第16話 証拠なき旅立ち
数日の静けさを破るように、屋敷に重苦しい蹄音が近づいてきた。
衛兵が慌ただしく駆け込み、膝をつく。
「報告いたします! 王都より、国王陛下の名における召喚状が届きました!」
広間の空気が一気に張りつめる。
兵が差し出した羊皮紙には、王家の紋章が金の封蝋で刻まれていた。
カイエンが封を割り、低く読み上げる。
「――『辺境伯カイエン・ルグランツ、その妻フィオナ・ルグランツ。王太子オスカー・ヴァレンティスの婚約披露式に必ず出席せよ』……」
羊皮紙を握りしめ、カイエンは低く言い放つ。
「……王命だ。逆らえば『不忠』とされる。辺境領ごと裁かれてもおかしくはない」
フィオナの頬は青ざめていたが、それでも瞳は揺るがなかった。
「……恐ろしいです。けれど、私はカイエン様と共に参ります」
その言葉に、カイエンは一瞬だけ目を細めた。
(震えているのに……それでも立ち向かうか。――強い女だ)
傍らでダニエルが立ち上がる。
「僕も一緒に行きます!」
兵は一瞬ためらい、言葉を選ぶように首を振る。
「……ですが、召喚状にはお二人のお名前しかございません」
ダニエルは唇を噛みしめ、拳を強く握りしめた。
「……本当に、僕は行けないんですか……?」
広間に沈黙が落ちる。
カイエンはわずかに瞳を細め、低く言い放った。
「留守を任せる。――それもまた戦だ」
ダニエルは悔しげにうつむき、やがて小さく頷いた。
召喚状が届いてから数日後、出立の準備が進む中で兵が駆け込んできた。
「報告いたします! 魔封じの間に入れていた刺客が……消えました!」
広間にざわめきが走る。
カイエンの顔が険しくなった。
「消えただと……? 結界は破られたのか」
兵は額に汗を浮かべ、うなだれる。
「鍵は閉ざされておりました。だが中は空に……そして、保管していた契約書も共に……」
「そ、そんな……あれがなければ、私たちが潔白だと証明できない……!」
フィオナの顔から血の気が引いた。
カイエンが低く唸り、拳を握る。
「……誰かが内通している。だが、もう時間がない」
ダニエルは息を呑み、思わず口走った。
「……違う……まだ、この時期に内通者なんているはずが……!」
ふたりの視線が一斉に彼を向く。
ダニエルははっとして唇を噛んだ。
(断罪の運命は……変わらないのか?)
広間を沈黙が包み、重苦しい空気が満ちていった。
夜明け前の空はまだ青く沈み、屋敷には慌ただしい気配が満ちていた。
荷を積む音、兵の掛け声。
フィオナは玄関口で深く息を吸い、震える指先をぎゅっと握りしめた。
(――本当は怖い。逃げてしまいたいほど恐ろしい。それでも……たとえどんな断罪が待っていようと――私は彼と共に立つ)
震えを飲み込んだ瞬間、背後で足音が止まった。
強い視線が背に触れる。
振り向かずとも分かる。――ダニエルだ。
彼は唇を噛みしめ、喉まで出かかった言葉を必死に飲み込んでいた。
(母と呼んではいけない。……誰かに聞かれてしまう)
それでも瞳がすべてを訴えていた。
フィオナはその視線を受け止め、そっと微笑んだ。
「大丈夫。必ず……帰ってくるわ」
カイエンが歩み寄り、低く告げる。
「屋敷を任せる。――頼んだぞ」
短い言葉に込められた信頼に、ダニエルは強く頷いた。
「……はい」
胸の奥で煮え立つ思いを噛み殺す。
(……何のために未来から来たんだ。肝心な時に、役に立てないなんて)
馬車の扉が開き、二人が乗り込む。
車輪が軋み、ゆっくりと動き出した。
残された少年の拳には、悔しさと焦燥だけが深く残されていた。




