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女王の盾  作者: 鰐屋雛菊
第二章
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〈四〉森の色、海の色

 雲は不動のかまえで居座り、無風の大気は湿気て重い。通常のシェルナムでは数日で雨季にとってかわられ、一年後に再び巡ってくるまで人々に忘れ去られるような、当たり前にあってしかも重要ではない単なる過渡期間の空模様であった。それが日常になっている。そしてこの閉鎖空間での不自然な日々が、本来なら決して出会わなかった人と人を繋いだ。

 背中をあずける大扉の、堅く冷たい感触には曖昧さが一切なく、アスナンに奇妙な安堵をもたらした。同時にこの確たる実感よりも、鮮烈さを奪われた眼前の風景こそ記憶にこびりつくだろう予感に、かすかな憤りをしか覚えない自身がみじめだった。

 慣れていくのではない。馴らされているのだ。

「まだ居ったのか」

「こいつを図書館長殿に手渡すまでが俺の仕事なんでね」

 その視界に入るよう、手さげ籠を持った腕を前方に突き出す。

 覗き窓からは大扉にもたれかかるアスナンの、地面に投げ出された左足が辛うじて見えた。異臭はほとんど消えている。

 図書館長がぶちまけたにかわは、書籍修繕のためのもので接着力は弱かった。頭髪や衣服にこびり付いた、ゆで卵の白身のように弾力のある薄茶色のかたまりを、大雑把にこそぎ落として洗い流したあと、アスナンはかの老人が再びそこから顔を覗かせるのを待っていたのだった。そうしてグラシェス達が去り、泉にたむろしていた連中も次々と引き上げ広場が空っぽになってようやく、しわがれた声が頭上から落ちてきた。

 膠まみれになった籠を見るや、老館長が無言で覗き窓を閉ざしてしまったので、アスナンにはとんだ居残りとあいなった。間もなく八の鐘が灰色の空に響きわたるだろう。だが予想していたよりもずっと早く戻ってきたので、口では少々嫌味めいたことをいいながらも、その顔は穏やかに笑っている。

 エルナ・デュガーレは商業都市として発達してきた。高い城壁を巡らせ堅牢な門を築いて砦としての体裁を保っているが、たとえば食料自給率は極めて低く、大神殿の敷地内にわずかばかりの農地があるにすぎない。戦乱の少ない「名を秘したる女神の島」では、長期間にわたる籠城のそなえなど不必要であり、備蓄されている糧食は災害や疫病の発生を想定してのことだった。皮肉にも極端な人口の激減によって、食料対策は焦眉の急ではない。しかし外部からの補充が望めない今、王都内の物資が減少の一途なのもまた事実だった。

「とにかく受けとってくれないか。そうすりゃ俺は責任を果たせる」

 いくらも待たず鉤が青銅の扉にこすれる聞き慣れた音がして、アスナンはそれに誘われるように立ち上がった。下りてくる鈍色の金具を手にとり籠をかける。

「いつまで、こんなことを」

 遠ざかる籠を目で追いながら、広場へとおりる石段の手前まで後ずさった。窓を見上げるに、そのくらいの距離がちょうどよい。図書館長は引き上げた夕食の惨状に渋面をつくっていた。

「いつまで、と言ったな」

 咳払いをひとつ、ぎょろりと例の金壺眼がアスナンをとらえる。

「私は私の職分を全うするだけだ。いつまでと言うが、可能な限りと答えるしかない。さきほどあの破落戸ごろつき共めが腐るにまかすなどというておったが、このまま命が尽きればそうなるであろうの」

「後悔、しないのか」

 後悔という言葉に、老館長は目をすがめる。

「若いうちは悔いることばかりか」

「若い?」

 老境は遥か遠いが、若造あつかいされる年でもなかった。故郷を飛び出して既に一七年がたつ。そのあいだに彼は念願の交易船へ乗って、四度の南方行路を経験した。そして遠い故郷をときに思い返しつつ一度も帰ることのないまま、半年前に父の死を報された。

 北部の小さな漁村に生まれ育ったアスナンは、父と同じく漁師として一生を終えるはずだった。別の人生などあり得ない、そういう村だった。そういう父だった。

「私を見よ。この老骨、いつ召されたとて不思議ではない。悔いてる暇なぞないのじゃよ」

 なるほど確かに、アスナンにはまだ悔いる余裕がある。父のことを。失くした女のことを。そして故郷へ帰ると決めておきながら王都へ立ち寄った挙げ句、そのままぐずぐずと踏ん切りをつけられなかったがために現状を招いたことを。だがこの移ろわぬ世界では老いも若きも、同じ線上に立っている。静止の均衡が崩れて時が流れをとりもどせば良いが、悪くすれば王都もろとも消滅することになるだろう。それとも閉ざされた永遠の中でいずれ緩慢な死を迎えるかだ。

 大鐘楼の鐘が八の時を告げる。さざなみのように押し寄せるその音色の清澄なること、かつては巷間に魔をはらうと信じられていた。鳴りひびいた鐘の音が契機となって「暴の三日」が終息したのは確かで、その迷信もあながち的外れではないかもしれない。少なくともあのときのアスナンはそれに一縷の望みを賭けて、くすぶる煙と腐敗臭に満ちた通りをひた走ったのだ。

 もうそんな刻限かとひとりごちた図書館長は、はね上げている覗き窓の扉へ手をかける。それは時刻よりも腹の虫に催促されてのことだった。

「今日は世話をかけた」

 これまで別れ際にひとこと「御苦労」と、大上段から振り下ろすだけだった図書館長が、謝意など述べたりしたものだからアスナンは目を丸くした。その反応が不快だったのか、初めて見せた温厚篤実な人士の表情は即座に引っこめられた。ただし肉の薄い皺顔からは、あのとげとげしさはすっかり失せている。

「では、また明日」

 そう言って閉じられた窓をしばし茫然と見上げていたアスナンは、思い出したように頭に手をやる。洗い流し損ねた接着剤で、短く刈った髪はごわごわと強張っていた。ねぐらに帰ってなんとか薪を調達し、湯を沸かして服と身体を洗わねばならない。グラシェスの誘いは反故にしようと決めて、ある学士の半生に背を向ける。

 馴らされているのだとしても悪くはない。

 たわいない会話であった。結論のない問答だった。それでも交わしたことにこそ意義があったのだろう。石段をおりたところで、味も素っ気もない漆喰の白壁と緑青におおわれた大扉へ声に出さず「また明日」と告げてみる。浮き足立つほどではないにしろ、うつむき加減の顔をまっすぐ上げてみようという気にはなる。

 今日は昨日にとっての明日であり、明日にとっての昨日となる。しかし名は変われど何ら変化のない日々は、単に消化される無為の今日が連続しているだけなのだと、この半月を投げやりに過ごしてきた。そんなアスナンにとって、さんざんな目にあいながらも「今日」は、少しだけいつもと違う一日だった。

 このどこかしら緩んだ気分を抱えたままで帰路につこうと広場を横切り、東大路へと足を向けたアスナンは精霊像をゆき過ぎたところで前方に人影をひとつ見出した。東の泉の受け皿ともいうべき御影石の、円状の縁に片膝をついて身を乗り出し、まん中の湧出口から溢れる水に顔をつっこんでいる。肩にはね上げた陽おおい付きのマントの裾が、甲斐なく下方の溜まりに浸かっていた。

 その出で立ちは標準的な旅装だ。ただ王都ではよけねばならぬ陽射しや風雨は絶えて久しく、防寒の必要もない。雨季を目前に控えたままで、むしろ蒸すくらいである。

 くだんの人物が視線に気づいたのか、おもむろに顔を上げた。警戒も露わなまなざしに足が止まる。いつの間にか、張り上げずとも声のとどく距離まで近づいていた。あと数歩で間合いに入る。入れば躊躇なく剣を抜き打つ目であった。

「そう睨まないでくれ。足音をしのばせて近づいたわけじゃない」

 男はアスナンの足下と腰にさげた剣を目線だけで確認すると、顔を拭いもせず身を起こした。正面から相対し、よくよく見ればずいぶんと若い。頬から顎にかけてのやわらかな線に少年の名残がうかがえた。だが何より目をひいたのは、左右色の違う瞳だ。左は陽光に透けるみずみずしい新緑を、右は快晴の空のもと無限に広がる洋上の海を思わせる。一度見たらまず忘れない容貌だった。

「外から?」

 まさかの思いがそのまま口をついて出る。見覚えのない男の全身は細かい砂にまみれていた。エルナ・デュガーレ周辺を含むシェルナム内陸部は、四王国の中でも有数の乾燥地帯である。真夏の陽射しは雲に遮られはしないが、ゆるい風に舞い上がった砂埃がいつまでも滞空して黄色く陰るといわれるほどだった。雨季を迎えぬままの王都にとって、その男は未来からやって来たかのようだ。

 探索隊百名の消息が途絶えたあとも、情報が混乱していたのか、たびたび少人数の流入があった。しかしさすがに、ただの一人も生還する者がないまま二月が過ぎるとぱたりと止んだ。実に一月ぶりの新たな来訪者である。

「あんただけなのか」

 曖昧にうなずきつつ、男は落ち着かないふうに問う。質問の意図が分かりかねて、アスナンは眉根を寄せた。

「ここに辿りつくまで人っ子ひとり見かけなかった。生存者はほかにいないのか」

 流入者は例外なく東側から入城する。なぜなら現在通行可能なのは、東の大門である晨明門だけだからだ。この若者もかの門をくぐり、大路を進んできたはずで、急ぎ足でもゆうに一時間はかかる道すがら、誰にも会わなかったのではその不安も察せられた。

「いや、いるよ。たぶん千人くらいだと思うが」

「千人。たった、の」

「正確な数字は俺もよく知らない。知りたければ商工会が把握してるだろうから、そっちで尋くといい」

 色の違うまなざしがぼんやりと周囲を見わたす。男は明らかに戸惑っている。晨明門の内側の、市街地との間に広がる空き地は仮の墓所となっていて、見わたす限り墓碑のかわりにと盛り上げられた土の小山に埋めつくされていた。東大路をすすめば、両脇に居並ぶ建物の無惨な破壊の痕がいやでも目に入る。それらを眺めつつ無人の通りを一人来て、ようやく会えた人間に告げられた実情をどう受け止めればいいのだろう。

 アスナンの助言に男は、そこまでする必要はないとどうにか答えた。戸惑いは戸惑いのまま、それでも何かの覚悟を胸にこの得体の知れぬ地へと踏み入ったのである。さすがにみっともなく取り乱したりはしなかった。むしろ続く男の言に、アスナンのほうが内心うろたえた。

「ひきとめて悪かった。ありがとう」

 互いを認識した瞬間に男が見せた視線と、さらりと表された感謝の言葉には、アスナンにとってはなはだしい隔たりがあった。奇妙な違和感である。

 その内心を知られぬよう、どういたしましてと気さくに返して数歩ののち、違和感の正体は王都での日々に馴らされたせいだと思い直す。最後にありがとうと言われたのは、もう半月以上も前だ。そして言った女は、既に亡い。

 到着したばかりで、浴びるように水を飲んでいた。渇き、空腹、疲労、そのどれもがあの若者の身を苛んでいることだろう。そしてこの時間にまだ食事ができる店を、アスナンは近場に一軒知っていた。


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