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第8話 微笑みの裏に迫る罠

 王宮の大広間には、シャンデリアの光が満ち、楽の調べと人々の笑い声が溶け合っていた。

 金糸のような髪と緋色の瞳を持つ、社交界きっての麗人――イザベラ・カロッサ。その華やかな輪の外で、彼女は凍りついたように立ち尽くしていた。


(……嘘……。カイエン様の妻が、あのフィオナ・フロレンティアですって? 王太子殿下の元婚約者で、断罪されて追放された女が――!)


 耳に届いた噂が頭の中で反響する。

 かつては社交界の花と讃えられた侯爵令嬢。

 だが今では、王都から姿を消した“失墜の象徴”。

 その名が、よりによって辺境伯カイエンの妻として再び囁かれている――。


(どうして……? 幼いころからずっと、あの方を想ってきたのは私なのに……!

 私は伯爵家の娘――どれほど尽くしても、侯爵令嬢には敵わないというの……?)


 領地は辺境伯領のすぐそば。祭礼や視察でお姿を遠くに見るたび、胸はときめいた。

 誰よりも強く、誇り高いお方――幼心に抱いた憧れは、いつしか恋へと変わっていたのに。

 その隣を奪ったのは、王都で断罪された女だなんて――許せるはずがなかった。


そのとき――不意に背後から穏やかな声がした。


「……おや、イザベラ嬢。先ほどから随分と心が乱れているようだ」


 振り返ったイザベラは慌てて礼を取る。

 杯を手にしたオスカーが、まるで彼女を観察するかのように視線を向ける。


「驚かれたようだな。辺境伯に妻ができたと聞いて」

「……ええ。まさか、あんな女が……」


 言葉ににじむ嫉妬を、彼は面白げに受け流す。

 杯をひと口含み、目を伏せながら静かに呟いた。


「世の中とは不思議なものだ。……相応しくない者が座る席ほど、長く保たれることはない」


 何気ない一言に、イザベラの胸が大きく揺さぶられる。


(そうよ……私の方がふさわしいのだわ。あの女さえいなければ……!)


 握りしめた扇の下で、唇が震える。

 オスカーは彼女の変化を見抜き――冷ややかな思惑を胸に秘め、わずかに口元を歪ませた。



(……やはり使える。自分の意思で動いていると信じ込むほど、操りやすいものはない。

 王都も辺境も、結局は同じだ。駒が揃えば――王など容易く動かせる)


 視線を横に流せば、広間の中央では隣国の王女がオスカーを熱っぽく見つめていた。

 彼の微笑みひとつに頬を赤らめ、扇の陰から恍惚とした眼差しを注いでいる。


(駒はひとつでは足りぬ。だが二つ、三つと揃えば……盤上は私のものだ)


 杯の縁に触れた唇に、薄い冷笑が浮かんだ。



 昼下がりの庭を散策していたフィオナは、塀の向こうから聞こえてきた子どもの笑い声に足を止めた。

 のぞき込むと、荷車を押して歩く農夫と、その横をちょこちょこと駆けていく幼い子どもの姿があった。


「まあ、かわいらしい……」


 思わず声をかけると、農夫は慌てて帽子を取り、深々と頭を下げる。


「こ、これは奥方様……! 失礼いたしました」

「いいえ、気になさらないで。お子さん、とても元気そうね」


 フィオナが優しく微笑むと、男は驚いたように顔を上げ、少し照れたように笑った。


 その様子を、庭の小径からダニエルが静かに見守っていた。

 母が領民に向ける柔らかな笑みを見て、彼の胸にも自然と安堵が広がっていく。



 ――やがて日が傾き始めたころ。

 昼の賑わいが去り、夕陽に染まった庭はどこか静けさを帯びていた。

 フィオナは摘んだ花を手に、侍女と静かに歩いていた。

 ようやく辺境での暮らしにも馴染み始めた――そう感じた瞬間だった。


「奥様……少し気味の悪い話を耳にしたのですが」


 控えめに声を潜める侍女に、フィオナは首を傾げる。


「気味の悪い話?」

「はい。ここ数日、城下町で妙な影を見かけると……。

領主館の使いの者を尾けるようにしていたとか。」


 一瞬、空気がひやりとした。

 だがフィオナは小さく笑みを浮かべて、軽く首を振る。


「気にかけてくれてありがとう。でも、私が怯えては領民まで不安になるわ。

 大丈夫――万が一のことがあれば、兵士たちも控えています」


 そう言って見せる笑みは、侍女を安心させようとする強がりでもあった。

 本当は胸の奥に小さなざわめきが残っている。けれど、それを表に出すわけにはいかない。

 そのやり取りを遠目に見ていたダニエルは、ふと胸の内で鏡の映像を思い返した。


 ――母の未来に映っていたのは、孤独に息を引き取る姿と、断罪の場で命を奪われる姿。

 少なくとも、今この時に命を落とすような未来ではなかった。

 ーーだから大丈夫なはずだ。

 そう結論づけて、彼はわずかに芽生えた不安を押し込めた。


  侍女は花籠を抱えながら、落ち着かない様子で視線をさまよわせている。

 風が通り抜け、花弁が一枚、彼女の足もとに落ちた。


「……日が落ちるの、少し早くなりましたね」

「ええ。夕暮れが早いと、一日があっという間に感じるわ」


 穏やかに返しながらも、フィオナは歩調を崩さなかった。

 辺境の空気にもようやく馴染み、季節の移ろいを感じられるようになった――

 そんなささやかな安らぎの中にいた。


 ――そのときだった。


 庭の端から、兵士の装いをした男が駆け込んできた。息を荒げ、焦燥を滲ませながら叫ぶ。


「おい! 誰かいないか! 門の外で騒ぎが起きた! 急げ、手を貸してくれ!」


 ちょうど見回りの兵が交代に戻る刻限で、庭は一時的に人影が薄かった。


 咄嗟に顔を上げたダニエルの胸に、不安が鋭く突き刺さる。


(……嫌な予感がする)


「僕が行きます! 奥方様を頼みます!」


 侍女に言い残し、小径を駆け出した――その一瞬の隙。

 門の方から回り込んだ影が、音もなく背後に忍び寄る。


 覆面の男たちは一瞬で侍女の口を塞ぎ、フィオナの腕を荒々しくつかんだ。


「っ……!」


 振り返る間もなく、口を布で押さえつけられる。声が喉の奥で途切れた。


「奥様――!」


 くぐもった侍女の叫びも空気にかき消される。

 抵抗する間もなく、フィオナは影の中へと引きずり込まれていった。


 夕陽に染まった小径には、彼女の手からこぼれ落ちた花だけが散らばっていた。

 それは、穏やかな日々が終わりを告げる、小さな音のようだった。



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