〈二〉ガナ・ハ・シゥメ2
アスナンにとって今朝は特別だったと言える。すっきりとした目覚めだった。爽快ですらあった。理由は簡単だ。昨日は一滴も飲まなかったのだ。久しぶりに湯を使ったのもよかったのだろう。頭も身体も軽く、空腹感ですら心地良い。吐き気をともなって意地汚くわめく腹の虫に、真実おのれの体内に得体の知れぬ何かが棲みついているのではと思えた昨日までの目覚めが嘘のようだ。
それが何故こんなことになっているのか。
落ち着け。
アスナンは呼吸を整えつつ自らに言いきかせる。
栄華の象徴デュガーレ宮殿は、広大な敷地内に歴代王の居城マリヤム・ガナをはじめとする三つの城館のほか、塔、館、庭園に四阿と多くの建造物が点在している。当てもなく走り回ったところで時間と体力を浪費するだけだ。
中央広場から真っ直ぐ北上する一本道の終わりには、何もない石畳の空間が開けている。一街区をすっぽり収めてしまうほどの車庫兼車回しである。そしてその向こうにようやく第一の城館ガナ・ハ・シゥメの曇天に溶け入るような姿が見えた。
北へ向かってコの字型に開いたもっとも新しいこの城館は、顔ともいえる建物正面に木目のような模様がうっすらと浮かび上がる白大理石が用いられている。「煙の城館」の呼び名にふさわしく陰鬱な空のもとでは輪郭が不鮮明だった。動く物のない静寂を見わたし、アスナンはいまさら腰に手をやって帯剣を確認する。
足どりも気分も軽く仮宿をあとにして東大路へ出たところで、北東地区の方から人影が現れたときも、やはりこうして剣の柄にふれた。それがアスナンの上機嫌に少しばかり影をさした。船上では船長以外に帯剣は許されていない。ナイフは縄を切ったり食事に使用するので常に携行しているが、日常において対人の武器は持たないのが普通だった。それが今や当たり前に剣を持ち歩き、行き会う他者をいちいち警戒している。人間がひどくせせこましくなったようで遣りきれない。
相手は確実にアスナンを視認していながら平然と同じ歩調で近づいて来る。そして互いの顔を識別できる距離になってから足を止めた。薄汚れた日除け付きの丈長いマントの上に少年の名ごりを留める顔があった。忘れようにも忘れられない青と緑の瞳。アスナンはほっと安堵の息を吐いた。
思い返せばあの時点でのユリスリートは、一度会っただけの赤の他人で安堵できる根拠など皆無である。我ながら甘いとアスナンは思う。グラシェスあたりに言わせれば、その甘さこそが「らしい」のだが。
寄りかかっていた鉄柵から手を放す。背筋を伸ばす。甘い人間に自己評価などできない。ただ甘いという自覚だけがあった。そしてここにこうしていることは、その甘さゆえなのだろう。
ガナ・ハ・シゥメは異形がほぼ掃討されている、王宮内ではかなり安全な建物だった。ここにいてくれと願うばかりだ。アスナン自身は剣技において些か自信を欠く。そこそこ扱えるが生き物を殺すあの手応えがどうしても慣れないのだ。たとえ森羅万象に背いた歪なる存在でも、生きているという事実は重い。
上品なことを言うつもりはアスナンもない。だが洋上で海賊に襲撃されるなどということが頻繁に起こるわけもなく、運良く十数年のあいだ一度もそんな事件に遭遇しなかった。王都に閉じ込められるまで実戦を経験していなかったのだ。虫の類を除外すれば、彼がかつて直接手を下した生き物は釣り上げた魚くらいである。
中央広場からの一本道もそうだが、この石畳の車回しも微妙に傾斜していた。鉄柵から白亜の建物まで一気に走りきって、アスナンは再び足を止める。酔いどれ生活のつけが回ってきたと実感した。息切れがひどい。
両開きの扉は片方が蝶番から外されて中が見とおせた。アスナンは扇状に広がった段差のゆるい階段をのぼり、薄暗い内部の様子を残された扉の陰からうかがう。吹きぬけの玄関広間は薄暗く静かだ。埃のふり積もった床に顔の一部が欠けた彫像が一体、無言で横たわっている。肉感的なくちびるにうっすらと微笑みを浮かべていて、それがかえって恨めしそうだった。
見慣れた光景にふっと吐息が一つもれた。だがその間隙を衝いておこった激しい物音に、緊張の糸は再び限界一杯まで張りつめる。
遠い。何の音だ。どちらから聞こえた。
心臓が高鳴る。
何かが壊れる音、強い衝撃に硝子が砕け散った音だった。そうと判断し、やおら薄暗がりへ身体を滑りこませた。偶然に起こる音ではない。探し人はここにいるのかと耳をすます。自らの呼吸音をうっとうしく感じながら、何らかの音がもう一度聞こえてくるのをじっと待つ。長い。呼吸一つが、鼓動一つが長かった。
何かが倒れた。
瞬間、アスナンは床を蹴った。左へ、西へまっすぐ続く廊下を駈けた。大理石の床が埃ですべる。何度も足をとられかけ、転んでいる暇などないと踏みとどまる。もはや静寂は堰を切ったように連続する一種類の音に塗りかえられていた。剣戟の響きだ。
剣戟。
その違和感を抱えたまま、考える余裕もなく最西端三つ手前の部屋へ飛び込んだ。
床にうずくまる黒い塊が、あらたに現れた獲物に反応する。消えた。そう思ったときには天井をはねて襲い来る。
迂闊にもアスナンは剣を鞘に収めたままだった。