操は机の筆を取り上げる。
竹簡へ何かを書いた。
墨の音が静かに響く。
やがて。
それをこちらへ差し出す。
「今日より」
低く、はっきりとした声。
「貴様を軍務補佐として正式に扱う」
胸がわずかに揺れる。
「記録上、名が必要だ」
竹簡を見る。
そこには一文字。
――「峻」。
「峻は、高く険しい意」
曹操が言う。
「軽々しく越えられぬ者になれ」
言葉が落ちる。
重く。
静かに。
理解が遅れて追いつく。
これは褒賞ではない。
期待だ。
そして拘束。
もう後戻りできない。
「……拝命します」
頭を下げる。
声が少し震えた。
郭嘉が横で微笑む。
「良かったな」
「そうでしょうか」
「名を与えられるのは」
一拍置いて言う。
「逃げ場を失うということだ」
幕舎を出る。
夕風が頬を撫でた。
手の中の竹簡が重い。
そこに書かれた一文字。
俺のものになった名。
兵がこちらを見る。
誰かが小声で言った。
「……軍務補佐殿」
呼ばれた。
初めて。
役職ではなく。
存在として。
胸の奥で何かが静かに変わる。
もう。
ただの雑務係ではない。




