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女王の盾  作者: 鰐屋雛菊
第一章
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〈四〉

 あの日。

 今日は降るか、明日こそ降るかと、焦れる人々に肩すかしを食わせ、あの日も太陽は姿を見せないまま、うすらぼんやりと夜が明けた。花冷えというには、時期遅れの寒さが続いた三日目のこと。

 東の地平がほんのり白むと、あたかも雲の真綿ごし、じわじわと蒸されるように寒さはやわらいだ。引き替えに、むう、とのしかかる濃密な大気が、荷車を曳く驢馬や馬の足どりを、心なし重くしていた。

 晨明門は、エルナ・デュガーレにある三つの大門のうち、もっとも往来が激しい。それも早朝は、街道から外れた、小さな町や村へと向かう行商人、朝市を目当てに、近隣の村々からやって来る青物売り、個々の都合で旅に出る者らが、ちらほらと行き交うに過ぎない。ましてつい一月前に、女王生誕祭が盛大にとり行われた祭りのあと。丁度そこはかとないもの寂しさが、虚脱にとって代わられる頃合いだった。

 一人の中年男が、大きな背嚢はいのうを背負って、開門と同時に出立した。ねづ茶の上っ張りの下は、南方風の風通しのよいシャツと、筒広のズボン姿。肌の色は浅黒く、頬は福々しい。

 交易によって、南方亜大陸からシェルナム王国へと、さまざまな物品が流入したが、それは同時に人の交わりでもあった。男はそんな交わりによって、遠く故郷を離れたこの地に、根を下ろした者の子孫である。都で仕入れた品を地方へと売り歩く、行商を生業としている。

 歩調に精彩を欠くのは、荷の重さゆえでもなければ、馴染みの女に後ろ髪引かれているのでもない。自ら吐く息が酒臭い。頭が、がんがんする。昨夜の上機嫌が、今朝の不機嫌を引き起こしているのだった。こうして毎度、重い荷物に加え、頭痛と吐き気と後悔を抱えて、男は旅に出る。

 その軋む頭蓋の騒がしさが、しゃらん、と軽やかに吹き抜けた、一陣の涼にさらわれた。

 男には錫杖のかんの音だと、即座に分かった。裕福な者には巡礼のおり、ぴかぴかの錫杖を仕立てるのが、近頃の流行りらしい。行商に出れば、必ず一度はそうした巡礼者を見かける。

 それにしても、これほどに涼やかな音は聴いたことがない。どんな大人だろうか。

 こっそり上げた目は、すぐまた足下へ落とされた。

 異様な風体の男達であった。

 巡礼のしるしとして、つるばみ色の布を頭から被ってはいる。だが、そこから覗く眼光の鋭さは、到底しおらしく女神と精霊に、感謝を捧げようとは思われない。発される険呑な気配が、あからさまにすぎる。

 一人は明らかに若い。荒い麻布を巻いた、先端が奇妙な形ちの、棒状の物を肩に担いでいる。上背こそ人並みながら、丸太のような腕は隆々として、はち切れんばかりだ。錫杖を手にしたもう一人は、見上げるほどの大男で、年寄りにも見えたが、その歩みは三十路半ばの行商人より、きびきびと力強い。

「間に合うたであろうか、兄者よ」

 擦れ違いざま、そんな会話の切れ端がかすめた。若い男の声は、見かけの強面ぶりに似合わず、変声期ただ中の少年めいて、芯が細く不安定であった。年嵩の大男が何やら答えたが、鐶の音が邪魔をした。

 妙な訛りがあるな。

 年中あちこち旅して回る行商人にも聞き慣れぬ、微妙な違和感。微妙だからこそ、耳についた。

 彼らは、どう見てもただの巡礼者ではない。一介の商人すら怪しむくらいである。これは一悶着起きる予感がする。

 城門警護の警邏隊けいらたい第三分隊は、都を飾る花の一叢。あざやかな緋色の制服姿が凛々しき隊員達の、そろって容姿端麗なるは、まさに美貌で名高き女王の治める都に相応しい。されど侮るなかれ、置物にも非ず。

 野次馬根性を抑え込んで、足は前に進みつつ、耳は遠ざかる鐶の、快い音色を追っていた。

 不意に。

 ひどい耳鳴りに襲われた。

 目映い光の奔流が、凄まじい勢いで、身体をすり抜けて行く。眩しさと恐ろしさに、両の腕で顔をかばった。

 それはまたたく間のこと。

 耳鳴りが消えた。鐶の音も、消えた。

 おそるおそる目を開ける。前景に変わりはない。曇り空の下、日も影も差さぬ灰色の荒野が広がっている。右手に驢馬の曳く荷車が、何事もなかったように、街道をそれて行くのが見えた。車輪が小石を踏みしだく音も、辛うじて聞こえる。

 背後を見た。

 ぞっとした。

 くだんの二人組が、いない。同じく門を出た二人三人が、あとに続いていた。その姿もまた忽然と消えている。門の両脇で、槍を手に控えていた緋色は一体どこへ。

 思いのほか、城壁から離れていた。重い荷物を背に、二日酔いの足で、いつの間に。歩きながら立ったまま、居眠りしていたわけでもあるまいに。

 混乱のうち、一歩あと戻りする。だが次の一歩が踏み出せない。早鐘のように鳴る鼓動が、行くなと言う。冷たい汗が、つと流れ、顎からしたたり落ちた。それを契機に、逃げるように王都をあとにした。

 この行商の男が、大いなる難を逃れたと知るのは、ずっと後のことである。



 ある地点から、王都エルナ・デュガーレの晨明門まで。奇しくもユリスリートは、幸運の行商人とほぼ同じ道筋を、逆に辿ってきた。但し、その一致は空間的なもののみ。時間的には三ヶ月、九六日の開きがある。ひとつだけ、彼らは類似の体験をしている。

 城門が思ったよりも近い。

 眩暈のような、五感のゆるみのあと、ユリスリートは晨明門の、ばかばかしいくらいに高い、アーチ型の天頂部を、見上げる恰好にあった。城壁に開く暗い門は、つい数歩前まで、確かに遠景として、その目に映っていたはずだ。

 この捻れに、しかしユリスリートは、然したる注意を払わなかった。そのゆとりがなかった。

 鐘の音の余韻が去ったあと、戻ってきた静けさが、異様に感じられる。あれは不安が生んだ、幻聴だったのだろうかと思えてくるほどに。

 一定の間隔で七度。偶然は、あり得ない。何らかの意思が、働いていると考えるべきだ。時鐘と決めつけるのは、短絡にすぎるか。

 掌の中心に、まだ熱が残っていた。きつく握りこんで、小さな不調和を散らす。

 二重の城壁を穿つ暗がり。その先は出口へと繋がっている。

 いや、入り口か、とユリスリートは独りごちた。

 短い隧道ずいどうに、靴音が冷たく響いた。


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