〈三〉
シェルナム王国王都エルナ・デュガーレは、在り続けながら失われている。まるで時間の綾に、からめ取られてしまったかのように。
振りかえれば、捩れたなびく藍と紫の紗が、無限に思えた蒼天を閉ざそうとしていた。砂を舞い上げる熱風も今は静まり、むしろ肌寒い。そんな中、落日の茜に染まらず長い影を落としもせず、何者も例外があってはならない事象に素知らぬ顔で、花曇りのくすみに沈む千年の都。
南北にのびる城壁の、その規模、高さは、まさに無用の長物であった。「名を秘したる女神の島」を支配する四つの王家は、同根の出自である。建国以来、暗黙の不可侵を守り、七百年以上戦乱のない歴史を紡いできた。過去、あの頑健な石壁にはね返されたのは、せいぜいが十数人寄り集まった、野盗くらいなのだ。
権威の誇示とは、そんなものだろう。
馬上、革袋に残る最後の一滴で、ひび割れた唇を湿らせ、ユリスリートは皮肉とも、諦めともつかない答えを導き出す。どちらでも良いような気がした。どちらでもないような気もした。名のほかに何も持たぬ男に、そもそも権力者の都合など、無縁なのだから。
手綱を緩め、再び馬を進める。ところがその脚は、幾らも行かないうちに止まった。そして凝っと耳を伏せ、頑として前へ、王都へ向かおうとしない。僅か数時間の付き合いながら、この痩せ馬が見かけより利口であることを、その背を借りるユリスリートは気づいていた。
「そうか。厭か」
東の大門「晨明門」が、砂色の城壁に黒々と口を開けているのが、遠目にも見える。ユリスリートは鞍上から降り立ち、労いにその首を撫でてやった。胴震いをひとつ、黒目勝ちの潤んだ目が、何かを訴えている。
「いいんだ。行け」
手綱を引いて、南下するよう促す。王都に一番近い村が、その先にあった。
「じき日が暮れる。気をつけて行け。お前達はどこでも重宝される。心配はない」
小さな農村は、街道沿いに位置しながら王都には近すぎて、交易の恩恵を授かり損ねた。村人は今も細々と畑を耕し、その作物を都の朝市で売って、生計を立てている。きっと迷い馬を歓迎するだろう。
指示通りの方向へ、とぼとぼと遠ざかる栗毛が、薄闇へ溶け込む前に、ユリスリートは背を向けた。名残を惜しむほどの間柄でもない。
歩く。振り返らず、躊躇わず、淀みなく、力強く。利口な痩せ馬が厭うた先へ、畏れた先へ、駈け出したい衝動をすら抑えて、歩く。
急げ、と。何かが急き立てる。反問が追いつく前に、進めと。
前兆れなく、靴裏から伝わる確かな支えが、自らの足音が消えた。忍びくる夜気に冷めはじめた砂の、鼻腔にからみつく埃っぽい匂いが和らぐ。昼と夜が混じり合う景色が、揺らめいた。
それはただの眩暈であったのかもしれない。水は底をついていた。まともな食事を摂ったのも、二日前に立ち寄った村が最後だ。疲労の蓄積は、言わずもがな。
あの歪みは、世界に起こったのだろうか。それとも自身に起こったのだろうか。のち、この時を振り返り、幾度も考えた。
ユリスリートが答えを得ることは、遂になかったのだが。
生きている。
色彩の極を削ぐ、靄立った明るさですら、夜を受け入れようとしていた目には眩しい。
呆気なく。
実に呆気なくユリスリートは、境界を越えていた。
周囲を見渡し、空を仰ぐ。足下に目を落とす。
風は凪いで、大気はしっとりと重い。隙間ない雲を、透かして届く日の頼りなさに、影もまた、茫と滲んでいた。
生きている。
この終焉の地に立って、今更ながら気づく。死を予感せず、まったく無防備であった自らに。
互いの牽制と時間稼ぎ、そして叛意を蔽うため、二人の貴族は女王救出のお題目を掲げ、百人の兵を王都へ送り込んだ。それが二月以上前である。未だ誰一人戻らず、彼らが辿った運命を知る術もなく、絶望と忌諱に塗りつぶされた想像に、人々は沈鬱な面持ちで囁き合った。
王都エルナ・デュガーレは、帰らずの地。冥の門が、彼の地で口を開けたに違いない、と。
当に正気の沙汰ではない。思うと同時、こうして生きている事実の前では、どうでも良いことだった。むしろ。
「どうだ。満足か」
独りでに、こぼれ出る。王都へと駆り立てた何かに。声に出して、問わずにはいられなかった。あの衝動は確かに、身の裡より湧き出でたが、それでいて、ユリスリートとは無関係であったからだ。無関係なまま、霧散してしまった。
王都が閉ざされたのは、雨季の到来直前のことだった。以来、時が移ろおうとも曇天の中、夜闇をすら寄せつけず、荒野に居座る怪異となった。
宵の空に、星が次々と瞬きはじめ、上弦の月が、地に這いずる人々を嘲笑うあの時とここは、間違いなく遊離している。
来し方は戻らず。果て霞む荒れ野は、茫漠たり。
ユリスリートは、一歩も進めなくなっていた。彼を突き動かし続けた何かは、跡形もなく消え、後戻りも叶わず。行く末を託す先は唯一、過去に繋ぎ止められ、廃墟の如く静まり返る王都のみ。疲れ切った足の、踏み出す気力を根こそぎにするには、充分であろう。毒づきたくなるにも。
弱々しく明滅する光点がひとつ、右手に戯れていた。羽虫の類かと、億劫に払いのける。するり、逃げた。逃げてまといつく。虫、ではなかった。それは唯、光であった。
精霊、其は世界を支えしもの也。
「名を秘したる女神の島」に伝わる、創世の紀第一節である。誰もがその存在を信じ、誰もがおいそれと見ること叶わぬ、生命の源。それこそ、人並みの敬虔さも持ち合わせないユリスリートの前に、顕現するなどあり得ない。
だが、ここは世界の埒外。
この儚き光は、いのちそのものでありながら、肉持たず、生命体ですらない精霊なのだろうか。ユリスリートは半信半疑に手をかざす。
緩やかな明滅が、やがて彼の搏動と韻を一にする。未知と既知のはざま、安らかなる忘我へと誘う。
水の滴りを聞いた。腐敗の匂いは、土の豊かさを約束する。その奥底で、絶えず滾る炎の塊が吹き上がり、轟然と傾れ来る。飲み込まれる寸前。
彼方で刻を告げる鐘が、鳴り響いた。
ユリスリートは弾かれたように、そそり立つ城壁の向こうをふり仰ぐ。等間隔で、ゆっくり七度。王都で最も高い建築物、大鐘楼の冴え冴えと澄んだ音はしかし、この奇跡の邂逅の添えものとしては、あまりに無粋であった。
熱い。
再び無音が訪れたとき、ようやっとユリスリートは我に返る。精霊かと思えた小さき光は、もうどこにもいない。
ただ、右の掌だけが、仄かに熱を帯びていた。