第9話 誘拐
屋敷の奥にまで、怒号と悲鳴が押し寄せた。
使用人たちの息を呑む気配が走り、空気がひと瞬きで張り詰める。
「奥方様が――!奥方様が攫われました!」
血相を変えた兵士の叫びが響き、館内が一気にざわめいた。
廊下を駆ける靴音と指示の声が入り混じる。
庭では、付き添いの侍女が気を失ったまま倒れていた。
騒ぎを聞きつけた兵士が駆け寄り、彼女を抱き上げる。
「息があります!奥方様だけが連れ去られたようです!」
兵士や侍女の声が錯綜し、屋敷全体が恐慌に陥っていく。
「……ど、どうすれば……!」
「早く追わないと手遅れになるぞ!」
廊下の奥、広間へと通じる影に身を潜めるダニエルの顔色は蒼白だった。
(……僕が、あの場を離れたから……!止められたはずなのに……!)
胸の奥を冷たい後悔が突き刺す。小さな拳が震え、視線は足元に落ちていた。
そのとき――広間の扉が勢いよく開く音が響いた。
「お前……彼女の護衛を任されていたんじゃないのか」
低く鋭い声が廊下を切り裂く。
振り向いた先、広間の入口にカイエンが立っていた。
普段は沈着冷静なはずの男の眼差しが、獣のように光っている。
「なぜ一人にした!」
「……っ」
ダニエルは息を呑み、返す言葉を見つけられずに唇を噛みしめた。自分のせいで母が――そんな思いが頭を埋め尽くしていく。
「どこだ……!どこへ連れて行かれた!」
焦燥に駆られ、廊下を歩き回るカイエンに、駆け込んだ斥候が報告する。
「屋敷の庭の小径に、花が散っておりました。奥方様が手にされていたものと思われます!」
「その先に、複数の足跡が……門を越えて外へ続いております!おそらく、外で待機していた馬に乗せられたかと!」
「よし……追え!」
カイエンは即座に号令を飛ばした。
「全兵を動員しろ!領内の道という道を封鎖せよ! 一刻の猶予も許さん!」
「はっ!」
鋭い命令に兵士たちは慌ただしく散っていく。残された空気には、恐怖と緊張が色濃く残っていた。
ダニエルは拳を握りしめたまま、黙って父の背を見つめる。胸は後悔と不安で押し潰されそうだった。だが同時に――父がこれほどまでに母を大切に思っている、その事実が痛いほど伝わってきた。
――自分も動かなくては。
小さな決意の光が、曇った瞳の奥に潜み始めていた。
森を駆け抜ける兵士たちの列の先頭で、カイエンとダニエルが馬を駆っていた。
木々のざわめきの向こうから、不穏な気配が漂ってくる。
カイエンの胸は焦燥に掻き乱されていた。息を荒げ、剣の柄を何度も握り直す。その眼差しにはただ一人の存在を守りたいという思いが焼き付いている。
一方のダニエルもまた、顔をこわばらせながら必死に父の背に食らいついていた。だがその瞳には、恐怖だけでなく確信の色が宿っていた。
駆けながら、ダニエルはカイエンにだけ届く声で囁いた。
「……彼女は無事です。最悪の事態にはなっていません」
その言葉に、カイエンはぎょっとして手綱を引き、振り返った。
「なぜそんなことがわかる?!根拠もないのに……ふざけるな!」
怒声が風を裂き、蹄の音にかき消される。
それでもダニエルの瞳には、恐怖ではなく絶対の確信の光が宿っていた。
本気でそう信じていると伝わる眼差し――その理由をカイエンは掴めず、胸をざわつかせた。
互いに言葉を失ったまま、森を駆け抜ける。
(……近い)
風が止み、森の匂いが変わった。
ほんのわずかな息づかいさえ、やけに大きく感じられた。やがて、木立の隙間から朽ちかけた小屋の影が浮かび上がった。
カイエンは手を上げて合図し、馬を止める。
「ここからは徒歩だ。音を立てるな」
背後には兵士たちが続いていたが、狭い小屋に大勢で踏み込めば人質を傷つけかねない。突入するのは二人だけで十分だった。
その瞬間、傍らの少年の瞳に宿る鋭い光が、カイエンの目に映る。恐怖に揺らぎながらも、確かな覚悟がそこにあった。
「……お前、ついて来い」
迷っている暇はない。そう言い放ち、カイエンはダニエルを伴って扉へと駆けた。
そのころ、森の奥の小屋。
フィオナは縄で手首を縛られ、冷たい床に座り込んでいた。
食い込む痛みに息を荒くしながら、灯りに揺れるごろつきたちの影を見つめる。
「イザベラ様のお達しだ。片をつけろ」
「王家の至宝を盗んだ罪人を、辺境伯夫人に据えるわけにはいかねぇんだとよ」
低い声が耳を打ち、フィオナの胸が凍りつく。
紅蓮の宝石――王宮で代々受け継がれてきた至宝を奪ったと濡れ衣を着せられた、あの冤罪。
その烙印が今、命を狙う理由となって自分に突きつけられていた。
(……やっぱり、あの噂が……)
喉の奥に苦いものが込み上げる。だが声を上げたところで、この男たちが耳を貸すはずもない。
ギィ、と扉が開く音がした。
扉の向こうから、場違いな華やぎが差し込んだ。
金糸の髪、真紅のドレス。
美しさに目を奪われるより先に、空気が刺すように冷たくなる。
初めて見る顔――それがイザベラだった。
「……あなたが、あの“フィオナ”ね」
氷のように冷たい視線が縛られたフィオナを射抜く。
「舞踏会で聞いたときは耳を疑ったわ。カイエン様が結婚なさった? しかもその相手が――王家の至宝を盗んだ罪人だなんて!」
声は震え、激情に染まっていた。
だが次に続いた言葉には、彼女の小さな嫉妬心が透けて見える。
「どうしてあなたなんかが、カイエン様の隣に立てるの!?本来そこに立つのは、この私なのに!
……あなたのその顔、見ているだけで癪に障るわ」
イザベラは扇をひらりと振り、ごろつきたちへ冷ややかな視線を送る。
「やりなさい。殺す必要はないわ。ただ――二度と社交界に顔を出せないようにしてあげて」
命令を受けた賊たちが剣の柄に手をかけ、にやりと笑う。
フィオナは胸の奥に不安と恐怖を抱きながらも、必死に取り繕って背筋を伸ばした。指先をぎゅっと握る。
(……辺境伯夫人として迎えられた以上、淑女の品位を損なうような姿は見せられない。どんなに不安でも、それを外に出すわけにはいかない)
心の奥底では不安が膨れ上がっていく。
カイエンが自分をどう思っているのか、確かなものは何一つない。
だが、だからこそ取り乱して弱みを見せてはならないと、必死に自分を律した。
ただ静かに賊たちの視線を受け止める。
「……誰か来たか?」
見張りの一人が低くつぶやく。ごろつきたちが一斉に顔を上げる。
イザベラもはっとして振り返り、目を見開いた。
「えっ……?こんな森の奥に……?まさか……!」
思わぬ気配に、彼女の表情から余裕が消える。
その驚きと動揺は、激情に駆られた令嬢の脆さをあらわにしていた。




