第6話 出立の朝
冷たい朝靄のなか、馬のいななきと兵の甲冑のきしむ音が中庭に響いていた。
出立に向かうカイエンの姿を、フィオナは玄関先で見送っていた。
朝靄に包まれたその背は、まるで遠ざかる決意そのもののようだった。
カイエンは一瞬だけ視線を向け、低く言った。
「……国境に不穏な動きがある。領主として確かめに行かねばならん」
それだけを告げると、彼はすぐに視線を外す。
だが思わず、胸に引っかかっていた言葉がフィオナの口をついた。
「……その前に、婚姻の儀は……いつになさるのですか?」
馬上の背筋がぴたりと固まり、短い沈黙が落ちた。
振り返ったカイエンの瞳は鋭く、声は感情を押し殺したように低い。
「今は行えない。王家の秘宝を盗んだという疑いがある以上、軽々しく式を挙げるわけにはいかん」
冷たく突き放す響きに、フィオナの喉がひりつく。
(……やはり、信じてもらえないのね)
だがその一方で、カイエンの胸の奥には言葉にできない焦燥が渦巻いていた。
(本当は、今すぐにでも妻に迎えたい……だが、真偽を確かめるまでは彼女を守りきれない。もし罪が確定すれば、俺の想いは彼女をさらに追い詰めるだけだ)
苦々しい思いを隠し、彼は手綱を握り直す。
(……あの視線の奥に、どんな思いが隠れているの?)
不安と期待が胸の奥でせめぎ合う。
けれど同時に、ダニエルの言葉を思い出す。
『辺境伯様は、不器用なだけですよ』
(信じたい……。そうでなければ、私はこの地で立っていけないもの)
揺れ動く想いを胸に隠し、フィオナは小さく裾を持ち上げた。
「……どうぞ、お気をつけて」
声は届いたのか届かなかったのか。カイエンは短くうなずいただけで馬に跨がり、その背中を遠ざけていった。
数刻前、執務室でセスが王都からの報告を差し出した。
「……隣国の王女と、王太子殿下との縁談の噂が流れております」
「隣国……あの大国か」
文面を読み、カイエンは低く息を吐いた。
「軍事も経済も豊かで、常に我が国に影響を及ぼそうとしている国。その王女を嫁がせる話が出れば……王都の者どもは飛びつくだろう」
セスは静かにうなずいた。
「国境で兵が増え、訓練も盛んになっております。王都にとっては縁談を後押しする材料となりましょう」
カイエンの脳裏に、オスカーの姿がちらつく。
(……フィオナを追いやったあの仕打ちも、この流れと無関係ではあるまい。隣国を利用してまでも、自らの地位を盤石にしようとしているのではないか)
「――屋敷のことは任せたぞ」
「畏まりました。奥方様は必ずお守りいたします」
セスの言葉にうなずきながらも、カイエンの胸は重かった。
玄関前には、出立の支度を終えた兵たちの列ができていた。
セスとの会話を終え、兵を率いて屋敷を出たカイエンは、馬上で深く息を吐いた。
冷たい朝靄が頬を打つ。進むべき道は分かっているはずなのに、胸の内は静まらない。
出立の朝、玄関先に立つフィオナの姿が脳裏によみがえる。
その隣には、黒髪の少年が控えていた。
(……気にはなる。だが、今はそれどころではない)
(国境の兵……。大国がわざわざ兵を増やし、訓練を見せつけている。……つまり“辺境は抑えきれていない”と決めつけられる。俺の立場は危うくなる。領主として、真実を確かめに行かねば)
それは義務だ。責務だ。冷徹な辺境伯として当然の判断。
だが、それだけではなかった。
脳裏に浮かぶのは、不安に揺れながらも必死に微笑もうとするフィオナの横顔。
罪人として扱われても、誠実さを失わぬ青い瞳――。
(あれほどの女性が、罪など犯すはずがない。……いや、そう信じたいのだ)
だからこそ、確かめに行く。
大国の兵の動きも、王都の思惑も、すべてが彼女を陥れる策なのではないか――その疑いを拭うために。
(領主としての務めか、一人の男としての想いか……)
どちらが正しいのか、答えは出せない。
だが今の自分を突き動かしているのは、どちらでもあった。
(彼女を守る。それが俺の責務であり……俺自身の願いだ)
強く手綱を握りしめる。
馬蹄の音が大地を打ち鳴らすたび、胸の奥に渦巻く迷いが、決意へと変わっていくのを感じた。
フィオナが屋敷に戻っていくのを見送りながら、ダニエルはそっと息を吐いた。
(未来では……父上は出立のたびに、母上の手を取って、必ず口づけをしてから馬に跨がっていた。僕が傍にいても構わずに――当たり前のように。
母上は頬を染めながら笑って、その背を見送る。そんな光景を何度も見てきたのに……)
今目の前にいるのは、冷たい眼差しで言葉少なく去っていく父の背だった。
(どうしてだ……? あの時と同じ人とは思えない。母上にだけ、どうしてこんなにも距離を置くんだ)
胸の奥に、鏡に映った“未来”の光景がよみがえる。
寝台に横たわる母の姿――それは「孤独死」という最悪の結末だった。
(……まさか、僕が過去に来たせいで、二人の関係が変わってしまったのか?)
疑念が喉まで込み上げる。だが、首を振った。
(駄目だ。母上にだけは、絶対に不安を見せるわけにはいかない。僕が笑って支えるんだ。そうしなければ……あの未来を変えられない)
ダニエルはそっと拳を握りしめ、母の背を追った。
一方その頃、フィオナもまた胸のざわめきを抑えられずにいた。
カイエンを見送ったあとも、不安は静まらない。
(……本当に、私は歓迎されていないの?)
屋敷に戻ると、廊下ですれ違った侍女に思わず声をかけていた。
「ねえ……カイエン様は、普段はどんな方なの?」
侍女は少し驚いたように瞬きをしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「領主様は、とても厳しい方です。けれど……それはご自身にも同じで。決して怠けたり妥協されたりはなさいません」
別の年配の下男が口を挟む。
「領民からの評判も高うございますよ。無茶な徴税をすることもなく、民の声をよくお聞きになる。冷徹に見えますが、公平なお方です」
「そうそう、戦場でも部下を決して見捨てられないのです」
「ご自分が盾になることも、珍しくありません」
次々に語られる言葉に、フィオナはわずかに目を見張った。
彼女が知る冷たい眼差しと、彼らの口にする誠実な人物像とが、どうしても結びつかない。
(……みんなからは慕われているのに、どうして私には……?)
胸の奥に答えの出ない疑問が渦巻く。
不安を隠すように微笑んでみせたが、その笑みはどこかぎこちなかった。
――そのとき、遠征に向かったカイエンの胸にもまた、重い迷いが去来していた。




