表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/14

第二十章 コントローラー仮説 / The Controller Hypothesis

昼間の呼吸法アワードが壮大な仮説を生み出す⋯

午後11時09分 イギリス、マンチェスター、ホテルの一室。


窓の外では、マンチェスターの街の灯りが、雨上がりの夜空に滲んでいた。


あの日中の喧騒…『第一回マンチェスター呼吸法アワード』なる、奇妙な祭典の熱狂が嘘のように、今は静かな時間が流れている。


アリサは、ホテルの部屋の窓辺に立ち、淹れたての紅茶の湯気を見つめながら、コスモスに話しかけた。


「…信じられる?コスモス。たった数日前、私たちがこの街に来た時には、誰も『呼吸法』なんて気にしていなかった。それなのに、今や街中が『妻の呼吸』だの『謝罪の呼吸』だのって…人間の判断や行動って、あんなに簡単に変わってしまうものなのね」


アリサは、あのテレビ番組の光景を思い出し、ふっと笑みをこぼした。


「まるで…そう、観測される前の量子のテブクロ?だったっけ?それみたいに、どっちに転ぶか分からない、曖昧なのが人間の判断なのかしらね」


《ドクター・アリサ。あなたのその直感は、非常に興味深い視点を含んでいます》


コスモスの声が、静かな部屋に響いた。


《人間の認知プロセスが、量子力学の法則と類似した振る舞いを示す、という研究分野があります。『量子認知(Quantum Cognition)』と呼ばれるものです》


「量子認知?」アリサは振り返った。


「詳しく教えてくれる?」


《承知しました》


コスモスは、タブレットの画面に、喫茶店のメニューのイラストを表示した。


《例えば、今、デザートにケーキを頼むか、アイスを頼むか、迷っているとします。決める前のドクター・アリサの心は、「ケーキ」と「アイス」のどちらか一方に決まっているわけではありませんよね?》


「ええ、まあ…どっちも美味しそうだし」


《それです。量子認知では、決断前の心は、「ケーキを食べたい可能性」と「アイスを食べたい可能性」が、まるで霧のようにフワフワと重なり合った状態にある、と考えるのです。量子力学の『重ね合わせ』に似ています》


「フワフワ…ねえ」


アリサは、その奇妙な表現に少し笑った。


《そして、「よし、ケーキにしよう!」と決断したり、店員さんに「ご注文は?」と聞かれたりする。その瞬間が、量子力学でいう『観測』にあたります。その瞬間、心の中のフワフワした霧は晴れて、「ケーキを食べる」という一つの現実が、カチッと確定するのです。アイスを食べていたかもしれない未来は、その瞬間に消え去ります》


《面白いのは、この「確定」の仕方が、とても気まぐれなことです。例えば…》


コスモスは、画面に怒った顔のイラストを表示した。


《もし、ドクター・アリサが、ミラー教授から昼間に酷く叱られて、とても落ち込んでいたとします。なお、これは決していまの助成金の使い方の未来予測ではありませんが⋯》


(うっ⋯)


《さて、その状況、つまり文脈でデザートを選ぶとしたら、甘くて濃厚なケーキを選ぶ確率が、さっぱりしたアイスよりも高くなるかもしれません。つまり、聞かれ方や、その時の気分や状況によって、むたは天候によって、心の中のフワフワの状態である『確率』が影響を受け、最終的な答えが変わってしまうのです。これが量子力学では『文脈依存性』と言います。聞こえは難解ですが、実際はそれほど複雑な話ではありません。古典的な合理的な判断モデルでは、上司に叱られたこととデザートの選択は無関係なはずですが、人間の心はそうではありませんよね?》


アリサは頷いた。


「確かに…。マンチェスターの呼吸法ブームも、ラグビーの熱狂とか、マーガレットさんのワインとか、はじけたデイビッドとか、いろんな『文脈』が重なって、あんなおかしな方向に転がっていったのかも」


《その通りです》


コスモスが続ける。


《つまり量子認知とは、人間の心が持つ、一見非合理に見える『あいまいさ』や『気まぐれさ』を、量子力学の数学という、全く違う分野の言葉を借りて説明しようとする試みなのです。論理だけでは割り切れない人間の心の動きを理解するための、新しい道具箱、といったところでしょうか》


アリサは、コスモスの分かりやすい解説を聞きながら、頭の中でパズルのピースが組み合わさっていくのを感じていた。


(待って…もし、人間の思考が、そんなにも曖昧で、外部からのちょっとした「観測」や「文脈」で簡単に変わってしまうものだとしたら…?デイビッドは言っていた。『過去は変えられない。因果律は絶対だ』と⋯でも、もし人間の「思考」という、この不安定な要素が、歴史の重要な分岐点で、予期せぬ『揺らぎ』を生み出してしまったら…?)


アリサの中で、一つの仮説が、稲妻のように閃いた。


「コスモス…!もしかして、未来人類がもし今の世界に介入しているとしたら⋯あの、何だっけ⋯、そう、量子ビッドとワームホールを使って!」


アリサは興奮して続けた。


「歴史を変えるためじゃない。因果律は変えられないのだから!だとしたら、その逆…、人間の思考や、あるいは自然界の量子的な『揺らぎ』が、本来起こるはずだった『結果』を、予期せず変えてしまうことを、防ぐためなのでは…!?」


《…論理的整合性を検証します》


コスモスは暫くの間沈黙し、そして確信的に答えた。


《肯定します、ドクター・アリサ。あなたの仮説は、『量子情報による介入の可能性』、そして『歴史の決定論』という要素を、最もエレガントに統合するモデルです。未来人類が仮に介入しているとしたら、ですが、その目的は、歴史を『変える』ことではなく、量子の不確定性というノイズから、歴史の『脚本』を守ることである可能性が…》


「そうか…!」


アリサは、窓の外の夜景を見つめた。点滅する街の灯りが、まるで宇宙の星々のように見える。


《その仮説を裏付けるかもしれない、最も劇的な事例を一つ、ご紹介しましょう》


コスモスは、タブレットの画面に、軍服を着た男性の古い写真を表示した。穏やかだが、強い意志を感じさせる瞳をしている。


《彼の名は、スタニスラフ・ペトロフ。旧ソ連の元中佐です。1983年9月26日、彼はモスクワ郊外の秘密地下基地で、核攻撃早期警戒システムの当直責任者でした》


コスモスは、その日の出来事を淡々と語り始めた。


《その日、システムはアメリカから5発の大陸間弾道ミサイルが発射されたという、最高レベルの警報を発しました。マニュアルによれば、ペトロフ中佐の任務は、即座にその警報を上官に報告し、全面核報復を開始するプロセスを起動させることでした。もし彼がマニュアル通りに行動していれば、数億人が死に至る第三次世界大戦が始まっていたでしょう》


アリサは息をのんだ。


《しかし、彼は、極度のプレッシャーの中で、警報にいくつかの不審な点を見出します。『もしアメリカが先制攻撃するなら、たった5発のはずがない』『この警報システムは導入されたばかりで信頼性が低い』と。彼は、自らの軍歴と命を賭けて、その警報を『誤報』だと判断し、上官にはシステムの誤作動として報告しました。後に、警報は衛星が高層雲に反射した太陽光を誤検知したものだったことが判明します》


画面には、地球儀の上を赤い軌跡が飛び交う、核戦争のシミュレーション映像が重ねられる。


《ドクター・アリサ。考えてみてください。その極限状況で、巨大な国家システムの歯車の一つであるはずの軍人が、マニュアルではなく自らの理性を信じ、世界を救う決断を下す。それは、統計的に見て、どれほど起こりにくい『ゆらぎ』だったでしょうか。仮に、ですが、当直者が別の人物だったら、どうなっていたのでしょうか。また、仮に、このペトロフ中佐に家族がおらず、最近失恋しており、自暴自棄になりかけていたとしたら、回避できたのでしょうか。また、逆に、このペトロフ中佐に愛する家族がおり、その家族を守ることを最優先したとしたら、敵の能力を削減するために反撃をするという判断が妥当になった可能性があります》


コスモスは、ペトロフ中佐の写真に静かにズームインした。


《もしかしたら…コントローラーからの、ほんのわずかな『ささやき』…、つまり『疑え』という量子情報による補正が、彼の心を僅かに慎重な判断に寄せたのかもしれません。歴史の脚本が、破滅というノイズによって書き換えられてしまうことを防ぐために…》


アリサは、言葉を失っていた。人類の存続という、あまりにも重い現実が、たった一つの「ゆらぎ」にかかっていたのかもしれないという事実に⋯


(明日、この話をサミール博士とデイビッドにぶつけてみよう!彼らなら、きっと…!)


この夜、アリサが構築した仮説を整理するとこのようなものだった。


フェルミのパラドックス、つまり誰からも侵略されないこの静かな宇宙と、ホモサピエンスが幸運にも生存し、ここまでの文化文明を築けた背景が、『単なる偶然の積み重ねではない』、というものである。非常に挑戦的な仮説であるが、アリサはその可能性があると考えたのだ。


人類がここまでに至り、そして未来人類へとそのバトンがつながれていくためには、このバトンがどこかで落とされてはならない。そのため、未来人類は、遠い将来に、量子ビッドとワームホールを使えるようになった時点で、過去の人間の判断の揺らぎに介入し、ごく僅かな影響を与え、その判断が未来の人類に繋がれる道を閉ざさないように監視し、その危険性があると判断された場合に軌道修正している、というものである。


因果律は変えられない。つまり、未来人類が過去に介入することも変えられないのである。未来人類は、その因果律の法則を理解しているので、彼らは正に人類史への義務として、過去に介入せざるをえないのだ。


ホモサピエンスの遺伝子に生存に有利なネアンデルタール人の遺伝子が組み込まれたこと、ジャンヌが聴いた神の声、ユダヤ教の信仰の父であるアブラハムが聴いた声、ゼロの発明、その背後にある哲学的思想の土台、産業革命、人類の歴史が未来人類の歴史に繋がるようにコントロールされていること、それがアリサが行き着いた『コントローラー仮説』である。


しかし、アリサにはまだ解かなければならないことが残っている。


一つ。コントローラーは、未来人類が誕生するために必要な地球外知的生命体である外敵からの襲撃や侵攻を防げるのか、ということである。人間には認知の揺らぎがあり、量子ビッドとワームホールでの介入はできるかもしれない。しかし、それが通じない相手がいるのではないかということである。


二つ。コントローラーは、本当に因果律の法則を守るためだけに介入しているのか、ということである。未来人類の叡智を使えば、人間社会をより良い発展に導く積極的介入が出来ている可能性はないのか。それは、今既に行われているのか、または、それは因果律の法則からやはり不可なのか。


三つ。エントロピーの法則、つまり、秩序の外に無秩序が広がるという熱力学第二法則によれば、人類の地球規模での共同体が構築され、人類が『秩序の極み』に達した後、サミールが指摘した『巨大な無秩序』は、人間社会に悪影響を及ぼさないのか。その巨大な無秩序により、人間社会が崩壊・消滅するのであれば、過去に介入出来るだけの科学技術を持つ未来人類は生まれないはずであり、そのため、このコントローラー仮説そのものが成り立たない。つまり、コントローラー仮説が成り立つならば、未来人類は、その巨大な無秩序を乗り越えた証拠にもなる。果たして、その巨大な無秩序とはどのようなものなのか、そしてそれはいつ起きるのか。


四つ。もちろん、人類史が単なる偶然の積み重ねであることもまた、仮説としては当然否定されないのである。むしろ、この方があり得る話だ。アリサが未来人類からの介入を立証することができれば、それは人類史上最大の発見となる。しかし、そのことを未来人類が見過ごすはずはなく、結果として、量子ビッドとワームホールの影響により、アリサの思考は影響され、仮説立証に至る発見は不可なのではないか。唯一の可能性は、未来人類がアリサにその介入を知らせることが因果律の法則になっている場合のみである。果たして、そのようなことはあり得るのか⋯


この夜、アリサの探求は、また一つ、深遠な扉を開いた。コントローラーの正体へ、そして人類の運命そのものへと繋がる、長い螺旋階段の、次なる一段へと。


マンチェスターの夜空の下で、彼女の心は、再び確かな熱を取り戻していた。


 

⋯しかし、そんなことは、今のマンチェスターの夫たちには、取るに足らないことなのかもしれない。彼らにとっては、未来の巨大な無秩序よりも、今日のわが家の紅茶の出方の方が、はるかに重大なのだ⋯


妻たちの圧倒的な呼吸法の前に、マンチェスターの夫たちは沈黙した…。そして、あの呼吸法の裏の意図を知ってしまった夫たちもわんさかといた⋯。この日、その余波で、マンチェスターの男たちのラグビーワールドカップへの熱狂が約28%低下した事実は、歴史の知るところではない⋯


しかし、彼らは彼らなりに、日々の生活の中で静かなる抵抗…いや、適応の術を編み出していたのである。


ここに、その涙ぐましい努力の成果を二つ紹介しよう。


1. 虚空への呼びかけの呼吸 / Echo Chamber Affirmation Breathing

型: 壱ノ型:届かぬ想い / First Form: Hopeful Transmission

対象: 主に「妻の呼吸、壱ノ型:完全なる沈黙」へのカウンターとして開発された。

解説:妻の「完全なる沈黙」によって生み出された虚無空間に対し、あたかも重要な会話が成立しているかのように、一方的に自らの考えや要望を語り続ける技。時折、返事が来るはずもないのに、期待のこもった表情で間を置くのがポイント。テレビやビールグラスなど、明らかに無生物と分かっている対象に視線を合わせながら話すと、熟練度が増す。


2. 茶柱解読の呼吸 / Beverage Barometer Breathing

型: 弐ノ型:嵐の前のティーカップ / Second Form: Storm in a Teacup Analysis

対象: 主に「紅茶解決の呼吸、弐ノ型:沸騰寸前」発動時に自動的に起動する受動的呼吸法。

解説:問題解決の手段として紅茶が差し出された際、表向きはそれを受け入れつつ、その淹れ方に込められた真のメッセージ(怒りのレベル)を読み解こうとする生存戦略。分析項目は多岐にわたるのだ:

・湯の温度(熱湯=激怒)

・カップを置く際の音量(大きい=危険度高)

・ビスケットの有無(無し=最大級の警戒態勢)

・そして視線が合う時間の長さ(ゼロ=即時避難推奨)


これらの呼吸法は、妻たちのそれと違い、状況を打開する力はほとんどない。誠に残念だが⋯


しかし、夫たちが日々の小さな戦い(あるいは一方的な敗北)の中で、ささやかな尊厳とユーモアを保つためには、必要不可欠な精神統一法なのである…。


今のマンチェスターの夫たちほど、量子ビッドとワームホールが欲しい人達は、いないのかもしれない⋯

果たして、サミールとデイビッドはどのような反応を示すのか⋯?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ