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女王の盾  作者: 鰐屋雛菊
第三章
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〈四〉ガナ・ハ・シゥメ4

 今上王チェスカレイア四世にとって曾祖父にあたるファーシル二世は、建築好きのうえ芸術家の後援を趣味とする享楽的な王であった。特に晩年は北西部の直轄領に離宮を建造し、加えてガナ・ハ・シゥメと小庭園の造園に並々ならぬ情熱を燃やした。

 このため彼の王の嫡子――のちのリズロー五世は、その生涯のほとんどを父王のこしらえた負債の清算に追われた。独占市場である南方交易は莫大な利を生んだがそれも無限ではない。ファーシル二世危篤の報に接したとき、当時の王太子リズロー五世は建設途中のガナ・ハ・シゥメを忌々しげに見やって、「名に相応しく煙りへと帰せしめたい」と吐き捨てたという。

 しかし現実には建設を放棄されることはなく中断と再開をくり返しつつも、リズロー五世の治世十八年目に外観のみ一先ずの完成をみた。これがおよそ五十年前のことである。以来ガナ・ハ・シゥメはいわゆる迎賓館として、円満な外交関係の維持と栄華のひけらかしに一役買ってきた。例えばいま未知の獣らの血と死骸、そしてその異臭にまみれている部屋は奥の間の前室に過ぎない。北側の小庭園にのぞむ露台と寝室として設えられた上階の二室を含めて一続きであり、使用対象は国賓に限られている。

 このこれ見よがしな城館の不運は宮城門正面に位置していたことだろう。此度の異変に際して真っ先に略奪の憂き目にあった。すでに調度品の類は奪い尽くされている。そしてそれでも辛うじて保たれていた、往時をしのぶ伝統という名の薫香もとうとう陰惨な光景に塗りつぶされてしまった。

 三人の若者が黒い泥濘ぬかるみを避け、壁際を行き来している。廊下に座りこんでその様子を眺めるユリスリートの表情は未だ張りつめていた。彼は何気なさを装ってアスナンにすら気づかれぬようマントの下で、獣に食らいつかれた右肩の具合を確かめている。皮革製の肩当ては貫通を免れていたが、万力で締めあげられたようなものだった。救援がもう少し遅ければ骨を砕かれていただろう。痛みは数日残りそうである。

「二階は異常なしです」

「あんた誰だ」

 ユリスリートが不躾に問うた。

 報告を聞きながら頬髭をつまんで思案顔の男は、長身痩躯で大柄というよりは「ひょろ長い」という印象だ。肌は浅黒くこわい黒髪は高く結ってなお背中まで届いている。

「ようよう、兄さんよ。こんなとき先ずはさ、命の恩人に礼を言うのが先じゃないかい」

 切れ上がったまなじりが愛想良く細められた。鋭利な顔立ちに似合わず口調はやけにおっとりとしている。

「俺はついでだろ。あんたはあんたの友人を助けたってだけだ」

「おっと。こいつは一本取られちまったかねえ」

「つまり礼を言わなきゃならんのは俺ってことか」

 妙にのんびりとした三人の会話に、奥の主室から戻ってきた若者の「異常なし」の報告が割って入る。

「露台に続く窓が開いてました。庭を調べますか」

 ひょろ長い男は手下の問いかけに即答せず、傍らの二人へ視線を転じた。ユリスリートはだんまりを決めこみアスナンは首を横に振って拒絶の意を示す。

「俺はもう限界だ。一人でも引き上げるからな」

「そっちの兄さんはともかく、お前さんはまあ、ひでえ顔色だわな」

「平然としてるお前らのほうが変なんだよ」

 血肉の泥濘の中には臓腑はらわたをぶちまけて事切れているものもある。血なまぐささは常軌を逸していた。部屋ごと丸洗いしてもこの臭気を消し去ることは不可能だろう。アスナンの呆れたような物言いに男は屈託なく笑う。

「もう鼻が莫迦になっちまっててさ。それと緊張感だあな」

 言って、おもむろに指示を待つ手下の左腕を取る。肘よりやや下方に引き裂かれた傷があった。出血は止まっていない。道理で手袋の中がぬるぬるすると、若者はまるで他人事のように言う。まったく痛みを感じないらしい。男は既に待機しているもう二人の手下を呼び寄せて応急処置をさせる。

「庭のほうは止しとこうかね。藪をつつくにゃ、ちぃとばかし心許ないや」

 それを撤退の意志表示と判断して、ユリスリートは床に右手をついて立ち上がった。肩に重い痛みが走る。だがそんなことはおくびにも出さない。

「と、その前にお前さんの質問だがね」

 ひょろ長い男の笑顔はごく自然だ。この血なまぐさい場で、しかも散々に殺戮をくり広げたあとにもかかわらず自然に笑える。少なくとも目の前の男はそうした類の人間なのだろうとユリスリートは認識した。

「あっしはヨールってんだ。見たとおりの傭兵さ。お前さんは見ない顔だけど、噂の新参者かい」

 微笑みながらも、そのまなざしの奥に男の本性が潜んでいる。気圧されると同時にユリスリートは自らの失態に気づいた。問えば問い返される。「ユリスリート」という名の因縁を知らされたのは今朝のことで、何も対策を講じていなかった。

「ああ、そうさ。な、ユリス」

 一瞬の躊躇が不自然な沈黙へと変じる前に、アスナンの手がユリスリートの肩に置かれる。不意をつかれて平静を装えず痛みに顔をしかめてしまった。

「そういや兄さん、あの化け物にかじられてたっけ」

「すまん、忘れてた。大丈夫か」

 他者に弱みを見せない。それはおそらく独りで生きてきた者の処世術であろう。そしてそれゆえに気遣われることに慣れていない。ユリスリートはぶっきらぼうに大したことはないと言い放ち、アスナンを振り切るように背を向けた。足早に玄関広間へと向かう。

「に……いや、ユリス、だっけ。ちょいと待ちねえ。王宮ここ出るまでは用心しといたほうがいいよう」

 追いすがる声はやはり間延びしていて緊迫感がない。かまわず廊下を行くその隣にアスナンが無言で並んだ。少し遅れてヨール達の足音も聞こえて来る。

「アスナン」

 前を向いたまま呼びかけた。すぐ横にいる者にすら判然と聞きとれないほどの、しかし注意を喚起するには足る声だった。

「その、礼を言う」

 廊下の先を睨んだままの呟きは届かずアスナンが問い返す。ちらと後方に目をやって後ろに続く四人組との距離を確認すると、ユリスリートはやや声量を上げた。

「助かった。いろいろと。だから、ありがとう」

 五歩を歩いてから、「どういたしまして」とアスナンが応じた。中央広場で会ったときと同じくその口調は軽々しかった。けれどもそれをひねり出すのにアスナンは五歩を要した。


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