第12話 祭りの影
館の中は、久しぶりに穏やかな空気を取り戻していた。
賊たちは牢へ収められ、領内は平穏を取り戻しつつある。廊下を行き交う使用人の声も、どこかほっとした響きを帯びていた。
その一角で、カイエンは窓辺に立ち尽くしていた。
視線の先では、庭園を歩くフィオナの姿がある。領民に向ける笑顔はやわらかく、今や屋敷の誰もが「辺境伯夫人」として彼女を受け入れ始めていた。
――にもかかわらず、胸の奥では、夜明け前の霧のような不安がまだ晴れきらなかった。
あの夜、ダニエルに問いただした。
だが少年ははぐらかすばかりで、結局何も語ろうとしなかった。
ならば、とフィオナに視線を向けたとき――彼女は一瞬、何かを言いかけて真っ赤になり、うつむいてしまった。
その仕草が胸を射抜き、言葉を重ねることができなかった。
(……駄目だ。あんな顔を見せられては、追及などできるはずがない……)
結局、答えは得られぬまま。
真実は霧に包まれたように遠く、今もなお掴めずにいる。
庭園の散策を終えたフィオナが、白い裾を揺らして戻ってきた。
「領民の皆さまが……本当に優しくて。少しずつ、受け入れてくださっている気がします」
小さな声で告げる横顔は、柔らかくほころんでいる。
カイエンは無意識に足を止め、その言葉を胸の奥で反芻した。
彼女が無事でいる。ただそれだけで、張り詰めていたものがほどけていく。
「当然だ。――お前は何ひとつ、後ろめたいことなどしていない」
短い言葉だった。
けれど、フィオナの頬がわずかに熱を帯びていく。
「……ありがとうございます」
彼女は首を傾げ、小さく礼を告げた。
その仕草は、冷徹であるはずのカイエンの心までも揺さぶり、思わず息を詰まらせるほどだった。
「なんだか、すごくいい雰囲気ですね」
いつの間にか廊下の影に立っていたダニエルが、にこにこと笑ってこちらを見ていた。
「っ……!」
フィオナは弾かれたように顔を上げ、慌てて姿勢を正す。頬は真っ赤なままだ。
「な、何を勝手に――」
カイエンが低く睨みつけるも、ダニエルはまるで気にした様子がない。
「いいことですよ。未来の父上と母上が仲睦まじいのは、僕としても安心できますから」
さらりと放たれた一言に、フィオナは言葉を失い、カイエンは喉の奥で咳払いして誤魔化すしかなかった。
それから数日後。
城下では収穫祭の準備が始まり、屋敷にも活気が戻っていた。
「今日は城下で祭りがあるそうだ」
カイエンの低い声に、フィオナの胸はふっと高鳴った。
人々で賑わう景色を、この地で一度は見てみたい――そう思って、つい口を開いてしまう。
「……少しだけ、行ってみたいわ」
言った瞬間、隣のカイエンがわずかに眉を寄せる。
その目に心配の色が浮かんだ気がして、フィオナは唇を噛んだ。
だが、彼は短く息を吐き、低く告げる。
「……行くぞ」
それだけで決まってしまう。
フィオナが驚いて瞬きをする間に、カイエンは立ち上がり、外套を羽織っていた。
背後で気配が動く。
振り返れば、ダニエルが当たり前のように後ろへ控えていた。
「ダニエルも……?」
「当然です、母上」
柔らかな微笑みを浮かべる息子に、フィオナの緊張はわずかにほどけた。
頼もしさと、どこかくすぐったいような安心感。
こうして三人は、人々の喧騒へと歩み出す。
城下に着くと、通りは人で溢れていた。
色とりどりの布が張られ、屋台からは香ばしい匂いが漂う。
子供の笑い声と楽師の笛の音が混ざり合い、普段は静かな辺境の町が嘘のように賑やかだった。
「まぁ……」
思わず零れたフィオナの声に、カイエンがちらりと横目を向ける。
彼は表情を変えなかったが、その歩みをわずかに緩める。
人混みに押され、彼女がよろめいた瞬間――
カイエンの腕が迷いなく伸び、彼女の身体を支えた。
「……っ」
至近距離に感じる体温に、フィオナの頬が熱くなる。
彼はすぐに体を離したが、その手はフィオナの手をしっかりと握った。
「……離れるな」
当たり前のように言われたその一言に、フィオナの心臓は跳ね上がる。
温かな掌が、自分を確かに導いている。
(……この時間がずっと続けばいいのに)
そう願いながら、彼女はただ引かれるまま歩いた。背後を歩くダニエルが、目を細めて静かに微笑んでいることに、ふたりは気づいていなかった。
通りの先、花飾りの屋台が並んでいた。
若い娘が笑顔でフィオナに小さな花冠を差し出す。
「いかがですか?お嬢様」
戸惑うフィオナの前で、カイエンが淡々と告げた。
「受け取れ」
差し出された花飾りを手に取ると、カイエンが無造作に彼女の髪へと載せる。
「……似合っている」
不器用なその一言に、フィオナの心臓はまた跳ねた。
「……あ、ありがとうございます」
赤くなった頬を隠すように彼女はうつむいた。
やがて喧騒を抜けた先、通りの外れに小さな布張りの小屋が現れた。
薄暗い中から、不気味な声が呼びかける。
「奥方様……どれ。ひとつ、運命を占って差し上げましょう」
ぞくりと背筋に寒気が走る。
フィオナは思わずカイエンの手を握り返した。
けれど――なぜか、その視線から逃れられなかった。
怖いのに、目が離せない。胸の奥で何かがざわめき、足が勝手に止まる。
彼女は布張りの小屋を見つめた。
入口は狭く、ろうそくの灯りがちらちらと揺れている。
「……中はひとりだけで」
フィオナは、カイエンの手を名残惜しげに離した。
老女の声に導かれ、一歩中へ。
カイエンとダニエルは入口のすぐ外に立つ。布一枚を隔てているだけなので、声ははっきり聞こえる。
小さな卓の向こうで、老女がにゅっと手を伸ばす。
「……おや、この手相……」
皺だらけの指がフィオナの手を掴み、目を凝らす。
やがて低く呟いた。
「死に繋がる道は三度……だが、二つはすでに閉ざされた」
「残るひとつが――眼前に迫っている」
ぴたりと手を離し、
「……運命は己で選べ」
そう言うと、老女は布をがらりと下ろした。
外で聞いていたカイエンとダニエルの表情が同時に険しくなる。
「……そんな、もう……?」
フィオナは胸を押さえ、震える声で呟いた。
その声をかき消すように、祭り囃子の太鼓がどん、と鳴り響く。
――迫る運命の足音のように。




