〈三〉図書館長
都大路は中央広場より延びる。この中心地に接する建物の中で、ひときわ厳粛な佇まいを誇っているのが国立図書館であった。
「遅い」
扉の中ほどから降ってきた声に、アスナンは愛想笑いを返した。両開きの大扉は、ひと一人の力では開閉不可能な重量を持つ。そのため向かって右側には覗き窓が、左には大人がくぐるにはやや腰を屈めねばならない小扉が切られていた。
シェルナム王国国立図書館は、国有施設としては例外的に学士院の管理下にあり、また蔵書数はおよそ三〇万巻と、規模は決して大きなものではなかった。ただし彩色図鑑や南方経由で入手した外国書籍など、稀覯本の類は多く、四王国筆頭といわれる。
尖頭アーチを押し出したような、高さと奥行きのある石造りの外観は愛想なしもいいところで、顔ともいうべき正面の壁には装飾らしい装飾のないのっぺらぼうであった。唯一ひとの目を楽しませるのが、丈高い青銅製の扉をおおう精緻な浮き彫り彫刻だが、そこには七つの場面から成る、初代館長にして王国に高等教育機関の創設を実現したある学士の生涯が描かれていた。工芸的価値を抜きにすると、まこと説教くさく外連味に欠ける。また学士院なる学問の虫の巣窟は、教育の普及という地道な国力の底上げを目指した創始者の志を綿々と受け継ぎ、会員のなかから特に高邁で清廉な人物を歴代館長として選んできた。現館長もこの薫陶をうけし者である。
「店がたて込んでたんだよ。これでも急いで来たんだぜ」
覗き窓からぎょろりと見おろす金壺眼はトカゲに似ていた。髪も眉も髭も薄く真っ白で、頭蓋骨に乾いた皮膚をいい加減に貼りつけたような皺深い顔は、実際よりもずっと老いて見える。この貧相な老人こそが、国立図書館長である。
「何が急いで、じゃ。おぬしが広場を横切る姿なんぞ、ここから丸見えだわい」
ふんと鼻を鳴らして、老人は憎々しげに下くちびるを突き出した。
「どうせなら、もっとましな言い訳をしたらどうだ」
アスナンは返答に窮して口ごもる。今日まで会話らしい会話をしたことはなく、まさか絡まれるとは思っていなかった。
「なあ、じいさん」
「館長じゃ」
高邁で清廉なはずの人士は、すっかりへそを曲げていた。もともと気むずかしい人物であったらしく、実子のラスティオとは犬猿の仲である。この災厄が起こる前は、なんと三年以上も口をきいていなかったらしい。
「そうだったな。こいつは失礼、館長さん。とにかくさ、俺も色々しがらみがあって、素通りできない相手もいるんだよ」
「ろくでもないしがらみなんぞ、私の知ったことではないわ」
にべもなく言い放つこの老人、実はある理由で三月近くも図書館に立て籠もっている。その強情さを承知している息子のラスティオは、絶縁状態にあるとはいえ、まさか干涸らびてしまうのを放ってもおけず、朝と夕に食事をとどける羽目になった。しかし夕刻は店がある。そこで代理としてアスナンが、こうして日参しているのだった。
「大の男が仕事もせずに、昼間からぶらぶらしておるかと思えば、酒まで喰らいおって。嘆かわしい」
「船乗りにとっちゃあ、酒は水がわりなんだよ」
「水だけはこの王都にたんとある。酒をかわりにする必要はなかろう」
このままくどくどと説教が続くのだろうか。困惑するアスナンをよそに、図書館長の口舌は淀みない。
「よいか。男子たるもの、学を厭わず労を厭わず孝を厭わず忠を厭わずじゃ。また女色と酒食には、常に節度をもって向き合わねばならん。断てというのではないぞ。私もそこまで野暮ではない。東方の聖人曰く、唯酒は量無く……」
弁当入りの手さげ籠を国立図書館までとどける。その距離はたかだか四半時ほどで、子供のつかい程度の労働だ。これに「兎の尻尾」亭での一食という割のよい報酬が支払われるのは、ラスティオの厚意にほかならなかった。しかしだからといって、うるさ屋の父親の話し相手なり鬱憤のはけ口なりになってやるのは筋がちがう。
受け渡しはあの覗き窓から垂らされる鉤縄に、籠をかけて引き上げてもらうという方法で行われていた。図書館長が縄を下ろしてくれねば仕事は完了しない。
「しかし乱行に及ばぬとて、いつまでも腑抜けたように過ごしおるのは感心せん。どうせ頑健なことくらいしか取り柄がないのだから、額に汗して働かぬか」
「こりゃまた、ひでえ言われようだな」
随分ないわれようだと思いつつ、その言い分も苦笑もこらえたアスナンだったが、意外な代弁者が現れた。声も口調もよく知っている、天の助けとなり得そうもない人物の登場に、何もかも放り出して逃げ出したくなる。
「こ、この盗人めが、何用じゃ。失せよ!」
アスナンへ大人げなく因縁をふっかけていたときでも、老人特有のしわがれた声は低く重々しく威厳にみちていた。それが一気に裏返る。怒り心頭に発し、血気は瞬時にして頭頂に達す、トカゲに似た顔貌はいまや鬼の形相で、頭のてっぺんから湯気を吹き上げそうな勢いであった。
「ここはいわば知の入り口、汝のような不心得者の来るところではない!」
「なんだなんだぁ。ラスティオの飯はじじいの説教も込みの駄賃か。そいつはちと割が合わねえんじゃねえか」
なあ、とばかり同意を求めて背を叩く手に、飲みこんだ非難がため息となってあふれ出る。アスナンはこの大男と妙に馬が合った。三月足らずの付き合いながら、今や気のおけない間柄だ。だがどういう意図か、ときどき他者の心情を故意に逆なでするところがあって、これがどうにも困りものであった。
「じいさんを憤死させる気か、グラシェス」
「ラスティオに恨まれるか感謝されるか。どっちだと思う」
小声でたしなめれば、友人の親子関係を茶化すにしても不穏当なもの言いが返ってきた。
発端はいたって単純だ。ある日、図書館から数冊の本をグラシェスが持ち去り、あろうことか焚きつけに使用した。その中には写本作成中の、再入手困難な一冊が混じっていた。こうして貴重な知の財産がひとつ、世界から消滅したのである。このまったく庇いようのない一件以来、グラシェスは図書館長に仇敵とみなされている。そしてこれこそが、老館長の籠城の原因であった。
平時の傭兵は警備業といえるが世間的にはあぶれ者であり、腕っぷし自慢の荒っぽい連中が集まっている。盗賊の類と大差ない輩も多い。グラシェスが過去どの程度の悪事に手を染めて来たか、ここで詳らかにはしないが、当然ながら彼自身にやくざ者との自覚はあった。堅気衆に蛇蝎のごとく嫌悪されることにも慣れている。高みから悪口雑言浴びせられようと、いまさら痛くもかゆくもない。
「まあそう気色ばむな、じいさん。さすがの俺にも、こいつは蹴破れねえさ」
言いざま靴先で扉を蹴ると、全面に緑青の浮いた厚い青銅板が余韻のない音をたてる。
「何をするか、不埒者め!」
「だからよ。俺がなにしようがこのとおり、びくともしやしねえんだから、ぎゃあぎゃあ喚くなよ」
「そうそう、年寄りはあんま興奮しねえほうがいいぜ」
「卒中でも起こしてぶっ倒れちまったら、どうなるんだ」
「そりゃ腐るにまかせるしかねえわなあ」
「ここは窓もほとんどねえし、あってもちっせえもんな」
「お偉い先生様なんだから、迷惑な死に方はしちゃいけねえぜ」
グラシェスに付き従ってきた手下共が、好き放題の言いたい放題に口をはさみ出すと、もうアスナンの手には負えない。
「グラシェス、お前なんの用なんだ」
「あ? じじいにゃ用はねえよ。お前がひょこひょこ広場を横切ってくのが見えたからよ」
「だったらあとにしろ。とにかくあいつら連れて、ここから離れてくれ」
「まだあの、おありがたい説教を聞きたいのか」
そうではないと手荷物を指し示す。グラシェスの納得顔に本来の用件を済ませるべく小窓を見上げれば、憤怒に血走った金壺眼が消えていた。大扉の中ほどにある窓の位置は高く、到底ひとの手では枠に届かぬくらいだから館長は梯子を使っているに違いない。よもや怒りのあまり卒倒して転げ落ちたのではと、アスナンは窓の真下から呼びかけた。
「落ちつけよ、船乗りの。落っこちてりゃあ、それらしい物音がすらぁな」
例の古顔がうながすように仲間を見まわせば、九人の男達はみな首を横に振った。だれも不審な音は聞いていない。どうやら転倒の可能性はないようだ。窓が開けっ放しなのは几帳面な老館長らしくないが、いずれ戻ってくるという意思表示だろうか。
アスナンは扉にもたれかかり、図書館長の機嫌がなおるのを待つしかないと覚悟を決めた。だがグラシェス達に居座られては、永遠に待ちぼうけとなるだろう。早くこの場を去れと追い立てる。
「せっかく良い酒が手に入ったってのによ」
グラシェスが率いる探索隊の生き残り三十数名は、当初の目的を果たすために活動している。すなわち女王救出と、異変の原因究明である。そのために王宮の調査を続けており、副次的に食料などの物資を見つけては運び出していた。そして本日の収穫に、封切り前の酒が数本ふくまれていたのだった。
「久しぶりに差しで一杯どうかと思ってな」
口もとにやった手で、ぐい呑みを傾ける仕種をして見せるグラシェスに、アスナンがなんの魂胆だと肩をすくめる。魂胆なんぞあるものかと笑うその顔は、如何にも腹に一物を仕込んでいそうだったが、この男があからさまに人の悪さをひけらかすときは、反対になにも企んでいなかったりする。
これだから憎めない。
手提げ籠を押しつけてきたラスティオの目を思い出し、あの不甲斐なさを振り切りたくて動かぬ空を見上げた。そしてふと、図書館長の無遠慮さに救われているのだと気づく。グラシェスの意味不明な言動にも、おそらくは。
「今夜中にカタがついたら寄れよ」
肯きかけたアスナンを留めたのは、かすかな匂いだった。次いで木の軋む音が聞こえたように思った。
「これでも食らえ、下郎共めが!」
高らかに宣言する老館長の声と同時に頭上から、どろりとした液体状のものが降り注がれた。一瞬熱いと感じたが火傷を負うほどに熱されてはおらず、何よりその臭気に他のことなどどうでもよくなった。
「うわ、なんだこりゃ」
「くっせえ!」
不快な匂いだが刺すような強烈さはなく、明らかに腐敗臭とは違う。
「けだもの畜生に似合いだわい」
見上げた先、覗き窓から突き出された行平が踊っていた。勝ち誇ったその言どおり、獣くさいといえば妥当だろうか。
「こいつは煮皮だな」
「にかわっすね」
グラシェスと古顔の手下がまじめくさった顔つきで断定しつつ、自らの鼻をつまんで、汚染された面々から目を逸らす。手下のほうはともかく、もっとも被害甚大のアスナンの目前にいたはずのグラシェスが、まったくの無傷であった。
「なんてことするんだ、じいさん」
「む。なんじゃ、おぬし。まともに浴びおったのか、鈍いのぉ」
おなじく頭部から顔面に被害を負った手下が二人ばかり、迂闊にも泉の水で洗い流そうとして悲鳴をあげている。にかわの性質は高温に溶け低温で固まる。水では落とせないのだ。その様子を眺めやって、図書館長は愚か者めと呟いた。
「慌てずとも毒ではない。よしんば口に入っても死にはせんから安心せい」
「そうかい、そいつはよかった。残さず食ってくれ」
異臭に耐えながら、手提げ籠を差し上げた。楕円形の籠に取っ手がついただけで蓋はない。中にはラスティオが老父のために作った夕食が、皿ごと収められ布巾がかぶせてある。白い布巾は薄茶色に染まっていた。