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第2話 未来を変える息子の名

 フィオナの背筋に冷たいものが走った。

 先ほど見せられた“自分の死”の感覚がまだ抜けず、呼吸は乱れたままだ。


(……これ以上、何を見せるというの……?)


 震える手を握りしめた瞬間、鏡の水面が再び波打った。


 鏡の光が揺らぎ、冷たい石造りの部屋が映し出された。

 やせ細ったフィオナが寝台に横たわり、荒い息をするたびに胸が上下する。


 けれど看病する人も寄り添う声もなく、やがて吐息は途絶え、細い指が力なく床に落ちた。

 最期の瞬間さえ、誰ひとり気づかなかった。


 映像は霧散し、暗闇へと戻る。


(……こんな、孤独の中で……死ぬ? そんな未来が本当に?)


 少年は唇を結び、拳を握りしめていた。


「これもまた、ありえた未来です。母上は愛されていたはずなのに、すれ違ったまま心を閉ざし……誰にも看取られず生涯を終えてしまった。

 未来は一本きりではありません。ほんの小さな違いで、温かな人生にも、冷たい孤独にも変わってしまうのです」


 映像が消えても、冷たい風の音が耳に残っている気がした。

 フィオナは思わず腕を抱きしめる。胸の奥まで凍りつくような孤独感が離れない。


(助かっても……待つのは孤独と死? そんな可能性があるなんて、怖すぎる……)


 脳裏に、これから嫁ぐ辺境伯の噂がよぎる。

 ――若くして領地を任され、冷徹と評される男。


 もし噂通り心を閉ざしたままなら、愛されることなく孤独死の未来へ進んでしまうのでは――。

 頭では否定しながらも、胸の奥は震え、冷たい現実感が彼女を締めつけた。

 その動揺を見透かすように、少年は静かに鏡を持ち直す。


「母上……最後に、もうひとつだけ見てください。

 もし、この国に囚われ続けたなら――」


 鏡に映ったのは、荘厳な王城の大広間。

 燭台の炎が群衆を赤く照らす中、鎖につながれたフィオナが膝をついていた。


 今よりも大人びた気高さをまといながら、その瞳は涙に曇り、絶望に沈んでいる。

 頬はやせこけ、裂けた衣からのぞく傷跡が痛々しい。


「この女こそ、王国を裏切った逆賊だ!」


 壇上から響くオスカーの声に、廷臣たちは沈黙し、

 その場は“断罪の儀”の宣告で満たされた。


 次の瞬間、場面が切り替わる。

 人々の喧騒、鐘の音、処刑台に引き立てられるフィオナの姿――。

 兵士の腕が動き、刃が振り下ろされた。


 視界が赤に染まり、光は砕けるように消え去った。

 フィオナは息を呑み、両手で口を押さえる。

 胸は恐怖で震え、吐き気すら覚えるほどだった。


(……こんな未来、絶対に認めない。

 私は正しく生きてきた。

 断罪されるなんて――あり得ない!)


 ダニエルは鏡を抱え直し、静かに言った。


「……母上。これで終わりです」


 震える声で、彼は続ける。


「未来は無数に枝分かれしています。偶然の事故や小さな不運で命を落とす未来だってある。

 ですが――この鏡が映し出すのは、無数の細い枝ではなく、母上を同じ結末へ導く“三つの太い運命の流れ”なのです」


 少年は静かに言葉を続ける。


「ひとつは――先ほどの襲撃による死。けれどそれは、すでに回避されました」

「……!」

「残る二つ、孤独死と断罪死――この二つこそが、なおも母上の行く先に強く刻まれた危機なのです」


 その言葉に、フィオナの背筋が凍りつく。

 ただの幻ではない。

 彼が見せたものは、“避けなければならない未来”だと、心の奥で理解してしまった。


「……僕は見ました。あの断罪を、目の前で。


 鐘が鳴り、刃が落ちた瞬間、世界から音が消え、残ったのは母上の瞳の揺らぎだけでした。

 僕は何もできず、悔しくて、怖くて、ただ逃げるように広間を飛び出しました。


 気づけば禁じられた宝物庫の前に立っていて、半ば開いた扉の向こうに“時の鏡”が光っていたのです。

 それが偶然か必然かは分かりません。けれど、手を伸ばした瞬間に悟りました――これこそが母上を救う唯一の道だ、と。」


 少年は言葉を探すように唇を震わせ、やがて小さくこぶしを握りしめた。

 その顔には、まだ幼い輪郭には似つかわしくない苦悩が滲んでいる。


「もう見ているだけの自分は嫌なんだ。……あの時の後悔を、二度と味わいたくない。だからここへ来た。

 母上を――絶対に殺させはしない!

 僕が、失った未来を取り戻すために!!」


 言葉を締めくくった少年は、深く息を吐き、フィオナを真っ直ぐに見つめた。

 幼さを残す顔立ち。けれど、その瞳だけは驚くほど強く、決意の光に満ちている。


(この子は……本気で私を救おうとしてくれてるんだわ。あり得ないはずなのに――どうして、涙が出そうになるの……?)


  思わず指先をぎゅっと握りしめる。

  フィオナは震える声で問いかけた。


「……本当に、未来から来たの?」


 少年は一瞬唇を噛み、だがまっすぐに答える。


「はい。信じられないのは分かっています。

 でも――あの三つの死は、僕が実際に経験したものと、鏡が映し出した“確かな可能性”なんです」


「そんなこと……ありえないわ」


 フィオナはかぶりを振る。


「未来だなんて、息子だなんて……」

「けれど僕は、確かにここにいる」


 少年の瞳は揺るがなかった。


「そして、母上のことを誰よりも知っています。

 泣きそうなときに指先をぎゅっと握りしめることも……そして、笑うときに無意識に首を少しかしげる癖があることも」


 フィオナははっと息をのんだ。

 ――言われてみれば、さっきも気づけば指先を握っていた。

 そんな仕草、自分でも無意識だったのに。


 確かに、昔から周囲に「首をかしげて笑う姿が愛らしい」と言われたこともある。

 それを、この子は知っている――。

 本当に、この少年は未来から来たのだ。


「……あなた、名前は?」


 少年は姿勢を正し、深々と頭を垂れる。


「僕の名はダニエル。

 未来で母上を失った僕は、二度と同じことを繰り返さないために――ここへ来ました」



 その瞳には、悔恨と決意の光が同時に宿っていた。


「未来の悲劇を回避するその日まで……僕は必ず、母上をお守りします!」


 力強い宣言を終えたダニエルを見つめ、フィオナは胸を押さえた。

 彼の思いは本物だと分かる――けれど現実に戻れば、新たな不安がこみ上げる。


「……でも、護衛の方々が目を覚ましたら、あなたのことをどう説明すればいいの?」


 息を潜めて問うフィオナに、ダニエルはきゅっと眉を寄せ、すぐに答えた。


「母上、今は“騎士見習い”ということにしてください。未来から来た息子だなんて、誰も信じません」

 真剣な声で言い切る。


 さらに彼は小さく囁いた。


「……それに、まだ正体を明かすのは危険なんです。父上と母上が本当に結ばれるまでは、未来は揺らぎやすい。

 だから僕は、この身分で仕えます。それが一番確実に母上を守れる方法なんです」


 その瞳には迷いがなかった。

 フィオナは言葉を失い、ただ胸が熱くなるのを感じた。

 彼は息子であることを隠してまで、自分を守ろうとしている――。


 そのとき、近くで呻き声が上がった。

 気絶していた護衛のひとりが、ゆっくりと目を開けている。


 頭に血がにじみ、視線はまだ定まらない。


「……奥方様……いえ、まだ……フィオナ様……ご無事、で……?」


  呼び慣れぬ名に、護衛の声がかすかに揺れた。

 王都で“罪人”とされた相手に、その言葉を使ってよいのか――一瞬のためらいがにじむ。


「ええ。大丈夫です。私を助けてくださった方がいましたから」


 護衛はふらつきながらも周囲を見回し、倒れ伏す仲間と血の跡、そしてそばに立つ黒髪の少年に目を留めた。


「……この者は……?」


 胸がどくんと跳ねる。

 だがフィオナは、きっぱりと答えた。


「騎士見習いの方です。襲撃の最中、命懸けで私を守ってくださいました」


 護衛は驚いたように息を呑み、険しい目を少年へ向ける。

「……見習いが、フィオナ様を……?」

 疑念を拭えぬまま、しかし命の恩人を否定もできない。


 やがて護衛は小さく息を吐き、形式ばったように頭を下げた。

「……承知いたしました。お嬢様のご無事は、この方のお力添えあってのこと……。殿がお認めになれば、私も従いましょう」

 視線を受けたダニエルは、ほんの少しぎこちなく、それでも真っ直ぐに返した。


「……まだ未熟ですが、いずれ奥方となられる方を、必ずお守りいたします」


 こうして、黒髪の“騎士見習い”はフィオナの守り手として、正式に受け入れられた。


 応急手当を終えた護衛たちは傷を押さえつつも、どうにか馬車を再び動かせる状態に整えた。

 車輪は軋みを上げながらも回り出し、一行は再び辺境伯領へと進んでいく。


 ――それから、いくつかの宿場を経て数日。険しい山道や深い森を抜けるたびに、空気は冷たさを増し、景色は王都とはまるで違うものへと変わっていった。


 切り立つ山々と深い森、岩肌を削るように流れる川。

 厳しさと美しさを併せ持つ風景が、少しずつ近づいてくる。

 フィオナは思わず息をのんだ。


(……ここが、私のこれから暮らす土地……)


 胸の奥に不安が広がる。

 未来の孤独死と重なる噂が、どうしても頭から離れない。


「……ねえ。辺境伯さまは、どんな方なの?」


 耐えきれずに口を開いたフィオナに、護衛のひとりが言葉を選びながら答える。


「領民からは敬われております。若くして領地を治め、冷徹とも申されますが、その手腕は誰もが認めるところで……」


 重苦しい言葉に、フィオナは思わず視線を落とした。

 握りしめた膝の上に、冷たい指の感触が残る。

 そのとき、隣に座るダニエルが身を寄せ、小声で囁いた。


「……でも、本当の父上は違いますよ。母上にだけは、人が変わったみたいに優しくて……驚くほど甘かった。

 僕がそばにいても構わず、まるで恋人同士みたいで……正直、息子としては気まずいくらいでした」


 耳元で告げられた言葉に、フィオナの胸が跳ねる。


(……そんな姿、想像できない。けれど――本当に?)


 冷徹と噂の辺境伯――カイエン・ルグランツ。

 いったい、どんな人なのだろう。

 馬車は夕闇の中を揺れながら、確実に辺境伯領へと近づいていく。

 その先に待つ人物を思うと、フィオナの心臓は早鐘を打った。



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