第19話 誇りを受け継ぐ者
――数刻前。
胸がざわついていた。
証拠もないまま王宮へ向かった父と母。
その行方を案じることしかできず、ダニエルは焦りに押し潰されそうになっていた。
(僕は……ただ待っていることしかできないのか?)
鏡に映った断罪の未来が、じりじりと近づいてくる気がする。
あの冷たい光景が現実となるのを、指をくわえて見ていなければならないのか――。
胸の奥で絶望が膨らんでいったその時だった。
視界の端で、ひとりの女が人目を避けるように、使われていない一室へ入っていく。
屋敷に仕えてまだ一年も経たない新人の侍女。
地味で目立たないはずのその姿に、妙な違和感が走る。
(……何をしている? ただの新人が、なぜあんな部屋に……)
胸騒ぎを覚え、足音を忍ばせて扉の隙間から中を覗く。
女は懐から小さな魔石を取り出した。
青白い光がほの暗い室内を照らし、低く抑えた声が落ちる。
「……オスカー殿下。仕込みは完了しました」
息が止まった。
魔石から返ったのは、ぞっとするほど冷たい男の声だった。
『よくやった。あとは断罪の時を待て』
光が掻き消え、部屋は再び闇に沈む。
荒い息を吐く女を前に、ダニエルの背筋に冷たいものが走った。
(……やっぱり! 母上を陥れるための内通者……!)
(まだ他にも仕込んでいたなんて……オスカー、どこまで狡猾なんだ!)
未来では侍女長にのし上がる女の存在を知っていた。
だがそれ以前に、すでに別の者まで潜ませていたとは――。
彼の手は二重にも三重にも張り巡らされていたのだ。
(このままでは……母上が断罪されてしまう!)
焦燥に突き動かされ、ダニエルは勢いよく扉を開け放った。
重い音が廊下に響き、女が振り返る。
その瞳が驚愕に大きく見開かれ、次いで口元に冷ややかな笑みが浮かんだ。
「……坊や。見ていたのか」
女の声音は嘲りに満ち、蛇が獲物を見下ろすようだった。
その指先には、なお光を失った小さな魔石が握られている。
「お前……母上を陥れるつもりだな!」
焦りに声が震えた。思わず口にした「母上」という呼びかけに、女は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに冷笑でかき消した。
「……くだらない坊や」
吐き捨てると同時に、女は床を蹴った。
窓を開け放ち、身軽に外へ飛び降りる。
「待て!」
ダニエルも窓枠に手をかけ、勢いよく飛び降りる。
未来を変えるには、ここで捕らえるしかない。
月明かりの射す裏庭に、二人の影がぶつかり合った。
女が懐から閃く刃を抜く。
「――っ!」
とっさに腕を上げ、ダニエルは身を守った。
鋭い痛みが走る。袖が裂け、血が滲む。
それでも、足は止めなかった。
(ここで倒れるわけにはいかない! 母上を救えるのは……僕しかいない!)
歯を食いしばり、血の滲む腕で女の手首を掴む。
もみ合いになり、激しい息遣いが響いた。
刃が地面をかすめ、火花を散らす。
「離せ!」
「絶対に離すものか!」
必死の叫びと共に力を込め、女の手から短剣を叩き落とした。
短剣が地面に転がり落ちた瞬間、女の体が大きく揺らぐ。
ダニエルは渾身の力でその腕をねじ上げ、背後から押さえ込んだ。
「ぐっ……このガキが!」
「黙れ! お前の思い通りにはさせない!」
血に濡れた腕に激痛が走る。
それでも歯を食いしばり、女の抵抗を押さえ込んだ。
必死の形相で掴み続ける少年の姿に、女の顔から余裕が消えていく。
その時、駆けつけた兵士が叫んだ。
「何事だ!」
目に飛び込んだ光景に一瞬息を呑み――
ダニエルの腕の傷を見て、事態を把握した。
彼は女のねじり上げられた腕に、腰に下げた縄を素早く縛りつける。
その懐から、数枚の羊皮紙がはらりと落ちた。
「……契約書?」
拾い上げた兵士が眉をひそめる。
「誰か、執事殿を呼べ!」
部下の一人が駆け出していき、やがてセスが険しい顔で現れた。
「騒ぎがあったと聞いたが……これは?」
兵士がすぐに羊皮紙を差し出す。
「……やはり。偽造契約書の写しか」
低く押し殺した声で言う。
その瞬間、ダニエルの脳裏に未来の光景が閃いた。
(そうだ……あの時、屋敷から――母上の部屋から証拠が見つかった!)
「本物は……母――奥方様の部屋に仕込まれているはずです!」
叫ぶように言うと、縛り上げられた女の瞳が大きく見開かれた。
「……奥方様の部屋だと?――すぐに確認を」
深く息を吐き、セスは決断を下した。
「この女は証人として拘束しろ。……急げ、王宮ではすでに断罪が始まっている」
血に濡れた腕を押さえながら立つダニエルをまっすぐ見据える。
「ダニエル、君が行け。この証拠を携え、奥方様を救うのだ!」
少年は痛みに顔を歪めながらも、力強く頷いた。
(間に合え……! 必ず未来を変えてみせる!)
その決意を胸に、ダニエルは王宮へ駆け出した。
「……そんなことが、あったのね」
フィオナは震える声でつぶやき、ダニエルの腕を取った。
血に濡れた袖を見て、胸が締めつけられる。
「あなたは……そこまでして私を……」
言葉は最後まで続かず、熱い涙となって頬を伝った。
カイエンはそんな二人を見つめ、静かに歩み寄る。
迷いのない手でダニエルの肩をつかみ、深い声で告げた。
「……ダニエル。よくやった」
金色の瞳がまっすぐに彼を見据える。
「お前は――俺の誇りだ」
その言葉に、ダニエルはわずかに目を見開き、やがて力なく笑みをこぼした。
流してきた血と痛みが、一瞬にして報われる気がしたのだ。
広間の喧噪が遠ざかり、三人の世界だけがそこにあった。




