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女王の盾  作者: 鰐屋雛菊
第二章
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〈十二〉大鐘楼

 少年の甲高い声が呼ばわっている。聞こえていないのか男はっと眼下の街並みを見おろしていた。

 確認できる限り変化はない。白茶けた空き地の向こうにくすんだ青や緑、赤など色とりどりの屋根が連なっている。雲に蓋され陰影のあやふやな景色の中、ときにはっとするような闇が枝葉を広げる樹木の懐でとぐろを巻いていた。縦横に走る空とおなじ灰色の街路のおおくは、やがて中央広場から放たれる大路へと合流する。王都北端の王宮が霞んで見えるのは湿度の高さと光度の低さのせいだろう。

「は、か、せ」

 間延びした調子はどこか楽しそうだった。ところが駈けてきた軽やかな足音が、あと数歩というところで止まった。ふり返れば真夏の鮮烈な空を思わせる青い瞳が不安げに見上げている。はかせ——博士と呼ばれた男は鼻眼鏡を外して養い子である少年へほほ笑んで見せた。

「すみません。ちょっと調べ物をしていたので」

「こんな何もないところでですか」

 少年はきょろきょろと辺りを見まわす。王都でもっとも高い建築物である大鐘楼の屋上だった。背後には塔屋が、そのさらに上は鐘楼台になっている。ほかに何もない。そこで少年ははたと気づく。博士は市街地を見おろしていたではないか。しかしへりは少年の背丈よりも高く、以前よじ登ろうとして血相変えた博士に咎められたことがあった。

 危険だから一人で縁に近づいてはいけない。もしどうしても見たければ抱き上げてあげよう。博士は懇願するように言ったものである。少年はもう八歳だ。大人の人に「だっこ」されるなんて恥ずかしい。「だっこしてくれ」などとお願いするのはもっと恥ずかしい。困ってしまって、もじもじと足下に目を落とした。

「ルルージャ君、いいですか。科学とは万物が対象なのです。ここには何もない。本当にそうでしょうか。私たちの目に見えなくても時は行き過ぎ、また巡ってくるのです。風は吹き、匂いは漂い、音は聞こえます」

 ルルージャ少年は師である博士の言葉にもう一度ぐるりと視線をめぐらせる。耳をそばだて鼻をくんくん鳴らしてみた。

「やっぱりなんにも見えません。音も聞こえないし、においもしないです」

「そう。実はいまは何もありません」

 少年の素直な反応に博士は解答を与える。

 変化は一瞬だった。そしてその痕跡を探していたが見つからなかったのだ。だが少年はからかわれたと思い、ひどくがっかりした。博士の骨張った手がひよこ色の巻き毛に守られた小さな頭をなでる。

「現在ここに何もないということを、私と君は確認したのです。それもまた観察において重要なことなのですよ」

 屈みこんで視線を合わせるその目もとは和らかい。返すルルージャの笑みはぎこちない。

「ぼく、お役にたてましたか。じゃましてないですか」

 博士ははっとして、それからゆっくりと肯いた。

「ええ。勿論ですよ、ルルージャ君。君はいつも私の助けになってくれてますとも」

 とたんに表情を明るくしたルルージャ少年に、博士もまた内心で安堵した。

 塔内へ戻ろうと促すと、少年はまた元気に駈けて行く。

 気のせい、だったのだろうか。

 あれは午後七時の鐘を打とうと鐘楼台に上ったときのことだった。吹き抜けた一陣の風に思わず壁にへばりついた。熱い突風だった。

 外界はもう真夏であろう。あの一瞬。世界は繋がったのではないのか。あるべき場所へと。

 時の流れに置き去りにされたかのように、エルナ・デュガーレの天候、気温、湿度は異変後まったく変動がない。同時に無風状態がつづいている。そうなってはじめて博士は、ただ研究だけに没頭してきた自らの過去を振りかえった。友もなく愛する妻や恋人もなく、ただ「博士」という称号だけに集約される人生の味気なさ。そんな彼が孤独と絶望に圧しつぶされなかったのは、ルルージャと出会えたからだ。

 塔屋の扉から覗く顔は少し眠たげである。

 無力さに罪悪感を持つ幼子の、その健気さが哀れでならない。子供が子供であることを許さないこんな状況は間違っていると憤りを強くする。

 何とかしたい。

 見上げた先には鐘楼台の屋根に陰る大鐘の、その内側から吊り下がる赤銅色のぜつが、雲に濾されてもれ落ちる明るみにくっきりと浮かび上がっている。せめてルルージャや市街地で怯えて暮らす子供たちに、こんな紛い物ではない本物の「時間」を取りもどしてやりたかった。

 一日の終わりを告げる九の鐘を鳴らし終えたあと、ルルージャの入れた茶を飲んで日誌を書くのが博士の日課だ。当初は混乱していて日誌どころではなかったが、それでもはや九十頁になろうとしている。

「今日は夜更かしさせてしまいましたね。大丈夫ですか」

 あの熱風は願望がみせた幻覚だったのかもしれない。疑いつつも反芻する。目を開けていられないほどの強い吹きつけを。肌が引きつれるような乾いた熱さを。

 だいじょうぶです、眠くないです。言いながら目をこする少年に微笑みかけ、博士は屋上へと続く扉を閉じた。

 名目の夜が来る。人々は肉体の呪縛を堅持し、それにしがみついていた。

 生きている。

 まだ、生きている。


 第二章終了です。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

 次回から第三章になります。まだまだ続きますが、この先もお付き合いいただければ幸いです。


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