第十九章 第一回マンチェスター呼吸法大賞! / The First Annual Manchester Breathing Technique Awards!
アリサ歓迎会がマンチェスターの街全体を揺るがすことに⋯
午後0時00分、イギリス、マンチェスター、BBCマンチェスター スタジオ。
それは、起こるべくして起こった…
いや、全く予想だにしない形で起こってしまった⋯
この日、デイビッドは、マンチェスターのお昼の人気情報番組『Mancunian Buzz』の生放送スタジオに、なぜか座っていた⋯隣には、さらに困惑した表情のアリサがいる。
ついにイギリスにUFO襲来か?それとも気象変動の緊急特番か?
いや、違う。彼らが参加しているのは、緊急企画『The First Annual Manchester Breathing Technique Awards(第一回マンチェスター呼吸法アワード)』である。
事の発端は、数日前の金曜日の夜に遡る⋯
アリサの歓迎会と称して、マーガレットが馴染みのパブ「The Wharf」に地元の名士たちを集めた夜。
そこには、顔の広いマーガレットの人脈で、市の助役や地元企業の社長、そしてサミールとデイビッドも招かれていた。
折りしもラグビーワールドカップの中継日。店内は、屈強なラガーマンたちで溢れかえり、アリサ歓迎ムードとラグビー熱という、二つの高気圧がぶつかり合っていた。
宴は、マンチェスターの人々の温かさそのままに、和やかに進んでいた。アリサも、異国の地での歓迎に心からの感謝を感じていた。そう、あのシャトー・マルゴーが登場するまでは⋯
「さあ、皆さん!」
マーガレットが高らかに宣言した。
「この素晴らしいワインを、今夜、私を一番笑わせてくれた方にプレゼントしますわ!」
ラガーマンたちが、意気揚々と立ち上がる。
「トライを決めた後、ゴールポストに『ありがとう』ってハグするんだが、あれ、実は…」
「スクラム組む時の掛け声って、本当は…」といったラグビージョークを繰り出すが、百戦錬磨のマーガレットには、どうも響かない。
その時、コスモスのスピーカーから、デイビッドの声を完璧に模倣した、しかし不自然なほど大音量の声が響いた。
「僕が!やってやる!!」
「あら、そこの大人しそうな坊や。あなたかい?」
マーガレットがデイビッドを指名する。
「さあ、笑わせてごらんなさい」
完全に不意を突かれ、ネタなどあるはずもないデイビッドは、ヤケクソになった。
彼は立ち上がり、おもむろにグラスを掲げると叫んだ。
"Physics Breathing, First Form: Black Hole!!"
『物理の呼吸、壱ノ型、ブラックホール!!』
そして、エールを一気飲み!さらに、テーブルにあった別の客の飲みかけのグラスまで掴み、
"Physics Breathing, Second Form: Wormhole!!"
『弐ノ型、ワームホール!!』
"Physics Breathing, Third Form: Big Bang!!"
『参ノ型、ビックバン!!』
と叫びながら、次々と飲み干していく。
そのあまりの滑稽さと、科学用語の無駄遣いに、マーガレットは腹を抱えて笑い転げた。
デイビッド、まさかの優勝⋯
しかし、これに黙っていなかったのがラガーマンたちだ。
「なんだその貧弱な呼吸は!本当の呼吸を見せてやる!」
彼らは「栄光の泥滑走の呼吸」や「スクラム組み直し耐久の呼吸」を披露し(もちろん、店内でだが⋯)、デイビッドに対抗。
酔いが回り始めたデイビッドも、「物理の呼吸、奥義!量子もつれ!!」などと叫びながら応戦(その内容は、もはや誰にも理解不能だったが)⋯
このカオスな夜会の様子を、たまたま店の前を通りかかったマンチェスターで有名なインフルエンサー、"Madchester Mike" が見逃すはずはなかった!
彼のチャンネルでのライブ配信は瞬く間に拡散。ラグビーワールドカップの熱狂も相まって、視聴者数はうなぎ上りに。マンチェスター中の紳士も淑女も少年少女も、パブで繰り広げられる「呼吸法ワールドカップ」に熱狂した。
翌日、その熱狂はマンチェスター中に伝染するのである⋯
職場では上司への皮肉を込めた「責任転嫁の呼吸」が、学校では「一夜漬けの呼吸」が、家庭では「妻の呼吸」が次々と編み出され、SNSに投稿された。
地方議会でさえ、野党議員が「謝罪なき謝罪の呼吸」を使う与党議員を揶揄する始末⋯
この一大ブームに目をつけたのが、テレビ局と、オンラインのロト企画者だった。速やかに緊急テレビ特番『第一回マンチェスター呼吸法アワード』が企画され、優勝者を当てるロトも開始。
インフルエンサーの呼びかけで、たった一日で10部門、3580通もの呼吸法がよくぞ集まった。テレビ局は総出で候補を30個に絞り込み、そして今、デイビッド、アリサ、ラガーマン代表、マーガレット、"Madchester Mike"の5人が審査員として、その頂点を決めようとしているのだった。
「さあ、栄えある第一回グランプリは…!」
司会者が高らかに宣言する。
「妻の部門から!『Selective Hearing Breathing, First Form: Utter Silence(妻の呼吸、壱ノ型:完全なる沈黙)』!おめでとうございます!」
【妻の部門 / Wife's Department】
Gold ★★★
Selective Hearing Breathing, First Form: Utter Silence
妻の呼吸、壱ノ型:完全なる沈黙 (Tsuma no Kokyū, Ichi no Kata: Kanzen naru Chinmoku)
Description: 夫の都合の悪い話が始まった瞬間、聴覚情報を完全にシャットアウトし、穏やかな表情を保つ高等技術。
解説: 夫の言い訳や自慢話が始まった瞬間に発動。一切の音声を遮断し、微笑みさえ浮かべて相手を油断させる高等技術。
会場が拍手に包まれる。そしてテレビの前のマンチェスターの妻達が一番熱狂していた⋯
ちなみに第二位は、同じく妻の部門から『Cup of Tea Solution Breathing, Second Form: Kettle's Boiling Point(紅茶解決の呼吸、弐ノ型:沸騰寸前)』だった。どうやら、マンチェスターにおいて最強の呼吸法は、妻たちが編み出したもののようだった。
【妻の部門 / Wife's Department】
Silver ★★☆
Cup of Tea Solution Breathing, Second Form: Kettle's Boiling Point
紅茶解決の呼吸、弐ノ型:沸騰寸前 (Kōcha Kaiketsu no Kokyū, Ni no Kata: Futtō Sunzen)
Description: あらゆる家庭内の問題を「まあ、紅茶でも淹れるわ」の一言で強制終了させる。ただし、淹れ方には内心の怒りが反映される。
解説: どんな困難な問題も「とりあえず紅茶」でリセット。湯気の立ち方とカップを置く音で、真の感情を伝える奥義。
⋯番組が終わり、楽屋に戻ったアリサとデイビッドは、しばらくの間、放心状態だった。
コスモスの懸命な呼びかけでようやく我に返ると、二人はこの数日間の怒涛の出来事を振り返り、腹を抱えて笑い出した。
「こんなことって…あるのね…!」
「でも…」デイビッドが、笑いながらも、どこか不思議そうに言った。
「たった一本のワインと、僕の馬鹿げた悪ふざけが、こんな社会現象になるなんて。世の中って、本当に不思議なことばかりだ」
その言葉が、アリサの心に深く響いた。
(そうよ…人の心なんて、こんなにも簡単に揺らぐ。数日前、私は日本に帰ろうとまで思っていたのに。でも、デイビッドの言葉や、『火の鳥』の映像…ほんの些細なきっかけで、私の気持ちは完全に変わった)
アリサの中で、一つの仮説が形になり始めていた。
(未来からの介入…それは、歴史を変えるためじゃない。因果律は変えられないのだから。だとしたら、その逆…? 人間の思考の、この予測不可能な『揺らぎ』が、本来起こるはずだった『結果』を、予期せず変えてしまうことを、防ぐため…!?つまり⋯)
アリサは、マンチェスターの熱狂の真っ只中で、コントローラー仮説の、その核心に触れた気がした。しかし、その仮説はまだ粗く、さらなる整理が必要であった。
〔栄えある『入選作品』一覧〕
【妻部門】
Judge's Award (審査員奨励賞)
Weaponized Tidying Breathing: Strategic Dusting
武装整頓の呼吸:戦略的埃払い (Busō Seiton no Kokyū: Senryakuteki Hokoribarai)
Description: 相手が最もリラックスしている時間に、掃除機や埃払いを駆使して物理的に安息を妨害する。
解説: 休日の朝など、相手の安息を的確に狙い撃つ。「あら、ごめんなさいね」と言いながら、埃と共に平穏を吹き飛ばす。
Judge's Award (審査員奨励賞)
"Just Five More Minutes" Breathing: Temporal Distortion Field
「あと5分だけ」の呼吸:時間歪曲フィールド ("Ato Gofun Dake" no Kokyū: Jikan Waikyoku Fīrudo)
Description: 出かける直前などに発動。その「5分」が実際には15分にも30分にもなる、時空を操る秘技。
解説: 「あと5分で準備できるわ」は、特殊相対性理論における時間の遅延を応用した高度な技である(本人にその自覚はない)。
【英国紳士部門】
Judge's Award (審査員奨励賞)
Awkward Apology Breathing: Infinite Sorry Loop
気まずい謝罪の呼吸:無限ソーリーループ (Kimazui Shazai no Kokyū: Mugen Sōrī Rūpu)
Description: 相手の足を踏んでしまった時などに発動。「すみません」「いや、こちらこそすみません」の連鎖を、相手が根負けするまで続ける。
解説: どちらが悪かったかは問題ではない。謝罪のラリーを通じて、英国社会の調和は保たれるのだ(本心では全く悪いと思っていない場合もある)。
【学校部門】
Mysterious Lost Homework Breathing, Third Form: Selective Amnesia
謎の宿題紛失の呼吸、参ノ型:選択的健忘 (Nazo no Shukudai Funshitsu no Kokyū, San no Kata: Sentakuteki Kenbō)
Description: 宿題の提出日になると、宿題の存在自体が記憶から完全に消去される。悪びれない態度が重要。
解説: 「え?宿題なんてありましたっけ?」と、純粋な瞳で問い返す。高度な使い手は、教師に「自分の勘違いだったか?」と思わせることさえ可能。
【政治部門】
Non-Apology Apology Breathing, First Form: Regret Without Responsibility
謝罪なき謝罪の呼吸、壱ノ型:責任なき遺憾 (Shazai naki Shazai no Kokyū, Ichi no Kata: Sekinin naki Ikan)
Description: 「もし不快に思われた方がいらっしゃるとすれば遺憾です」という構文で、謝罪しているようで全く責任を認めていない状態を作り出す。
解説: 「遺憾の意」は表明するが、「誰が」「何を」したのかは決して明言しない。高度な言語操作術。
Blame Deflection Breathing, Third Form: The Previous Administration
責任転嫁の呼吸、参ノ型:前政権 (Sekinin Tenka no Kokyū, San no Kata: Zen Seiken)
Description: 現在起きているあらゆる問題の原因を、全て「前政権の負の遺産」として片付ける。記憶の上書き効果も期待できる。
解説: どんな不祥事も、「そもそも、あれは前の党が…」で解決。国民の記憶力は3日しかもたない、という前提に立った戦術。
【経理部門】
Spreadsheet Mastery Breathing, First Form: VLOOKUP Nirvana
表計算術の呼吸、壱ノ型:VLOOKUP涅槃 (Hyōkeisanjutsu no Kokyū, Ichi no Kata: Bui Rukkuappu Nehan)
Description: どんなに複雑なデータも、完璧な関数とピボットテーブルで一瞬にして整理し、悟りの境地に至る。
解説: Ctrl+C、Ctrl+Vの連打。関数エラーが出た時の絶望と、それが解消された時の万能感。その先に涅槃はある。
Budgetary Tightrope Breathing, Third Form: Zero Balance Zen
予算綱渡りの呼吸、参ノ型:残高ゼロの禅 (Yosan Tsunawatari no Kokyū, San no Kata: Zandaka Zero no Zen)
Description: 月末、予算残高が限りなくゼロに近づく中で、平静を保ち続ける精神修養。
解説: あと1ペンスでも超えたら赤字。しかし、焦らない。数字はただの概念であり、空なのである(と自分に言い聞かせる)。
Fiscal Year-End Despair Breathing: Audit Eve Terror
年度末絶望の呼吸:監査前夜の恐怖 (Nendomatsu Zetsubō no Kokyū: Kansa Zen'ya no Kyōfu)
Description: 年度末、積み上がった伝票の山を前に、朝日が昇るまで終わらない作業に絶望する。カフェインが唯一の友。
解説: 「なぜ、もっと早くからやっておかなかったのか…」という毎年繰り返される後悔。そのサイクルこそが、経理担当者の成長を促す(のかもしれない)。
【営業部門】
Judge's Award (審査員奨励賞)
Expense Report Padding Breathing: Creative Accounting
経費水増しの呼吸:創造的会計 (Keihi Mizumashi no Kokyū: Sōzōteki Kaikei)
Description: 領収書の金額を「記憶違い」や「手数料」の名目で微妙に上乗せし、日々のささやかな潤いを得る技術。バレない範囲の見極めが肝要。
解説: これは不正ではない。日々の営業努力に対する、正当なインセンティブなのである(と本人は信じている)。
Judge's Award (審査員奨励賞)
End-of-Quarter Panic Breathing: Desperate Measures
四半期末パニックの呼吸:最終手段 (Shihankimatsu Panikku no Kokyū: Saishū Shudan)
Description: 目標達成のためなら、大幅値引き、土下座、何でもありの最終局面。プライドは月末に経費で落とす。
解説: 「今月だけ!」「今回限り!」「私を助けると思って!」。人間性が試される、最も過酷な呼吸法。
Relentless Optimism Breathing, First Form: Never Say Never
不屈の楽観主義の呼吸、壱ノ型:絶対不可能はない (Fukutsu no Rakkanshugi no Kokyū, Ichi no Kata: Zettai Fukanō wa Nai)
Description: どんなに断られても、「お客様は本当は欲しがっている」と信じ込み、笑顔で次のアプローチを考え続ける精神力。
解説: 「必要ありません」は「今はタイミングが悪いだけ」と翻訳される。「考えておきます」は「ほぼ契約成立」と同義。
【店舗部門】
Judge's Award (審査員奨励賞)
Stock Room Vanish Breathing: The Art of Disappearance
在庫室消失の呼吸:失踪術 (Zaiko Shitsu Shōshitsu no Kokyū: Shissō Jutsu)
Description: 面倒な客に捕まりそうになった瞬間、「在庫を確認してまいります」と言い残し、そのままバックヤードに消え、二度と戻ってこない。
解説: 在庫室は異次元空間と繋がっているのかもしれない。彼を探してはいけない。
【ラグビー部門】
Scrum Reset Endurance Breathing, Second Form: Infinite Patience
スクラム組み直し耐久の呼吸、弐ノ型:無限の忍耐 (Sukuramu Kumi Naoshi Taikyū no Kokyū, Ni no Kata: Mugen no Nintai)
Description: 何度崩れても、レフリーに注意されても、文句一つ言わずにスクラムを組み直し続ける精神力。試合時間の浪費とも言う。
解説: 「セット!」「クラウチ!」「バインド!」…この永遠に繰り返される儀式の中に、ラグビーの真髄がある(のかもしれない)。
他、多数。ご応募ありがとうございました!
コントローラーの過去への介入意図が見えてくる⋯




