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女王の盾  作者: 鰐屋雛菊
第三章
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〈三〉ガナ・ハ・シゥメ3

 広い王都で二日続けて会ったのも何かの縁だろう。腹ごしらえできる場所を探しているという若者と連れ立って、アスナンは南東地区の入り組んだ街並みを歩いた。前夜の首尾を尋ねると戸惑いの表情を浮かべ、それでも良い店だったと答える。

 おそらく年齢としは二十歳くらいだろう。しかし困惑に言葉を詰まらせる様子は、ひょっとしたらもっと若いのかもしれないと思わせる。中央広場で出会ったときの隙のなさやその身なりこそ傭兵らしかったが、こうして間近に話すと若者はどこか世慣れない雰囲気をまとっていた。

 自己紹介がまだだったと気づき、狭い路地を何度も曲がって目当ての店が面する通りへ出たところで、遅ればせながら右手を差し出した。若者はさらに困ったように視線を落とす。しばしの沈黙のあと溜息一つで覚悟を決めたかぶっきらぼうに、ユリスリートと名乗った。

 宙に浮いたままやり場をなくして手持ち無沙汰の右手を引っこめるべきか否かアスナンは悩みつつ、居心地悪そうに立ちつくす若者をしげしげと眺めた。

 ユリスリート。

 それは禁忌の名であった。

 シェルナム王国第三一代国王ユリスリート一世と同名であるがゆえに。かの王が「兇王」と呼ばれる異端の王であったがゆえに。



 間一髪、割って入ったなにかが塊をはじき返す。その衝撃の強さは耳の奥に余韻を波うたせる残響音で推しはかれた。廊下に押しもどされたアスナンの目の前には丈長いマントの後ろ姿がある。その背で一つ束ねた髪が陽の光の下で見る炎のように揺らいだ。

「ユリス、無事か」

「アスナン?」

 どうしてここにと続くはずだった言葉が獣のうなり声に遮られる。アスナンは目を瞠った。

 獣——その歪なる存在は獣と呼んでさし支えない姿をしていた。極端に短い脚と極端に長い腕、体長とほぼ同じ長さの尻尾、全身が黒い毛皮におおわれている。上背は十かそこらの子供程度であろう。加えてせまい額に扁平な顔面がアスナンに南方で見たある動物を想起させた。

「猿、か」

「さる? なんだそれ」

 だが眼前の獣はあの愛嬌のある動物とは明らかに別物だ。その剛毛からただよう脂混じりのすえた獣臭さは、貪欲なる渇望の証でありながら同時に死の尖兵である腐臭とも類似していた。小柄な全身から発される気勢はあくまで禍々しい。満たされることを知らぬ飢餓に苛まれてでもいるかのように。しかも人に非ずの存在が、武器を武器として扱っている。

 王宮は異変以来、異形の巣窟である。それは覆し難い事実であり、だからこそアスナンも王宮へ入るたび化け物達を斬り伏せてきた。だがこれほどに好戦的で凶暴な異形は初めて見る。アスナンがこれまで接してきた化け物どもは、自らの縄張りを主張しそれを死守することはあっても率先して人間を襲ったりはしなかった。

「まあいい。尋きたいことはいろいろあるが」

 ユリスリートが前方を見据えたまま低くつぶやいた。

「とりあえず自分の身は自分で守ってくれ。あんたを庇う余裕はなさそうだ」

「ここでお前に守ってもらったら、俺はただの間抜けだな」

 たったいま庇われたがそれは大目に見てくれと、誰にともなく内心で言い訳をしてアスナンは剣を抜き放った。尋きたいことはアスナンのほうにも山ほどある。だが状況はそれを許さない。

「避けろ」

 異形の獣が奇声を発して再び中空へと躍りあがった。錆びついた剣が床を叩いてへし折れる。破片が廊下の天井に突き刺さるほどの勢いではじけ飛んだ。うずくまるような姿勢で忌々しげに吠えた獣は、ユリスリートの剣がふり下ろされるより早く飛び退る。

 咄嗟の警告に、扉がない出入り口沿いの壁をたのんで避けるのがアスナンにはやっとだった。そんな彼がようやく部屋へと一歩踏み入ったときには既に、ユリスリートが黒い塊を追いつめている。

 縦横無尽の切っ先に思わず見惚れた。それは乱舞でありながら整然としていた。整然と無駄なく、けだもの畜生を嘲笑い眩惑するヒトの技だった。脂に黒光りする剛毛をなぎ払う。浅い。ならばとさらに一歩踏みこみ二閃三閃、赤黒い飛沫しぶきが散る。

 手傷を負いながらも獣は二度三度と後方へ跳躍し、うつ伏した本棚に乗り上げた。金切り声を発して地団駄でも踏むように跳ねては歯をむく。折れた剣で本棚の背を打ちつける。威嚇のつもりだろうか。

「右から回りこんでくれ」

 獣から目を離さずユリスリートが要請する。だが数歩も行かぬうち、アスナンはぎくりと足を止めた。部屋には廊下へ通じる南側ともう一カ所、北側に隣室へ続く出入り口がある。その扉が音もなく押し開かれた。

「ユリス!」

 叫ぶと同時に影が跳ぶ。咄嗟に剣を突き出す。

 威嚇ではなかった。仲間を呼び寄せていたのだ。扉からこぼれ出た塊は三つまで視認できた。迂闊な一頭をアスナンの剣が貫く。しかしその身でもって彼の刃を封じた。異形の重みにたいを崩せば喉笛めがけて別の一頭が跳びかかる。避ける余裕も剣を引き抜く暇もない。

 「ぎゃっ」とも「ぎょっ」とも聞こえる潰れた悲鳴を上げて、獣が不自然に落下した。のたうち転げ回るその尻に投擲用の短剣が刺さっている。

「扉を閉じろ」

 言われるまでもない。アスナンは考えるより先に走った。異臭が溢れ来る根源を閉ざそうと、夢中で剣を振りまわし取っ手を引く。身を割りこませる一頭の向こうにうごめく影はひとつふたつどころではなかった。背後には濁ったうなり声が迫る。

「こっちは俺が防ぐ。何とか扉を閉めてくれ」

 重い布のひるがえる音が凶暴な気配とのあいだに割りこんだ。マントを肩から払ったユリスリートが立ちはだかったのだ。

 鋼の打ち合う音が興奮した獣の叫びに混じり、無風の室内は濃厚な血の臭いに満たされ始めていた。それが異形どもをさらに昂ぶらせ、アスナンの胃の腑をちぢみ上がらせる。悪夢を見ているようだ。肉を裂く感触は、頭蓋の砕ける手応えは、生と死の反転であった。だが何よりも死線上に立たされたこの純然たる恐怖こそが、皮肉にもアスナンの精神を踏みとどまらせている。

 痙攣する肉塊となった同族を踏み越えて、扉をこじ開けようとする新たな一頭の怪力に引きずられそうになる。しかも悪いことに取っ手がぐらつき出した。もともと施錠のかわりに取っ手を取りはずすという、実用よりは貴族の遊び心によって作られている扉であった。肩越しちらとふり返れば、ユリスリートは三頭を同時に相手取っている。折れた剣を振りまわす最初の一頭の攻撃を受けて、右手にある金属製の鞘はへこみ折れ曲がっていた。一対一ならば悠々圧倒していた剣技も、守勢にまわっては精彩さを欠いている。

「アスナン、まだか」

 さすがに焦慮のにじむ声だった。しかし人よりも先に物が限界へと到達してしまった。取っ手がすっぽ抜けるように外れたのだ。そもそもが取り外しを頻繁にすることが前提に造られている。実に呆気なかった

 手に残った金属塊を投げ捨てて、厚みのある縁を掴もうと手を伸ばしたが間に合わない。押し開かれた先は異界と通じてでもいるのか。隣室の薄暗がりにうごめく影が一斉に吠えた。吐き気をもよおす澱んだ空気がふるえる。

 なだれ込んできた数は十頭を下らない。それらがユリスリート目がけて殺到した。一定箇所に踏みとどまる必要がなくなると、その剣は枷がとれたかのように次々と敵を切り裂いた。しかし到底ひと一人にさばききれる数ではない。

「くそ。逃げるぞ」

 振り向きざま脱出を宣言したユリスリートの背に塊がとりつく。おし殺した悲鳴は異形どものかん高い鳴き声にかき消された。一頭の獣がユリスリートの右肩に文字どおり食らいついたのだ。

「ユリス!」

 その右手が鞘を手放したとき、予想外の衝撃が彼を苦痛から解放した。

 ユリスリートの肩を咬み砕かんとしていた獣の後頭部に奇妙な形の刃物が突き立っていた。屈折した三つの刃が放射状に広がり円を形作っている。投擲に特化した武器であろう。

「こいつはまあ、いったい何事だあね」

 この血なまぐさい一幕に不似合いな、間延びした口調だった。鋭いまなざしを向けたユリスリートとは違って、アスナンの表情がわずかに和らぐ。

「ヨール?」

「よおアスナン。無事だったかい」

 ひょろりとした長身が身を屈めて入り口をくぐった。三人の若者があとに続く。短槍や長柄の複合武器を手にいかにも屈強そうな男達は、口々に異形の多さと充満する血なまぐささに悪態をついた。

「誰だか知らないが手伝え」

 ユリスリートが肩から獣を引きはがし、床に叩きつけた。

「あっしの助太刀は高くつくよ、にいさん」

 返す答えは相変わらずのんびりとしている。この異様で凄惨な光景にまったく動じていない。

「なんてね。ちゃちゃっと片づけようか」

 肩の高さに上げられた両の手には、刀身と垂直に渡された金属部分をにぎる特殊な形状の剣があった。言うが早いか挑みかかる獣の腕を斬りとばす。つき従う若者らも淡々と武器をふるい始めた。

 圧倒的に不利な状況は脱した。狩られる側から狩る側へ。しかし胸糞悪さが晴れようはずもない。血と肉と断末魔——これが閉ざされた世界のもう一つの日常だった。


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