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グリッチライダー・サーガ

ブラック・エテルナム(漆黒の支配者)

作者: さだきち


空は静かだった。

くすんだ雲の隙間から、微かな光が差し込む。

その下を、一羽の鳥が羽ばたいていた。大気を切り、風を裂き、孤独に優雅に。


突如、光が一閃した。

空を斬り裂くように、一本の光線が走る――

その軌跡は、音すら残さず鳥を撃ち抜いた。


鳥はそのまま、もつれるように旋回しながら、地面へと堕ちていった。


ロバート・ウィリアムズ。

──“ブラック・エテルナム”。


森の奥から現れたその男は、音だけを頼りに地を踏む。

全盲の目は虚空を見つめながらも、その歩みは迷いがなかった。

倒れた鳥の元へ静かに腰を落とし、指先で傷口を確かめ、冷たくなった命を拾い上げる。


周囲から枯れ葉、折れた枝を集め、岩の前に積み上げる。

乾いた木に火を灯すと、柔らかな炎が生まれた。

その前に腰を下ろし、ロバートは羽をむしり、肉を裂き、ナイフで下処理を始める。

その所作には一切の無駄がなかった。鋭利な精度で刻まれる手つきに、音と空気のわずかな振動が絡んでいた。


処理を終えた肉を、一本の枝に串刺しにし、ポーチから調味料を取り出す。

香辛料をまぶし、焔の上で回すたび、肉がじりじりと香ばしい匂いを立てていく。


──その様子を、二人の男が少し離れた場所から見ていた。


「……あの男、見たことあるような……」


「待て、調べてみる」

一人が端末を取り出し、簡易スキャナでロバートの顔を読み取る。

瞬時に表示された情報に、二人は目を見開いた。


【BLACK ETERNUM】

【賞金:12,000,000クレッド】


「……じゅ、十二ミル……!」


相棒が、震える指でクロノ・ガンを取り出す。

「よし……この距離、このタイミング……絶対に仕留められる……」


だが、そのすぐ傍に、小さな球体がふわりと浮いていた。

気流の音も、浮遊の駆動音もない。音もなくただ、存在していた。


「……ん? なんだ……これ」


球体は、静かに淡い光を灯し、男の顔を照らした。

相棒が眉をひそめるよりも早く、もう一つの球体がロバートの前でも光を放った。


レゾナンス・スフィア。

空間を共振させる双子の共鳴体。

見えぬ者に“虚空の輪郭”を伝えるための、闇に光る二つの眼。


ゴロツキは、気にも留めず、ゆっくりと引き金を引いた。

銃声が鳴る瞬間。

ロバートの前に浮かぶ球体の光が揺れた。

同時に、彼の前でクロノブレードが赤く閃いた。


バシュッ


その瞬間、光が裂けた。

空間がねじれ、視界が揺れる。

気づいた時には、銃を構えていた男の背後で、相棒の体が――


真っ二つに割れていた。


「なっ……!?」

振り返る前に、冷たい気配が首筋を撫でた。


ロバートが、そこに立っていた。

焚き火の前から、一瞬にして背後へと現れた、漆黒の刃の使い手。


「ヒッ、ひいぃっ……!」

怯えた声が漏れた瞬間、もう一振り。


シュバッ


首が、空を舞った。

刃は見えず、音もなかった。ただ“死”という事実が、静かに着地した。


ロバートは、虚空に開いた裂け目に歩み入り、

ふたたび、焚き火の前へと戻ってきた。


時空の歪みは、すぐに音もなく消えた。

焼かれた鳥の香りが、まだ空気の中に残っていた。


ロバートは何事もなかったかのように、再び串にかぶりつく。

焚き火の炎だけが、静かに彼の姿を照らしていた。


---


朝の空気はやわらかく、まだ街のざわめきが本格的に始まる前だった。

TPB巡査官、クレア・バンホーテンは制服の裾を風に揺らしながら、手をつないだ少女とゆっくり歩いていた。少女の名はバーバラ。まだ幼いが、時折見せる表情には大人びた影が差す。


「ねえクレアお姉ちゃん、今日の給食ね、クリームシチューなんだって!」


「いいなぁ、私も仕事のランチ、それにしてくれないかな~」


バーバラはくすりと笑い、クレアの手を少し強く握る。


やがて学校の門が見えてきた。

クレアはしゃがみこんで、バーバラの目線に合わせる。


「じゃあ、私は夕飯作りに行くから、今日もおうちで待っててね。変な人が来たら絶対ドア開けちゃダメだよ?」


「うん、大丈夫。鍵もしっかりかけて待ってる」


「いい子」


バーバラが校舎に入っていくのを見届けたクレアは、少しだけため息をつき、背筋を伸ばして歩き出す。


---


午前の巡回を終え、地域支所の執務室へ戻ったクレアは、溜まった書類と格闘していた。報告書、転送ログ、機器点検の記録……。地味な作業を淡々とこなし、ようやく一息ついたところで、同僚が声をかけてきた。


「ねえ、クレア。今月の備品等点検の当番って、あなたよ?」


「……しまった!」


思わず立ち上がる。バーバラが待っている。けれど、当番は逃れられない。

急いで装備室へと走り、消火器の圧力チェック、クロノ・ガンのシリアル確認、施錠管理の再確認。無駄口を叩く余裕もなく、義務を淡々と消化していった。


---


陽が落ちると、街は冷たく静まり返る。

そんな中、一人の男がゆっくりと歩いていた。目は見えない。だが、頭上にはふたつの小さな球体――レゾナンス・スフィアが漂い、淡い光で前方を照らしている。手には仕込み杖。その先端で、地面を「コン、コン」と確認しながら進む姿は、やや滑稽にも映る。


「……ふふっ」


笑い声が、静寂を破った。


近くの街灯の下、ランドセルを背負ったバーバラが、両手を口に当てて、クスクス笑っていた。


「誰かが、笑ってますね?」と男――ロバート・ウィリアムズは、顔を向け、微笑んだ。「お名前は?」


「バーバラだよ。おじさんは?」


「ロバートって言います。よろしくね。そんなに可笑しかった?」


バーバラは頷き、「だって、目が見えないのに前を照らしてるんだもん」と楽しそうに答える。


ロバートはくすりと笑い返す。


「違うんだよ。これはね……暗い道で、おじさんに気づかずぶつかってくる人がいないように、“ここにいるよ”って知らせてるんだ」


「あ……ごめんなさい。知らずに笑っちゃって」


「いいんだ、いいんだ。おじさん、気にしてないから」


ロバートの声は優しく、バーバラの表情が少しだけ和らぐ。


「ところで、こんな暗い道で何をしてるの?」


「お姉ちゃんが、なかなか来ないから……ここで待ってたの」


「そうか。でも、お姉ちゃんもきっと心配するよ。お家、戻ろうか?」


「うん、すぐそこだよ」


バーバラはロバートの手を取って、慣れた道を歩き出した。


---


家に到着すると、外から見ても明かりはなく、人の気配もない。ロバートが首を傾げる。


「お家の人は?」


「誰もいないよ。私一人なんだ」


その言葉に、ロバートは微かに顔を曇らせる。感じるのは、不自然な静けさと、少女には大きすぎる空間。そして、そこにあったはずの家族の気配――今はただの残響。


「どうぞ、入って。ここに座って?」


ロバートは導かれるまま、ソファに腰掛けた。バーバラも隣に座り、無邪気に笑う。


――しかしその瞬間。


玄関の扉が開き、鋭い声が空気を裂いた。


「バーバラ、離れて!その人から!」


クレア・バンホーテンが、クロノ・ガンを構えて立っていた。


「違うの!」バーバラが咄嗟にロバートの前に立ちふさがる。「ロバートさんは目が見えないの!だから、撃っちゃダメ!お願い!」


クレアは一瞬呆気にとられ、視線を彷徨わせた。「……え?目が?本当に?」


ロバートは苦笑しながら立ち上がる。「誤解も仕方ありませんよ。こんな時間に、小さな女の子の家に中年男がいたら、不審に思いますよね」


「……すみません。完全に早とちりでした」


「では、私はこれで――」


ロバートが去ろうとしたその時、クレアが声をかけた。


「今から夕飯を作るところなんです。良かったら、ご一緒にどうですか?」


「そうだよ、ロバートさんも食べていこうよ!」


バーバラが、彼の服の裾を掴む。


「……いいんですかね。では、ありがたく、ごちそうになります」


微笑むロバートの声に、バーバラもクレアもほっと息をつき、

三人の静かな夕食が、ゆっくりと始まろうとしていた。


---


かつての賑わいは遠い記憶となり、今や錆と埃の匂いに満ちた古びた刑務所。

その施設の片隅に、ミゲル・ヘンダーソンという男が収監されていた。


かつては家庭を持ち、娘の笑顔を見て笑う男だった。今は、無機質なコンクリートの中で、無言で鉄板を磨き続けている。

老朽化の進んだ施設の中、作業用の工具ですら使い勝手が悪く、動作のたびにガチャリと金属音が響いた。


「やれやれ……ここのセキュリティも骨董品だな。テレポーターも時々エラー吐いてるって話だぜ」

作業員のひとりが言った。


「同期が取れねぇってよ。最新の監視プログラムとも相性悪いらしい」

もう一人がボソリと応じる。


「こっから抜け出すには、そういうグリッチを使うしかねぇか……」


「私語を慎めッ!」

金属の棒が鉄製の机を叩く音とともに、刑務官の怒声が飛んだ。

場の空気が一瞬にして凍りつき、誰もが黙々と作業に戻る。


やがて、作業終了のブザーが鳴り響く。囚人たちは工具を返却し、決められた位置に整列する。

無表情な看守が点呼を取り始めた。


「番号確認──103号室、ミゲル・ヘンダーソン」

「ここだ」

ミゲルは静かに手を挙げた。


その夜。

夕食後、収容棟に戻ったミゲルの耳に、新たな知らせが届く。


「103号室に新入りが入る」

看守が事務的に言い残して去っていった。


ミゲルは無言で狭い独房に戻る。

ベッドに腰を下ろした直後、重い扉の向こうから足音が近づいてきた。


「こいつが今日からお前と同室だ」

扉が開き、看守が新入りの肩を押すようにして中へ入れる。


その男は中に入るなり、ミゲルの顔を見て目を見開いた。

「……ミゲル!? なんでお前がこんなところにいるんだ!?」


ミゲルの眉がぴくりと動く。

「……その声……まさか……ミックか?」


「そうだよ!ミック・ラングレンだ!」

ミックはミゲルの肩を両手で掴んだ。「おい、嘘だろ……お前がここに? あんないい暮らししてたのに、何があった?」


「先に、お前がどうしてここに来たのか教えろ」

ミゲルは目を細めるように、ミックの顔をじっと見ようとした。


ミックはバツの悪そうな顔をした。「ああ……まあ、色々あったよ。会社を辞めて、転々としてな……最後は非合法カジノで用心棒みたいなことしてた。

でもある日、店で乱闘が起きてさ、それで一斉摘発に巻き込まれてお縄ってわけさ。

しかも、送られてきたバスがさ……ひでぇもんだったよ。旧式で、セキュリティもガバガバ。ありゃ本気で脱走できるレベルだったぜ」


「……そうか」

ミゲルは、少しだけ口元を歪めた。


「それで?お前こそ、何をやらかしたんだ?」

ミックが問いかけた瞬間、ミゲルはわずかに目を伏せた。


「……俺は、殺人犯として捕まった」

「はぁ!?」

「――でも、本当は……違う」


静かに、ミゲルの口が開き始めた。


「クライスラー一家ってのを、知ってるか?」


「……ああ、聞いたことある。猟奇殺人の噂が絶えない、ヤバい連中だろ?」


「……その通りだ。噂なんかじゃなかった。あいつらは……本当に、人を喰ってる」

「……なんだって……?」


ミゲルの拳がゆっくりと震え始めた。

「俺の妻が……会社で働いている最中に連れていかれた。俺は……見たくもないが……そこで、何が起きたかを想像するしかなかった」


「……お前……」


「俺は真実を知るために、奴らの会社に乗り込んだ。だが、そこにはすでにTPBの捜査官が待ち構えていた。

……気づいた時には、取り押さえられ、"妻を殺した"と――そういう筋書きが、もう出来上がっていた」


部屋の空気が重く沈む。

ミゲルの声がかすかに震えた。


「……俺には、バーバラという娘がいる。まだ小さかった……今どうしているか……クレアさんってTPBの巡査官が面倒を見てくれてる。

感謝してる。だが……それでも……俺がそばにいられないことが、何より辛い」


ミックがゆっくりと頷いた。

「お前にも……娘さんがいたのか……」


「……何か、気になるのか?」

ミゲルが尋ねた。


ミックは逡巡の末、ぽつりと言った。


「カジノで働いてた時な……"小さな女の子を探してる連中がいる"って話を聞いたんだ。見た目の特徴も、年齢も……なんか、バーバラに似てる気がしてさ……」


「――なに……?」


ミゲルの目の奥がギラリと光った。

次の瞬間、彼は獣のように叫び声を上げた。


「バーバラ!バーバラァァァ!!ここから出せ!俺をここから出せぇ!!」


鉄格子を叩き、壁を殴り、ミゲルは暴れた。

獣の咆哮のような怒号が、収容棟の中に響き渡る。


すぐに数人の刑務官が駆け込んできた。

「おい、何やってる!抑えろ!」


「離せ!離せぇ!!バーバラが!奴らが――!」


数人がかりでミゲルを床に押さえ込み、鎖を打ち込むように手錠がかけられた。


「独房だ。連れて行け!」


連れ去られていくミゲルの叫び声が、廊下の奥へと消えていく。


その場に残されたミックは、ただ呆然と立ち尽くしていた。

「ミゲル……」

それ以上の言葉は出てこなかった。


刑務官の一人が、ミックに詰め寄った。

「……お前、ミゲルに何を言った?」


ミックは首を横に振るだけで、言葉を失っていた。

心の中に、罪悪感と焦燥が渦を巻いていた。


---


薄暗い照明の下、ささやかな食卓には、スーパーの総菜が所狭しと並べられていた。

揚げ物の香ばしい匂い、酢の効いたサラダの香り、電子レンジで温めたグラタンの湯気が、三人をほんの少しだけ、現実から遠ざけてくれていた。


「スーパーでお惣菜が半額だったの。それで、ついつい買いすぎちゃって……」

クレア・バンホーテンは、口に運んだコロッケをもぐもぐしながら、照れ笑いを浮かべる。

「ロバートさんがいてくれて、助かったわ。これ、私たちだけじゃ食べきれないから」


「お姉ちゃん、よくいっぱい買ってくるから、冷蔵庫がパンパンになるんだよ」

バーバラ・ヘンダーソンが小さく笑いながら口をはさむ。頬にはチキンの油が少しだけついていたが、それを拭くでもなく、彼女は楽しそうに微笑んでいた。


クレアはバーバラの言葉に笑ってから、ふとロバートの方を向いた。

「……ごめんなさい、なんか。無理やり付き合わせちゃったかしら?」


「いやいや」

ロバート・ウィリアムズは静かに笑う。目は閉じられていたが、その声音には穏やかな温もりがあった。

「ちょうどお腹が空いていたんです。これからどうしようかと思っていたところでしたから、助かりましたよ」


「本当ですか~?」

クレアは、ややからかうような口調で返す。


「本当ですよ」

ロバートは淡く笑いながら、湯気立つスープをすすった。


やがて食事も終盤にさしかかり、バーバラが口を開いた。

「もう夜も遅いから……二人とも、泊まっていきなよ。お布団、ちゃんとあるから」


「じゃあ、お言葉に甘えて……お姉ちゃん、泊まっていこうかな」

クレアは微笑みながら言った。

だがその瞬間、ロバートがクレアの方へ「さすがにマズいでしょう」という表情をする。


バーバラはそれに気づいたのか、そっとロバートの服の袖を掴んだ。

「バーバラ、いつも一人で寝てるの。……もう、寂しいのは嫌だよ」


その声には、子どもとは思えない深い孤独がにじんでいた。

ロバートは一瞬、言葉を失った。そして小さく息を吐き、ちらりとクレアのほうを向いた。


クレアはその表情に気づくと、にこっと笑い、冗談めかして言った。

「大丈夫です。私はTPBの巡査官ですから。……変なことしたら、逮捕しちゃうぞ?」


ロバートは軽く首を振りながら、やれやれと肩をすくめた。

「……ごめんなさいね。一晩だけですよ」


それを聞いたバーバラは、声を弾ませて立ち上がる。

「やったぁ! じゃあ、急いでお布団敷いてくるね!」

そう言って、走るように寝室へ消えていった。


──ほどなくして、かつて父と母、そしてバーバラが川の字で寝ていたであろう寝室に、布団が敷かれた。

その真ん中に、バーバラ。両脇にクレアとロバート。三人は新たな川の字になった。


天井をぼんやりと見つめながら、バーバラは満ち足りたように、幸せそうな息をついて眠りに落ちていった。

クレアも、勤務の疲れからか、バーバラに寄り添うようにして静かに寝息を立てはじめた。


ロバートは、しばらく眠れずにいた。

──こんな小さな女の子に、一体何があったんだろう?


胸の奥で問いが浮かんでは消えたが、異様なまでに静かなこの家と、バーバラの落ち着きすぎた瞳を思い出し、ロバートはそっとその考えを打ち消した。


余計な詮索は、今はやめよう。

それよりも、この一晩を、安心して過ごせるようにしてあげたかった。


やがてロバートもまぶたを閉じ、静寂の中へと身を委ねた。

三人の寝息だけが響く、やさしく、あたたかな夜だった。


---


地下鉄の廃線跡を改造して作られた、違法な地下カジノ。

煙草とアルコールと人間の欲望の匂いが混ざり合うその空間の奥、警備員さえも近づかない「立入禁止」のドアがあった。


そこに掲げられたのは「故障中」のプレート。だが、知る者は知っている――この先にこそ、真の闇があると。


静かにスライドした扉の奥、薄暗い照明に照らされた密室には、重厚な机を囲む数人の男たちの姿があった。


ジェームス・クライスラー。

カジノの実質的な支配者であり、クライスラー一家の頂点に立つ男。

その隣には、冷ややかな目をした幹部たちが並び、中央の一人が銀色のパッケージを机に置いた。


「MMAです。新たな製法で精製した合成麻薬。今までの半額で仕入れができる上物です」

幹部は落ち着いた口調で言った。


ジェームスは無言でパッケージを開け、中の白い粉を少量、指先に取り、舌に乗せた。

ぴりつく感覚とともに、わずかな苦味が広がる。


「……なるほど。悪くない」

彼は唇を舐め、ゆっくりと頷いた。


「ただし――」

別の幹部が補足するように言った。

「処理工程が簡素化されている分、副作用が強い。常用すると、短期間で脳が侵され、身体機能も低下します。廃人同然に……」


「構わん」

ジェームスの声は低く、しかし絶対的だった。

「どうせ家畜だ。副作用で死のうが潰れようが、使い捨てるだけの話だ。……すぐに市場に流せ」


沈黙の中、幹部たちは無言で頷いた。


ジェームスは椅子を軋ませながら立ち上がり、机の上にある灰皿に吸いかけの葉巻を押し付けた。

紫煙が静かにくすぶる中、彼は言う。


「……ここは引き上げるぞ。新しい拠点はすでに決めてある。人間も送り込んだ。だから、ここは“消しとけ”」


一人の幹部が声を潜めて尋ねた。

「……ここの従業員たちは、どうしますか?」


ジェームスは、まるでゴミの処理方法でも聞かれたかのように、無感情に答えた。


「全員殺して埋めとけ。どこにも漏らすな。……一人残らず、だ。いいな?」


幹部たちがまた頷いた。誰も、口を開かない。


そしてジェームスはふと思い出したように、ニヤリと口元を歪めた。

「そうだ。……次の晩餐会の“目玉”はどうした?」


幹部の一人が、淡々と報告する。

「すでに目星はついています。捕獲班も動かしています。間もなく確保できるはずです」


「ふむ……」

ジェームスはゆっくりと目を閉じた。


「最近は、不味い肉ばかりでな。筋張ってたり、臭みが強かったり……。ああ、あの女――ルシールは良かった。あれは絶品だったな。臭みもなく、舌触りも柔らかい。あの歯ごたえ……未だに超える肉は出てきていない」


ふと、幹部の一人が口元を吊り上げた。

「……実は、ルシールには“娘”がいたようでして」


「……なんだと?」

ジェームスの目がゆっくりと開く。


「それは楽しみだな。期待してるぞ。絶対に捕獲して来い。逃がすなよ?」


幹部たちは深く頭を下げた。


静かな密室に、ジェームスの喉の奥から湧き上がるような笑い声が響いた。

狂気を含んだその笑いが、やがて幹部たちにも連鎖し、カジノの奥――この都市の闇の心臓部で、不気味な共鳴を奏でた。


そして数分後、扉が音もなく閉じられ、狂宴の密約は、闇に飲み込まれていった。


---


朝の陽ざしが、レースのカーテン越しに穏やかに差し込んでいた。

クレア・バンホーテンは、薄い毛布に包まれたまま、ゆっくりと瞼を開けた。


「ん……そういえば……昨日、結局バーバラちゃんの家に泊まっちゃったんだった」


彼女は頭をかきながら身体を起こす。

簡素ながらも清潔に整えられた部屋の中で、まだ微かに夜の気配が残っている。

ふと、横を見ると、あるはずの人影が見えなかった。


「あれ? ロバートさんがいない……」


ロバート・ウィリアムズが使っていた布団は、きちんと折りたたまれ、部屋の隅に静かに置かれていた。

まるで最初から何もなかったかのような、完璧な痕跡の消し方だった。

クレアは少し眉をひそめたが、ため息まじりに立ち上がり、洗面所へと向かった。


朝の支度に取りかかるのは、もう慣れたものだった。

この家に泊まるのは初めてではない。

何度もこうして、バーバラの世話を焼いてきた。

顔を洗い、歯を磨き、冷蔵庫を開けて材料を取り出す。

フライパンに卵を割り、パンを焼き、香ばしい匂いが台所を満たしていく。


「バーバラちゃん、起きて。ごはんできてるよー」


クレアの呼びかけに、ふとんの中でバーバラがもぞもぞと動く。

やがて、寝ぼけ眼のまま顔を出した。


「……ロバートさんは?」


「ロバートさんはね、朝早くに出てっちゃったみたい」


クレアは手を拭きながら、静かに答えた。


「そっか……」


バーバラは少ししょんぼりとした表情を浮かべたが、すぐに気を取り直すように口を開いた。


「じゃあ、顔洗って、歯磨きしてくるね」


そう言って、小さな足音を立てて洗面所へと向かっていった。

二人は朝食をとり、制服のしわを整え、簡単な身支度を終えた。

クレアはいつものようにバーバラを連れて、通勤がてら学校まで送り届けた。


太陽が高く昇り始める中――

別の場所で、黒いコートの男が一人、静かに朝の風を受けながら歩いていた。


ロバート・ウィリアムズ。

フェイズネーム:ブラック・エテルナム。


その歩みは速くも、どこか未練を引きずっているようだった。

彼の聴覚には、街の喧騒よりも、自らの鼓動のほうがよく響いていた。


(自分は……グリッチライダー。TPBの巡査官と一晩一緒にいて、バレなかったのが奇跡だ)


だが、それも時間の問題だろう。

彼女が気づけば、命を懸けた対峙を避けられない。


(あのままいれば……いくらクレアと言え、叩き切らないといけない事態になりかねない)


かつてはただの通りすがりのTPB職員としか思っていなかった。

だが、バーバラという小さな命と、彼女を守ろうとするクレアの姿に――

いつの間にか、心の奥底に火が灯ってしまったのだ。


(……情けない。こんな感情、忘れろ。忘れろ……)


ロバートは風の中に顔を上げ、歩みをさらに早めた。

振り返ることのないように。


---


一方その頃、TPB地域支所――。


クレアは自席で端末に向かい、朝の事務処理に没頭していた。

腰の端末が、小さく赤く点滅していることにふと気づく。


「あれ……? 朝から付いてたの……? なんで……?」


不審に思いながら端末を操作し、警告ログを確認した。


《警告:フェイズネーム ブラック・エテルナム》

《区分:グリッチライダー/遭遇記録:至近距離》


「……え?」


その瞬間、全身から血の気が引いた。


(まさか、あの人が……)


感情と職務がせめぎ合う中、背後から同僚の声が飛んできた。


「クレア、緊急招集よ!」


「何が起きたの!?」


「刑務所で囚人移送中に、脱走者が出たらしいわ!」


凍りつくような知らせだった。


「……了解。すぐ行く!」


クレアは立ち上がり、クロノ・ガンをホルスターに装着し、防弾ベストを着込んだ。

一瞬だけ、バーバラの笑顔が脳裏をよぎった。


(……頼むから、関わらないで)


装備を整え、彼女は走り出した。

知らぬ間に心に踏み込んできた、あの黒い影の余韻を引きずりながら――。


---


その日の朝、刑務所の中庭には、霧のような朝靄が薄く漂っていた。

鉄条網に囲まれた敷地に、囚人たちが無言のまま整列させられている。誰も話さず、誰も笑わず、ただ冷たい空気の中で、秩序だけが支配していた。


「点呼開始!」


コマンドのような掛け声が響き渡ると、列ごとに番号が読み上げられていく。

重たい足取りの囚人たちは、顔も上げずに数字を答え、また静寂が戻った。


しばらくして、門の外に旧式の輸送バスが三台、エンジンをふかしながら並べられた。

排気ガスの匂いが、朝の冷気を押しのけるように広がる。


鉄鎖の鳴る音とともに、囚人たちは列を成し、一人ずつバスへと乗り込んでいく。

そのうちの一台、中央の車両には、ミゲル・ヘンダーソンとミック・ラングレンの姿があった。彼らは隣同士に座り、無言のまま、わずかな視線のやり取りで、ある“合図”を交わしていた。


車内の空気は沈黙していたが、ただ一人、鋭い目つきの刑務官が座席を歩きながら囚人たちを睨みつけていた。

その腰には、クロノ・ガンが装着されている。TPB直属の武器を携えるその男の姿は、誰が見てもただの刑務官ではないことを物語っていた。


バスが動き出す。振動とともに、車体は古びたサスペンションをきしませながら、監獄を後にした。


ミゲルが、ふいに立ち上がった。


「バスを止めろ!ミゲルが――っ、ミゲルが大変だ!このままだと死ぬかもしれねぇ!」


そう叫んだのは、隣に座っていたミックだった。突然の叫びに、車内の空気がピリついた。


「座れ。おとなしくしろ」

刑務官が即座に反応し、クロノ・ガンを構える。


ミックはまったくひるまない。

手錠で繋がれた足のまま、ぴょんぴょんと跳ねるように刑務官へと近づいていく。

滑稽とも危険ともつかないその動きに、一瞬の判断が遅れる。


「動くなと言っただろう――!」


刑務官が引き金に指をかけた、まさにその瞬間。


ミックの足がもつれ、前方へ倒れ込むように滑り出し――

その巨体が刑務官の胴へと直撃した。


「――っ!」


バランスを崩した刑務官の身体が反転し、構えたクロノ・ガンの銃口が背後に向いた――

発砲音が響く。

弾丸は正確に、運転席の男の肩を撃ち抜いた。


「ぐあッ……!」


運転手の身体がのけぞり、ハンドルを握る腕から力が抜ける。

バスは制御を失い、ガードレールをこすりながら蛇行し、やがて斜面へと突っ込んだ。


がしゃああああっ――!


車体が横転する。

鉄の音、ガラスの砕ける音、囚人たちの怒号が渦巻くなかで、バスは何度も地面を転がり、ついには動かなくなった。


中はめちゃくちゃだった。

座席から吹き飛ばされた囚人たちが呻き声を上げ、刑務官は運悪く窓に頭を打ちつけ、意識を失っていた。


ミックは這うようにしてそのポケットから鍵を探り、拘束具を解除する。

「ミゲル!こっちだ!」

割れた窓から身を乗り出し、手を伸ばす。


ミゲルは黙ってうなずき、その手を掴むと、崩れたバスの外へと身を滑らせた。


脱出成功――いや、それはまだ始まりにすぎなかった。


二人は荒れた土の斜面を転がるように駆け下り、谷底を目指して逃げ続けた。

やがてたどり着いたのは、長年放置され、今では通行止めとなった旧道のトンネル。コンクリートの壁には、古い落書きと錆びた注意喚起の標識が残っていた。


ミックが肩で息をしながら振り返る。


「よし……ここで二手に分かれよう、ミゲル。お前は娘さんを連れて逃げろ」


ミゲルは目を見開く。「……お前は?」


「俺は昔の(つて)を頼る。グリッチライダーの連絡所がある……この辺の地下に、な」


その言葉に、ミゲルの目が潤んだ。


「……ミック、お前と出会えて本当に良かった。ありがとう」


「よせよ。お前と俺の仲だろ?とにかく娘さんを助けろ。早く行け」


ミックは最後に、力強くミゲルの肩を叩いた。

そして、二人は無言のまま背を向け合い、別々の闇の中へと消えていった。


その先に待つのが、自由か、破滅か。

それは、まだ誰にも分からなかった。


---


轟音と共にバスの車体が傾き、谷沿いの細道に横たわったのは、ほんの一時間前のことだった。


焦げたタイヤの匂いとオゾンのような金属臭が辺りを漂い、まだ煙の立ち上る現場には、すでに交通管理局(TPB)の職員たちが多数到着していた。

オレンジ色の規制ホログラムが現場を囲い、地形スキャン用のドローンが空を旋回している。

黒い制服に身を包んだ捜査官たちは、手際よく負傷者の搬送を指示し、テレポート装置で搬送中のルートを封鎖した。


転覆したバスの近くでは、一人のTPB捜査官が腕を組み、沈黙のまま現場を見渡していた。

事故というには不自然すぎるタイミング。そして、手際よく捕まった“脱走未遂者”たち。

――何かが引っかかる。


「……これで、このバスに乗っていた囚人は全員か?」


TPB捜査官が尋ねると、傍らの刑務官がすかさず敬礼し、無表情で答えた。


「はい、これで全員です。脱走者はおりません」


「そうか、大変だったな。よくやった、ご苦労」


短く言い、捜査官は書類端末にサインを入れようとした。


そのときだった。


「ちょっと待って!」


クレア・バンホーテンが駆け寄ってきた。若いTPB巡査官である彼女の手には、現場で拾った一組の手錠があった。


カシャリ。


彼女はそれを差し出すと、眉をひそめて言った。


「この手錠……鍵が外れてた。けど、ついてるはずの“中身”がなかったの。見て、血の跡もない。外れたってことよね?」


捜査官は手錠を受け取り、表面を一瞥すると、口元をわずかに歪めて笑った。


「ほう。……これは見事な“脱出”だな」


捜査官は刑務官に顔を向け、わずかに身を乗り出す。


「この手錠には手も足も付いてないな。その手と足が、今どこに行ったのか――答えてもらえませんか? 嘘つきさん」


その声は鋭く、空気が凍りついた。


刑務官の喉がひくつき、やがて搾り出すように震えた声が漏れた。


「……脱走者は……2名です……」


「名前は?」クレアがすぐに問い詰める。


刑務官は唇を噛み、うなだれながら言った。


「ミック・ラングレン……と、ミゲル・ヘンダーソン……。谷に降り、森へ向かったものと……」


クレアの表情が一変した。


「――なんてこと!」


彼女はすぐに踵を返し、背後のTPB捜査車両へ駆け寄った。

運転席に飛び乗り、始動スイッチに手をかける。


「クレア、待って!まだ現場処理が終わってないわよ! どこ行くの!」


同僚の捜査員が慌てて制止に入った。


だが、クレアはすでにエンジン音と共に車両を動かしていた。

風になびく金髪の奥で、焦りと使命感が混じった鋭い視線がこの道の先を見据えていた。


「そんな場合じゃないの!……緊急事態よ!」


彼女の声が、車両の中に響き渡り、タイヤが砂利を巻き上げながら街の方角へと突き進んでいった――。


---


森の匂いが肌にまとわりつく。脱走直後のミゲル・ヘンダーソンは、刑務所の囚人服を引きずりながら、木々の間を抜けた。足元の泥に滑りながらも、彼は止まらなかった。ただ――娘に会うために。


やがて、視界が開けた。広大な建設現場が目の前に広がる。車両通行用テレポーターの設営地だ。巨大な転送フレームがクレーンで吊り上げられ、複数のトラックが整然と並んで停まっている。


一台、窓が開け放たれたトラックがあった。ミゲルは辺りに誰もいないことを確かめ、迷わずその車両へと足を向ける。ドアを開けると、運転席には汗染みのある作業用のツナギが脱ぎ捨てられていた。


「神様……ありがとう」


息を荒げながらミゲルはツナギを手に取り、その場で囚人服を脱ぎ捨てた。ツナギのポケットをまさぐると、厚紙のような感触――日雇い労働者用のテレポート・クレジットカードが入っていた。わずかながらも移動に必要な通貨がそこにあった。


---


近くの雑貨屋で、ミゲルはさっとジャケットとシャツ、ズボンと靴下、安物のスニーカーを手に取り、クレジットで支払いを済ませた。さらに、髭剃りや整髪料、歯磨きセット、プラスチック製の櫛、そして市街地を広くカバーするタウンマップを購入する。


次に向かったのは、商業施設内の広いトイレだった。洗面台で、長く放置された髭を丁寧に剃り、髪を撫でつける。口を濯ぎ、鏡に映る自分を見た。刑務所に入れられる前の、父親としての自分に、少しだけ戻った気がした。


マップを開き、地元にある転送ノードの位置を記憶する。クレジットの残額では、直接の転送はできなかったが、森の小道を縫うように歩けば、徒歩20分で抜けるルートがあった。


---


午後、太陽が斜めに傾きかけた頃――

ミゲルは、かつて家族と暮らしていたあの家に辿り着いた。


扉を開け、ゆっくりとリビングへ足を踏み入れる。ソファは…そのままだった。バーバラが掃除してくれているのだろうか。埃一つないその表面を見て、自然と目頭が熱くなる。


ソファに座り、顔を伏せる。

――「陽当たりがいいところでよかった。ありがとう。この子がこの家を“実家”と呼ぶんだ。この子は幸せ者だわ」

懐かしい声が、心の奥からよみがえる。お腹を撫でながら微笑んでいたルシールの姿が、まざまざと浮かぶ。


その時だった。


「……お父さん?」


振り向くと、ランドセルを背負った少女が、扉の前に立っていた。目を見開き、手が震えている。


「お父さんっ! お父さん! お父さあああん!!」


次の瞬間、彼女は泣きながらミゲルに駆け寄り、力いっぱい抱きついた。ミゲルも、抑えきれずに涙を流した。


「ごめん、バーバラ……ごめん……本当に……。お前を、守れなかった……」


ただ、それしか言えなかった。

娘を必死に抱きしめるしか、もうできなかった。


---


その様子を、玄関の影から見ていた者がいた。TPB巡査官、クレア・バンホーテン。静かに家に入り込んでいたが、その光景に、思わず涙が頬を伝った。とても――とてもじゃないが、今、ミゲルを逮捕するなどできるわけがなかった。


しばらくして、クレアは深く息を吐き、リビングへ足を踏み入れた。


「……残念ですが、ミゲル・ヘンダーソン。加重逃走罪で、あなたを逮捕します」


「お姉ちゃん……!」

バーバラが、悲しみに満ちた瞳でクレアを見上げた。


ミゲルは娘を背にかばいながら、叫ぶように言った。


「待ってくれ……! 俺が妻を殺したんじゃない。信じろとは言わない……でも、娘だけは……バーバラだけは危険なんだ!」


クレアは目を閉じ、苦しげに答えた。


「わかりました。バーバラはTPBが――いえ、私が必ず守ります。だから、信じて」


彼女が通信機を取り出し、本部に連絡を取ろうとしたその瞬間だった。


「……あれ? おかしいな……通信が繋がらない……」


通信機を振っていると、突然、玄関のガラスが砕けた。


「無駄だよ、お嬢さ~ん」


低い声が響いた直後、銃声が鳴り響く。

クライスラー一家の手下が3人、サプレッサー付きのクロノ・ガンを構えていた。


「くっ――!」


クレアとミゲル、二人は弾丸を受けて倒れた。バーバラが叫ぶ。


「お姉ちゃぁぁん!! お父さあぁん!! いやあぁぁ!!」


その声を無視し、手下の一人が少女をひょいと抱え上げる。


「はいはい、お嬢ちゃんはおとなしくしようね~♪」


そう言って、バーバラの首筋に麻酔装置を突き刺す。ぐったりと力を失うバーバラ。


「男は即死か? 女は……お、まだ息あるぞ。防弾ベストか、賢いな」


「両方運べ。男は例のカジノ跡地にでも埋めろ。女は、クライスラー様がどうするか考えるさ」


手下たちは、ミゲルとクレア、そしてバーバラを連れ去っていった。

夕暮れの光が、血と絶望に染まったリビングを照らしていた――。


---


地下鉄の廃線跡を改装したその酒場には、時の流れすら止まったかのような静けさが漂っていた。むせ返るような煙草の煙と、機械油と酒の匂いが交差するその空間。場末のジャズが壊れたスピーカーから流れ続ける中、ひとりの男が重い足音を響かせてカウンターのスツールに腰を下ろした。


男は、黒のコートに身を包み、顔の下半分をスカーフで隠していた。何より印象的だったのは、真っ黒なサングラス。そのレンズの向こうには、視界という概念は存在しない。


カウンターに、男はコインを静かに 5枚 置いた。音は小さかったが、場の空気を一変させるには十分だった。


「……!」


酒場の空気が凍る。端末を手にした店主がカウンター越しに近づいてくる。その端末に表示された金額を目にした瞬間、隣の客の顔がピクリと動いた。


100,000,000クレッド。それは一つの命どころか、国家を一つ動かすに足る金額だった。


その瞬間、酒場のあちこちで小声のさざ波が立った。


「……まさか……あれが……」

「ブラック・エテルナムだと……?」

「初めて見た……本当にいたのか……」


酔いが覚めた客の一人が、声を潜めて言った。「グリッチライダーを雇うには、一本10ミルからって噂だぞ……」


「10ミル!? 一人でか!?」

「いや……“奴”は一人で一個師団を壊滅させる。10ミルでも安いもんだ……」

「……盲目なのに……とんでもねえな……」


その空気を切り裂くように、ギィと軋む扉が開いた。ボロボロの囚人服をまとった、体格のいい中年男がよろよろと中に入ってきた。


男はカウンターに向かってふらつきながら歩き、店主に水を差し出される。


「……まずは水だ。落ち着いて座んな」


荒れた喉に水を流し込み、男――ミック・ラングレンは息を整えた。


「……グリッチライダーを……雇いたい……」


店主が眉をひそめた。「……コインは?」


「……今は……ない。後払いじゃ……ダメか……?」


店主の目が冷たくなる。「払えねえ奴は――殺されるぞ、ここじゃな」


場の空気が再び張り詰める――が、その時。


「……まあ、聞いてやってもいい」


低く、穏やかだが、どこか圧のある声が、ミックの隣から発された。


目を向けると、先ほどの盲目の男――ロバート・ウィリアムズが、ゆっくりと顔を向けていた。


ミックは、ロバートが“見えていない”ことに気づいて、少し安心したような顔をしながら話し始めた。


「……刑務所で、たまたま昔の友達に再会してな。そいつの奥さんがクライスラー一家に殺されたって言ってた。濡れ衣を着せられて、ぶち込まれたって」


「……それで?」


「名前は……ミゲル。娘がいるらしい。……そういえば、カジノにいた頃、小さな女の子を探してる連中がいたんだよな……その話したら、ミゲルが突然、半狂乱になってよ……」


ロバートの指が、ゆっくりとカウンターの上で動いた。


「それで……脱獄した、ってわけか」


「……ああ。俺は……ただ、いてもたってもいられなくて……ミゲルだけじゃ、娘を守れない。だから、グリッチライダーを探しに来たんだ……」


ロバートは一瞬、黙った。次の瞬間、指をパチンと鳴らす。


店主が寄ってくると、ロバートは黙ってコインを1枚渡した。


「テレポート・クレジットカードを、奴に」


スキャンを終えた店主が、無言でミックにカードを差し出す。


「……50万クレッド分、入ってる」


ミックは狼狽する。「……な、なんでこんな……?」


ロバートは、うっすらと笑った。


「情報料さ。ただし……これは俺の仕事だ。誰も手出しするな」


「お前は脱走中なんだろ。その金で逃げろ」


「……あんたの、報酬は?」と、ミックが尋ねる。


ロバートは静かに答えた。


「……もう頂いてある。夕食と宿泊分だ」


「……はあ?」


ミックが訳も分からず呆気に取られる中、ロバートはもう何も言わず、スツールから立ち上がった。


レゾナンス・スフィアが、彼の頭上に浮かび、ぼんやりと光を灯す。


ゆっくりとした足取りで、しかし一切の迷いのない歩き方で、漆黒の支配者(ブラック・エテルナム)は、地下の酒場を後にした。


重たい鉄扉の閉まる音だけが、しばらくの間、酒場の空気を支配していた。


---


あるカフェの隅、人目につきにくい小さな円卓で、ロバートは古い通信端末の暗号化リンクを開いていた。彼は周囲の客に気づかれないよう、静かに囁くように話し始める。


「よう、クロード。復帰したって?」ロバートは親しみを込めた口調だったが、その声には微かな探りが混じっていた。


通信の向こう側から、低く抑えられた声が返ってくる。「久しぶりだが、名前で呼ぶのはやめてくれないか。同業者だろう?」


ロバートはクスリと笑う。


「シャドウ・ダイバーと呼ぼうか?それとも、影の潜行者がいいか?俺だって、自分のことをブラック・エテルナムって呼ばれると、正直イラっとするぞ?」


「わぁかーったよ。わかった、ロバート」クロードは諦めたようにため息をついた。「で、何だ?」


ロバートは切り出した。「クライスラー一家がどこにいるかわかるか?」


「ああ、拠点を転々としているようだが……最近、また拠点を移したようだな。新しい拠点は、231地区の52番だ」クロードの声には迷いがなかった。


「ありがとう。さすがだな」ロバートは端末を握りしめた。


「助けはいるか?」クロードが尋ねる。


「この仕事は俺一人でやる。手出しするな」ロバートの口調は断固としていた。


「相変わらずだな。お前だけは敵に回したくないよ」クロードは、心底そう思っているようだった。


「お互い様だ。じゃあな」


そう言い残し、ロバートは通信を切った。カフェの賑やかな喧騒が、再び彼の耳に流れ込んできた。


---


クライスラー一家が根城とする遊技場施設――世間には煌びやかなエンターテイメントを提供すると謳いながら、その実態は闇の取引と非合法な快楽が渦巻く伏魔殿だった。TPBの監視を逃れるため、通常の電力供給システムから独立した、独自の小型分電盤とエネルギーコンバーターが、この空間を異質な光で満たしている。


杖を突いた全盲の男、ロバートは、カジノ入り口の受付カウンターに静かに立った。顔の半分を覆うサングラスの奥で、彼の視線がどこを見ているのかは誰にも分からない。彼は無言で、500,000クレッドを示す端末を提示した。


「それでは、ごゆっくりお楽しみください」


無感情な声と共に、20枚のオレンジチップが収められたケースが差し出される。ロバートはそれを受け取ると、カジノの派手なゲームには目もくれず、真っ直ぐにテーブルゲーム・マネージャーへと向かった。


「ジェームスはどこにいる?」ロバートの低い声が響く。マネージャーは一瞬固まり、警戒心を露わにした。


「何者だ、お前?死にたいのか?」


その言葉に呼応するように、すぐに二人の男がロバートの左右に現れた。


「その名前を出したのが運の尽きだな。こっちに来てもらおうか」


男たちが掴みかかろうと、にじり寄ってくる。ロバートは体の中心、やや前方に両手で杖を携え、男たちのほうに向けた。


「なんだジジイ?ビビってんのか?」


男の一人がロバートの肩に手を伸ばそうとした、その瞬間――


青白い光が一閃した。


「ぎゃあああ!」


男の左腕が、まるで紙切れのように吹き飛び、鮮血が宙を舞う。ロバートは一瞬で刃を仕舞い、杖は再びただの補助具と化した。鞘に収まったクロノブレードは、一切の光を失っていた。


「無明の太刀……」


刃を見せることはない。斬る瞬間にだけ光る青白い閃光。そして光は再び鞘の闇へと戻る。


「この野郎!殺っちまえ!」


さらに五人の男がクロノ・ガンを構え、ロバートを取り囲む。しかし、ロバートの低く凄まじい踏み込みが、数メートルの距離を一瞬で埋めた。青白い閃光が再び瞬き、一切の無駄がない最短距離、最速の動きで、三人の体が胴体から真っ二つに割れる。


「ヒイイッ!」


男たちの恐怖の悲鳴がカジノに響き渡る。


その異常事態に、カジノの扉が一旦開け放たれた。客たちは一斉に我先にと逃げ出し、空間がもぬけの殻になった瞬間、全ての扉が固く閉ざされた。


そのとき、建物の奥の部屋では、ジェームス・クライスラーに報告が入っていた。


「カジノでグリッチライダーが暴れてます!」


「そんなに強いのか?」ジェームスは低い声で尋ねる。


「一瞬で三人が真っ二つです……!」


「兵隊を送れ」ジェームスは苛立ちを隠せないまま指示した。


カジノでは、さらに二人の体が真っ二つになっていた。一人の男が恐怖に顔を引きつらせながらも銃の引き金を引く。しかし、ロバートは、むしろその銃弾に向かって、迷いなく踏み込んだ。


通常のクロノブレードとは異なり、彼のクロノブレードは高出力に設定されているため、鞘に納めなければ刃が収まらず出っぱなしになる。その凄まじい出力の刃を盾に、飛来する銃弾を吹き飛ばし、返す刀で男を袈裟に真っ二つに両断した。


その瞬間、部屋の一か所の扉が開き、そこから完全武装した20人の“兵隊”がなだれ込んでくる。ロバートは壁の方に寄り、そのロバートを取り囲むように兵隊たちは一斉に銃を構えた。


次の瞬間、ロバートは壁に設置されたエネルギーコンバーターをクロノブレードで叩き切った。部屋は一瞬で停電し、彼の青白く光るクロノブレードだけが、漆黒の闇を照らしていた。


「暗いのは…苦手かい?」


ロバートは(あざけ)るように言いながら、ゆっくりと刃を鞘に納めていく。そして、完全に刃が鞘に収まると、部屋は漆黒の闇に包まれた。


---


クライスラー一家が送り込んできた突入部隊は、正規の訓練を受けたプロフェッショナルではなかった。体格が良く、それなりに戦闘力の高い手下を完全武装させただけの寄せ集めだ。独自の戦闘訓練である程度の動きは身についていたが、照明環境の変化という、現代戦では最低限の戦術すら想定していなかった。


最低限の暗視装備や照明器具(ライト付き銃器など)は基本装備であり、平時の警備任務であっても照明の確保は基本的なリスクマネジメントである。それができていないのは、やはりコストをケチって作られた部隊の悲しさか。


漆黒の暗闇の中で、兵隊たちは盲目の剣士を完全に見失っていた。お互いの息遣いだけが、自身の恐怖を際立たせる。しかし、僅かな時間が過ぎ、うっすらと暗闇に目が慣れてきた、その次の瞬間――


ズガァンッ!


出力の高いクロノブレードによる、激しい閃光が闇を切り裂く。暗闇に慣れ始めた目には、その光はあまりにも強烈すぎた。一気に二人の胴体が吹き飛び、「ヒイィッ!」という断末魔の叫びが響き渡る。恐怖と混乱に陥った兵隊たちは、ろくに標的も確認できないまま、光に対して銃を乱射し始めた。


「ぎゃあぁ!」


無差別に放たれた弾丸は、闇の中を飛び交い、味方である兵士同士を次々と被弾させた。


すぐにクロノブレードの光は消え、部屋は再び漆黒の闇に包まれる。突然の眩しい閃光により、それまで慣れ始めていた目も眩み、兵士たちの視界はより深い闇へと突き落とされた。そして、また眩い閃光、一刀両断で吹き飛ばされる胴体。その激しい明滅が繰り返されるたびに、何も見えないカジノフロアでは、地獄が繰り広げられていった。


兵隊の一人が、何とか補助電源への切り替えスイッチを探り当て、血に塗れた手でそれを押す。カジノに明かりが戻った、その光景は……


おびただしい、ぶつ切りの死体の山。まさに地獄絵図だった。その中ほどに、ただ一人、杖をついた盲目の男が静かに立っている。


「ひゃああぁ!」


唯一生き延びた一人の兵隊は、恐怖におののき、カジノの奥にある施設の中庭の方向へと一心不乱に逃げ出した。


中庭に出た瞬間、兵隊の頭がスナイパーの銃弾で撃ち抜かれる。力なく地面に倒れたその体は、さらに仕掛けられていた地雷を誘爆させ、爆風と共に粉々に吹き飛んだ。


「ちっ!人違いか……」


高い塀に囲まれた中庭の上では、複数のスナイパーが待機していた。さらに地面には、無数の地雷が敷き詰められている。この中庭を抜けないと、ジェームスがいる奥の部屋に辿り着けないことをロバートは理解していた。


ロバートが指で合図を送ると、二つ浮かぶレゾナンス・スフィアのうちの一つが、静かに中庭の上空へと飛んで行った。


---


クライスラー一家が根城とする遊技場施設の奥深く、薄暗い座敷牢。停電で一度闇に包まれ、再び明かりが戻ったその瞬間、TPB巡査官のクレアはゆっくりと意識を取り戻した。


「私…一体…いてててっ!」


防弾ベストの上から撃ち込まれた銃創が、鈍い痛みを訴える。かたわらには、幼いバーバラが安らかな寝息を立てて眠っている。麻酔が打たれており、あと数時間は起きそうもないだろう。


「ここは…どこなの?」


座敷牢の格子越しに見える入り口のドア付近には、椅子を深く倒して寝息を立てる見張りらしき男がいる。


(何とかここを脱出してバーバラを助けなきゃ……)


クレアは全身の痛みに耐えながら、脱出のチャンスを虎視眈々と伺っていた。


時を同じくして、施設の奥。中庭の高い塀の上では、一人のスナイパーがじっとカジノルームの入り口に照準を合わせ、そこから出てくるであろう盲目の男を狙っていた。


そのスナイパーの頭上、何かが静かに淡い光を灯した。光に気づき、男がゆっくりと振り返ると、小さな球体がプカプカと宙に浮かび、光を放っている。「なんだ、こりゃ?」男の口から疑問の声が漏れた。


その小さな球体こそ、レゾナンス・スフィア。二つで一対となるこの球状のボールは、それぞれが微弱な亜空間を揺るがす共振体として機能する。TPBが利用するワープレーンが安定したワームホールを生成するのに対し、このボールは不規則かつ不安定な時空の共振波を放つ。二つのボールが特殊な光で照らした範囲内で、それらの波は互いに干渉し、共振フィールドと呼ばれる特殊な場を形成する。


そして、この共振フィールドが形成された状態で、クロノブレードがその片方の光を切り裂く行為は、単なる物理的な切断ではない。クロノブレードは、時空の継ぎ目から無限のエネルギーを引き出す能力を持つ。このエネルギーを共振フィールドの最も脆弱な点(ボールの光)に叩きつけることで、通常の空間を一時的に「虚空間(Vacuum Space)」へと変質させる。虚空間は物質や光が一時的に存在できない領域であり、TPBのいかなる技術でも検知・観測は不可能だ。


クロノブレードが片方の光を切り裂くと、その場所に虚空間の亀裂が生まれる。この亀裂は、共振フィールドを介してもう一方の光と瞬時に繋がり、一種の瞬間的なトンネルを形成する。この現象を発生させるためには、出力の高いクロノブレードに、さらにブーストをかけて一時的に出力を高める必要がある。通常、青白く光る刃は、ブーストをかけると一時的に赤く輝く。


スナイパーの頭上の空間から、突如として赤く光る刃が突き出す。ロバートは、空間ごとスナイパーの首をぶった切った。男の体は、音もなく地面に崩れ落ちる。


他のスナイパーたちは、小さな球体が放つ光を目掛けて銃弾を放った。しかし、レゾナンス・スフィアを捉えた銃弾は一発もなく、全てが空を切る。レゾナンス・スフィアは高速で飛び、また一人のスナイパーを照らした。男がすぐに立ち上がり、その光から逃げようとしたその瞬間、ロバートは、空間ごとスナイパーの胴体を切り裂いた。


さらにレゾナンス・スフィアは高速で飛び回り、合計五人のスナイパーを次々と照らしていった。ロバートは、その全員を空間ごとぶった切っていった。


中庭からスナイパーの気配が完全に消えると、レゾナンス・スフィアは奥の鉄柵の隙間をすり抜け、さらに奥のドアの上のわずかな隙間から中へと侵入していく。


その先は、中ほどに階段がある煌びやかなロビーだった。階段の上には巨大なクリスタルのシャンデリアが荘厳に吊るされている。ロビーで浮かぶレゾナンス・スフィアが静かに淡い光を灯す。


赤い閃光と共に空間が切り裂かれ、その裂け目の中から、ゆっくりとロバートの姿が現れた。


---


煌びやかなロビーの奥、中央階段の最上段には、クライスラー一家の幹部たちが待ち構えていた。階段を挟んで左右に二人ずつ、計四人。彼らはロバートを見下ろし、銃を構えている。


ロバートは即座に動いた。二つあるレゾナンス・スフィアのうち、ひとつを左から二番目の幹部の背後へ送り込む。もうひとつは、自身の目の前で静かに光を放っていた。


次の瞬間、幹部たちは一斉にロバートに向かって銃弾を放った。ロバートは当たりそうな二発の弾丸をクロノブレードで弾き飛ばすと、返す刀で空間ごと幹部の胴体を真っ二つに切り裂いた。切り離された胴体は、左右に分かれ崩れ落ちる。その背後にできた空間の裂け目の中から、ロバートは勢いよく踏み込んできた。


一番左にいた幹部は、咄嗟にロバート目掛けて銃弾を放つが、ロバートはそれよりも低い姿勢で一気に距離を詰める。青白い光が一閃し、その幹部の胴体も切り離され、吹き飛んだ。


ロバートの脇にあった巨大な石像に何かが当たった。コツンと音がした瞬間、凄まじい速度でクロノブレードが振り抜かれ、巨大な石像は真っ二つに割れてゆっくりと崩れ落ちた。


(あれ?今のなんだ?)


ロバートは目が見えない。しかし、音に対する彼の反応速度と、クロノブレードの破壊力は常軌を逸していた。


呆気にとられる幹部二人は、一瞬の静寂の後、すぐに気を取り直し銃を構える。彼らは、ひとつのレゾナンス・スフィアが、自分たちの背後を照らしていることに気づいていない。


ロバートの前に浮かぶレゾナンス・スフィアが静かな光を放っている。彼は幹部たちに背を向け、何かのタイミングを計っているようだった。


「撃て!」


幹部たちは一斉に引き金を引いた。その瞬間、ロバートは目の前の光を切り裂く。銃弾は空間に生まれた裂け目を抜け、背後の幹部の背中に命中した。そして、その裂け目の向こうでは、前にいる幹部が真っ二つになっていく様子が映し出されていた。


ロバートは、幹部四人すべてを倒した。間もなく下の階から、残っていた手下五人が、中央階段を上ってくる。


ロバートはレゾナンス・スフィアをシャンデリアに送ると、目の前の光を一閃した。その光は、シャンデリアの接合部を切り裂き、巨大なクリスタルの塊は階段へと落下していく。


「ぎゃあぁぁ!」


階段を上がっていた手下五人は、シャンデリアの下敷きとなり、見るも無残に押し潰された。


クライスラー一家の部下たちは、ここにいる全員が全滅し、ロバートはさらに奥の部屋へと進んでいった。


---


ロビーの喧騒から隔絶された奥の廊下。ロバートは、目の前に立ちはだかる赤い鋼鉄製の扉の前に静かに立った。その扉は厳重に鍵が掛けられており、物理的に開くことは不可能に見えた。ロバートは、躊躇なくクロノブレードを扉に突き刺した。


「グガガガ…!」


甲高い金属音が響き、ロバートは刃をグリグリと動かし、わずかに穴を広げた。その隙間から、彼はレゾナンス・スフィアをひとつ、部屋の奥へと送り込む。


そして、部屋の中で赤い閃光と共に空間が裂け、その裂け目からロバートがゆっくりと現れた。


ジェームス・クライスラーは、突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)を見るなり、手に持っていたクロノ・ガンを乱射し始めた。銃弾は止まる気配がない。ロバートは素早く動いて銃弾を弾き飛ばすが、クロノ・ガンには弾切れという概念が存在しない。五発、六発……銃弾の雨は止みそうになかった。


ロバートは左手に持った鞘の部分から、めったに見せない奥の手、青白いビーム弾を発射した。ビーム弾はジェームスの左の膝を正確に撃ち抜いた。


「ぐわあぁぁ!」


銃弾が止んだその隙に、ロバートは一気に踏み込み、ジェームスとの間合いを詰める。クロノ・ガンを持つ右腕を一閃、右腕はまるで紙切れのように吹き飛んだ。


「ぎゃあああ!」


ジェームスの悲鳴が響き渡る中、ロバートはさらに左の腕をも斬り飛ばす。


「ぎぃやあぁぁ!」


そして最後に、残った右足をも切断した。


「ヒイィィッ!ヒャアァァ!」


ジェームスの断末魔が部屋中に響き渡る。その呻き声を背に、ロバートは空間を切り裂き、再び部屋の外へと姿を消した。


---


クレア・バンホーテンは、痛む体を引きずりながら、座敷牢の格子越しに入り口のドアを見つめていた。

どこか遠くで、機械の稼働音が低く唸りをあげている。薄暗い部屋の中に、汗と鉄の匂いが混ざって漂っていた。


そのときだった。

「コン、コン」

乾いた音が、ドア越しに静かに響いた。


見張りの男が、背もたれを倒して眠っていた椅子から顔を上げ、ぼんやりとした目でドアの方を見た。

「……なんだ?」

そう呟いて立ち上がり、ゆっくりとドアを開けて外に出ていった。


そして——

「ぐぇっ!」

突如、濁った呻き声。何かが崩れ落ちる音。


ドアの向こうから、ゆっくりと人影が現れた。


暗闇を背にして立つ男。黒いコートの裾が、風もないのにわずかに揺れていた。

その両肩の上に、ふわりと浮かぶ二つの小さな球体。光を帯びて、静かに旋回している。


その姿を見て、クレアは息を呑んだ。


「……ブラック・エテルナム……」


男——ロバート・ウィリアムズは、座敷牢の前まで進むと、格子越しにクレアを見据えた。

その目は虚ろで焦点が合っていない。だが、その声音ははっきりしていた。


「すまないが、今はバーバラを助けたい。協力してくれないか?」


クレアは、顔をしかめながら立ち上がった。

「そんなこと、わかってるわよ! 早くここから出して!」


ロバートはわずかに頷いた。

「じゃあ、少し下がっててくれ」


彼はゆっくりと、柄の部分からクロノブレードを引き出す。

蒼い光の刃が、静かに振動しながら空気を裂いた。


「……!」


無駄のない、一閃。

鈍い音とともに座敷牢の鍵が焼き切られ、鉄が崩れるように床に落ちた。


「いててて……」

クレアは体を押さえながら、気を失ったバーバラを抱きかかえ、ゆっくりと牢の外に出てきた。


「それで……どうやって外に出るの? 案内して」


ロバートはわずかに眉を動かした。

「……傷は大丈夫か?」


クレアは一瞬だけ目を細め、苦笑を浮かべた。

「このくらいなら。私だって一応、訓練はしてるのよ。さあ、早く脱出しましょ」


ロバートはうなずいた。

「それなら……私を信用してくれないか?」


そう言って、彼は浮かぶスフィアのうち一つを、座敷牢の窓の外へと滑らせた。


「え? なに?」

クレアが怪訝な顔をする。


次の瞬間、ロバートのクロノブレードが、一瞬だけ赤く発光した。


ギィィィン——ッ!


赤い光が闇を裂いた。空間に亀裂が走り、その裂け目の向こうには、別の世界が広がっていた。

そこはクライスラー一家の遊技場施設の隣にある、薄暗い路地裏だった。


「……すごい……」

呆然としたクレアの隣で、ロバートが静かに言った。


「ここを通ってくれ」


クレアはバーバラを抱きかかえたまま、裂け目をくぐり抜け、路地裏へと飛び出した。

その後をロバートが続く。


しばらく歩くと、クレアはバーバラをそっと地面に降ろし、電信柱にもたせかけるように寝かせた。


「いててて……こんなところに寝かせちゃって、ごめんね……」


ロバートはクレアとバーバラを見下ろし、ふっと息を吐いた。


「すまないが……君たちはここで助けを待っていてくれ。私は、逃げなければいけない」


クレアは頷いた。

「わかったわ。ありがとう。……じゃあ、行って」


「逃がしてくれるのか……やさしいな」


ロバートはふと視線を遠くに向け、尋ねた。


「ところで……ミゲルは……父親は、どこか知ってるか?」


クレアは沈痛な表情で答えた。

「……残念ながら、クライスラー一家の凶弾に倒れて……亡くなったわ」


ロバートの頬に、静かに一筋の涙が伝った。


「この子は……また、ひとりぼっちか……」


彼はポケットから小さな端末を取り出し、数回タップすると、画面に「3,000,000クレッド」の数字が表示された。


「クレア……君にどうしても、お願いがあるんだ」


クレアはそれを見て驚き、首を振った。

「そんなの受け取れないわ。どうせTPBに没収されるし……」


「こんな悪党でも……その子の助けになりたいんだ。君が私をTPBに報告すれば、このテレポート・クレジットは保全されるはず」


ロバートは静かに言った。


クレアは真剣な眼差しで彼を見つめた。


「あなたを悪党なんて思ってないわ。でも……いいの? 追手が来るわよ?」


ロバートはにやりと笑った。


「ははは。賞金が多少増えるくらいだ。気にならないよ」


クレアはその笑顔に、一瞬だけ目を細めた。


「……あなたって本当にいい人ね。バーバラの代わりに、頂くわ」


彼女は自分の端末を取り出し、ロバートの端末に接続した。

数秒後、端末の画面に《転送 完了》と浮かぶ。


「1時間だけ待てるわ。早く行って」


ロバートは小さく頷き、微笑んだ。


「ありがとう」


そして、彼は背を向けて歩き出す。

路地裏の闇の中へ、静かに消えていった。


---


風が、ざらついた空気を巻き上げていた。

瓦礫と砂塵にまみれた廃墟の街並み、その一角──231地区52番。

通報コードを吹き込んだ直後、クレア・バンホーテンは一瞬、空を仰いだ。


「231地区52番、女児1名、TPB巡査官1名の保護を願う。こちら、巡査官クレア・バンホーテン」


声はやや乱れ、息も荒かったが、それでも任務の口調は乱さなかった。

眠っているバーバラを、しっかり抱きかかえていた。


数分の沈黙のあと、遠くで風を裂くような音が鳴った。

黒い雲の間を切り裂くように、TPBの小型航空機が、空の向こうにその姿を現した。


クレアの肩がわずかに緩む。

防弾ベストの上から銃撃された傷が(うず)く。

しかし、痛みを感じる暇もなく、彼女はそのままバーバラをしっかりと抱き直した。


小型機がホバリング状態で着陸態勢をとり、ハッチが開く。


「大丈夫、バーバラ。もう大丈夫だからね」


その言葉に返事はなかったが、バーバラはクレアに身を預けていた。

その小さな身体を抱いたまま、クレアは機内に乗り込む。


ドアが閉まる。加速。上昇。

そして安全圏へと、都市の空を離れていった。


---


施設に着いてからは、時間の流れが加速したようだった。

クレアはすぐさま医務室を緊急手配し、バーバラをストレッチャーに寝かせ、医療班に預けた。


数十分後、医師の診断結果は良好だった。

「麻酔が効いて眠っているだけです。特に外傷もなく、骨にも異常なし。じきに目を覚ましますよ」


クレアはほっと息をついたが、銃撃された傷がズキリと主張を始めた。

思わず顔をしかめる。


「あなたも診てもらってください」と、(そば)のナースに促され、彼女はようやく椅子に腰を下ろした。

傷口に薬を塗り、手際よく包帯を巻いてもらう。


痛みがあるというより、疲労が、全身を軋ませていた。


しかし、安堵に浸る時間はなかった。


---


彼女は共用スペースにあるTPB端末を使い、即座に報告書の作成に取り掛かった。


目の奥が熱い。

眠気と倦怠感が交互に襲ってくる中、それでも報告のタイムリミットは迫っていた。


いくつもの文書を、決まり切った言葉で構築していく。

「保護対象の容態は安定」「交戦による損傷」「医療処置済み」──

指は止まらない。


そして、送信期限の数分前。

クレアは最後のセクションに辿り着いた。


---


《プロトコル1-3-0》

《231地区52番から北方面に、グリッチライダーの逃走を確認》

《報告者:巡査官 クレア・バンホーテン》


彼女は一拍、息を止めた。


「Phase Name……」


指が、最後の文字列をゆっくりと打ち込む。


---




【BLACK ETERNUM】




---


静かに、報告書を送信する音が鳴った。








挿絵(By みてみん)

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