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女王の盾  作者: 鰐屋雛菊
第三章
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〈一〉ガナ・ハ・シゥメ1

 まず匂いだった。腐敗一歩手前の、甘さを包含した脂の生温かい匂いはそれ自体が息づいていた。不快であった。生命力そのものが溢れ出している。生存本能が先鋭化したとき、他を押し退け踏みにじってでも生きようとする純粋な凶暴性が顕わになる。

 ふり下ろされた凶刃に込められたものが何なのか、ユリスリートは即座に気づいた。なるほど勝手が違う。ヒトをはるかに上回る強力ごうりきは確かに恐ろしいが、それよりももっと根源的な脅威を感じた。

 あの男の忠告になぜ逆らったのか。今さらな後悔は耳もとを掠めたうなりに霧散した。濃厚ないのちの臭いが追い迫る。一瞬前まで彼の足下にあった床板が砕け散る。異形が身悶えるように低く咆えた。

 食わせろ。そう言っている。おとなしく食われろと。

 おそらくは生まれて初めて、ユリスリートは捕食される側に立たされていた。



 ウサギの凶悪な目がアスナンの鬱々とした気分に追い討ちをかける。ふだん思い出すこともなく素通りするのに今日に限って見上げてしまった。心のしこりは無意識の行動に影響するものなのだろう。こうした些細なことが問題解決の糸口となるときもあるが、ウサギのまなざしには何らの示唆も感じられなかった。

 数軒先の鋳物屋から来客を告げるかろやかな鈴の音がもれ聞こえる。賑わいを見せることのなくなった通りにちらほらと行き交うのは、佩剣し具足を身につけている傭兵達だ。さすがに金属製の全身装甲などと大仰な出で立ちの者はいないが、やはり空気は物々しい。王都が閉ざされて、はや百日にならんとしていた。

 まだ十一の鐘が鳴って間もない時刻ながら、「兎の尻尾」亭の客席はそれでも半分が埋まっている。亭主のラスティオが仕切り卓のあちらとこちらを行ったり来たりと、相変わらず忙しそうに立ち働いていた。冗談めかして、いっそのこと店を手伝おうかと言えば虎髭の巨漢は鼻にしわを寄せる。

「誰が野郎なんぞを雇うかい。それくらいなら忙しさに殺されたほうがましだぜ」

 もともと店は女房と二人で切り盛りしていた。そこに他人を入れたくないという心情があるらしい。「兎の尻尾」亭の亭主は荒くれ者共をどやしつける程の強面ながら、家族との絆を殊のほか大切にしていた。

「そういや昨日、新入りが来たんだぜ」

 図書館長の昼食はまだ用意が調っていないということで、仕切り卓の端に腰かけて待つことにする。そんなアスナンに配膳の合間ラスティオが話しかけた。しかし彼にとって今まさに触れてほしくない話題だ。さり気なく視線をそらして気のなさそうな相づちをうつ。

「何でえ、ノリ悪ぃなあおい。いまごろ新入りだぞ」

 厨房側の大卓でちょうど食事を終えた三人連れが、アスナンとは正反対に興味を示した。

「またどこぞのお尋ね者じゃねえのか」

「そんなふうには見えなかったがな。まあ往きはよいよいの行きっぱ片道に乗りこんで来たんだ。ただの坊やじゃねえだろうさ」

 言いながらラスティオが入り口のほうへと目をやった。

「めんどうな輩だって、苦労するなぁグラシェスの野郎さ。俺達にゃ関係ねえ」

「へ。ざまあみろだぜ。あいつはどうも好かねえ」

「そうかよ。気が合うな」

 三人が三人とも飛び上がるほどに驚いた。忽然と現れた噂の主の半眼が、あんぐりと口をあけて絶句している男らを見おろしていた。実につまらなそうに。

 反応が返ってこないとなると、無造作に椅子を一つ引いて大きな身体をどっかと落ち着ける。それを合図に背後に控えていた四人の手下が、間抜けた顔のならぶ真正面に陣どった。やれやれと言いたげなラスティオに五人分の代金を渡したグラシェスは、居心地悪そうな三人組へさも面倒くさそうにつけ足す。

「俺もむさ苦しい野郎は好かねえ。だからお互い気分よく過ごすためにもとっとと失せな。その阿呆面みてると飯がまずくなるぜ」

 空席はほかにもある。選んで同じ卓についておきながら、ずいぶんと勝手な言い種だった。さすがに険呑さが漂う。

「グラシェス」

 アスナンは渋々声をかけた。

「新入りはそっちへ行ったか」

「なんだ、いたのか。昨夜はどうした」

 尋いたことには答えず、まったく別の質問が返ってきた。例の三人組のことなど、もう眼中にはないかのようだ。

「すまん。昨日は思ったより手間取ってな。それで」

「そうか。まあ酒はまだ残ってる。近いうちに寄れ」

 グラシェスの態度は男達にとってどこまでも業腹だったが、乱闘になれば三対五で圧倒的に不利である。空になった食器類を引いて「食ったら働け」とラスティオにはっぱをかけられると、男らは黙って席を立った。

「井戸端の洗濯女じゃあるめえし、うるせえ連中だぜ」

 その口調は軽い。喧嘩にはならない、グラシェスは端からそう確信していたのだろう。良くも悪くも傭兵らしい男である。自由で気ままで好戦的で、それでいて計算高く自制的だ。アスナンは呆れたように咎め立てるようにその名を呼んだ。

「ん、ああ新入りか? 来ねえよ。こっちをとおりすぎて王宮まで行っちまったらしいぜ。今頃ここに来ようなんて、どんな物好きの間抜けかと思ったが、自殺願望の手合いだったかもな」

「王宮へ?」

 アスナンとラスティオの視線に、グラシェスは他に情報はないとばかり肩をすくめてみせた。手下の一人が、何も知らずに王宮へ行ってしまったのではないかとの予測を口にする。

「確かに昨夜は王宮のことまで話さなかったな」

 独り言のようにラスティオが呟いた。

 王宮へは行くなと言ったはずだ。いや、本当に言ったか。ほんの数時間前のことなのに、アスナンは正確に思い出せなかった。悔恨を呼ぶ自らの言葉が、ユリスリートと過ごしたほんの僅かな時間の中で反響していた。

 お前になにがわかる。

 分かるわけがない。この特殊な状況を一晩過ごしただけで把握できようはずがない。吐き出した言葉は小さな棘となって彼自身に突き刺さっている。

 閉ざされた空間に生きることは緩慢な死の予感に絶えずさらされ続けていることでもあった。そしてその予感はもはや、それほどに無情なものではなくなっている。百日という時がもたらした諦念という安らぎであった。抗うよりも受け入れたほうが楽なのだ。

「くそ。なんでこうなるんだ」

 ユリスリートはその諦念を、逃避を、非難したわけではない。過剰に反応したのはアスナンの都合だ。

 気づいたときには席を立っていた。なんで走ってるんだ。思いながら走っていた。王宮へと。


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