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女王の盾  作者: 鰐屋雛菊
第二章
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〈一〉アスナン

 その日もアスナンにとって、変わりばえのない一日のはずだった。少し早めの夕食を居酒屋「兎の尻尾」亭で済ませ、国立図書館へ弁当を届け、締めくくりに仮宿で酒を食らって、いつとも定かならぬうち眠り落ちる。おかに上がった船乗りの無能さよと笑う口ぶりには、酒臭さよりも自虐の匂いがふんぷんとしている。そんな無為な日々の延長線上にある今日、昨日と同じ今日であるはずだった。

 それでも酒に逃げることはなくなった。軽口を叩いて笑えるようにもなった。失った女の夢を見ることもいずれなくなるのだろうと、最低の寝覚めを甘受するようになっていた。

 どん底から一段這い上がったあたりで停滞している日常に、慣れてゆくのをアスナンは感じていた。静止する空に慣れるように、アスナンだけではない王都の住民すべてが、この不運に慣らされつつあった。

「ラース、七の鐘が鳴ってるぞ」

 大鐘楼の鐘の音は、客の賑わう店内にも聞こえたが、煮炊きをくり返す厨房ではかき消されてしまうらしい。髭面の巨漢が、漆喰壁の向こうからがなり立てる。

「なんか言ったか」

「七の鐘が鳴ってる」

 巨漢は面倒臭そうに宙を見上げると、壁の向こうへ一度引っこんだ。

「やれやれ、今日は何かあったか」

 ややあって手提げ籠を手に厨房から出て来るなり、店内を見まわす。

 居酒屋「兎の尻尾」亭は、連日荒くれ者でにぎわっている。亭主のラスティオの人柄と料理は、傭兵達にことのほか評判がよかった。ちょうど夕食時のこの時間が満席なのは常ながら、今夜はとくに客の流れが早い。

「なんでぇ、知らねえのけ」

 アスナンの隣で皿をつついていた男が、きつい南部訛りで口をはさむ。

「今夜ぁライサラの店に、踊り子が立つ日さ」

 空堀と高い塀に囲まれた、王都南西地区のミーザム街は、もともと貴族階級の別邸が集まる特殊街区であったが、いまは南方人の占拠するところとなっている。彼らは王都が閉ざされたときいち早く、かの地を獲るべく行動を起こした。その後は他の地区との唯一の通行路となる橋の袂に詰め所を置いて、人の出入りに規制をもうけている。様態こそ変わったもののミーザム街は現在も、王都でもっとも安全な地区であった。そのため居住者は南方人のほかに女子供が多く、食うに困った女達がたどる道は言わずもがな、理不尽な暴力からは逃れえたものの、彼女たちはくちすぎのために春をひさいだ。

 ミーザム街の話題に加えてライサラの名を耳にし、アスナンの頬が強張った。南部訛りの話に生返事をひとつ寄越したラスティオが、手提げ籠を押しつける。

「おめえは仕事だ。くっちゃべってねえで、とっとと行きやがれ」

 乱暴な言い様とはうらはらに、かち合ったまなざしには労りがにじんでいた。その気づかいがアスナンにはありがたく、同時に情けなさ不甲斐なさに嘆息する。

 急き立てられ、顔見知りと途中とちゅう目であいさつを交わして店を出た。いつもよりほんの少し遅くなったが、北東地区の商店街に変わりはない。まばらながらも通りに人が行き交い、店は客を快く招き入れている。失われた活気が戻らなくとも、どうにか人間らしい営みは続けられているのだ。見上げれば、刈りとったばかりの薄汚れた羊毛に似た雲が、隙間なく空をふさいでいる。雨季を心待ちにした人々は、とうにそんなことを忘れているのに、置き去りにされた空模様はいまだ潤んだままだった。夜の瞼に伏せられることもなく、たったいま息絶えた者の目のように。

 うつろわぬ日々を、日々と呼べるのだろうか。いってみれば爾来、王都は大凪に見舞われている。そして当たり前だが、船乗りは凪を嫌う。海が空を映すだけの鏡面と化している間、緩慢な恐怖が屈強な男達を支配した。その緩慢さでもって、じわりじわりと暗示をかける。すなわちいずれ世界のすべてが、この海と同じく停止するに違いないという思いにとり憑かれるのである。凍りつく瞬間の、永遠へ連なるまのびした瞬間の、その途次に立っているのだと思えてくるのだった。

 互いの血肉の熱を確かめ合う相手を失ったアスナンに、凪の暗示は執拗にまとわりついた。海では容易に追い払えたものが、なぜか陸ではままならない。足下の確固さに、ヒトの孤高なんぞ埒もないと笑殺されて、凍りつく世界の幻想に囚われた。そうして自らの生を確信できずにいる。そんないつもどおりの今日も、じきに消化されよう。

 実感がなくとも、それが生きているということなのだ。


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