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女王の盾  作者: 鰐屋雛菊
第二章
14/20

〈十〉警邏隊長

 一斉に注がれた視線は冷たい。招かれざる客である。あきらかに緋色の服の男は、ここ「兎の尻尾」亭では歓迎されていなかった。

 ユリスリートはすぐ傍らの横顔を、無遠慮なまでにまじまじと見た。一つに束ねた黒髪は乱れなく、直線と曲線のせめぎ合いの果てに生まれた絶妙な輪郭もまた、乱れを知らぬ神の手によって彫りおこされたかのようだった。口もとの柔らかな笑みは、硬質な光りを宿す瞳の酷薄な印象をかえって強め、線の細い容貌に威厳のようなものを与えている。おそらく貴族だろう。そのまなざしは他者を見おろすことに慣れている。

「相変わらず盛況だね。たいへん結構」

警邏けいら隊長様が直々にこんな場末まで、いったい何のご用ですかい」

 虎髭とらひげ亭主の声は、あくまで平坦だった。

 警邏隊長と聞いて、ユリスリートは耳を疑った。だが店内の誰も、そう呼ばれた本人も異を唱えない。

 緋色に黒の折り返しと銀糸の刺繍は、王都警邏隊第三分隊隊長が身にまとうべきで制服であった。おそらくそれが男の本来の身分なのだろう。それがどこをどうしてか現在、警邏隊を束ねる長にあるらしい。この事実一つとっても王都の現状は相当にいびつだと言えた。

「そして君も相変わらずだ、ラスティオ君。一国一城を支える気構えは父上譲りか。見習いたいものだな」

 へん、と鼻先で笑ったものの、亭主の顔はまんざらでもなさそうである。

「あんたがそれを言うかね。まあいいや。それで御用向きは」

「もちろん食事を」

 続きを遮るように、閣下と呼びかける者があった。美貌の警邏隊長の背後から一人、やはり緋色の服に端正ながら特徴のうすい容貌の若者が、素早い身のこなしで店内にすべり込んだ。上官の前方に無闇と物騒な面つきを並べる二人の男を警戒したのだろう。が、壁の陰に思ってもいない第三の人物——ユリスリートを見つけてあからさまに動転にする。隊長閣下の真横、しかも剣の間合いどころか即座につかみかかれる距離に、未知の人間を見出したのだから無理もない。そしてその反応にユリスリートはユリスリートでさらに居心地が悪くなる。

「その二人にゃかまわんでくれ。今から殴り合いしようってえ、ただのバカたれ共だ」

 店主の言に従ったというより、そもそも興味がなかったのだろう。警邏隊長の水色の瞳はほぼ満席の店内をゆっくりと巡っていて、言葉よりも拳骨で交流を深めるのが流儀の二人を端から一顧だにしていない。彼らのほうでも関わり合いになりたいわけではないのだろうが、こうもきれいに存在を無視されて不快なようだった。舌打ちと何やら呪詛の言葉を吐きかけて店を出て行く。

 すぐあとを賭けのにわか胴元らが追うと、つられて我も我もと席を立つ者が続出し、店内はまたたく間に閑散となった。去り際に亭主へ挨拶を投げかける中に、警邏隊員達へ愛想笑いを向ける者も一人二人いたが、圧倒的少数派であるためか卑屈さが際立つ。

「三人さんかね。そっちのしょぼいのは、お連れさんじゃねえよな」

「五人だ。遅れて二人来る」

 答えたのは二人目の部下だった。客を一気に放出した扉からもう一人、やはり緋色の衣服の青年が現れる。顔色がやや青ざめていた。

 もともと警邏隊長は二人の部下を伴っていた。入り口付近がとつぜん帰り客でごった返したため、ほんの僅かな時間ではあったが上官の姿を見失い、護衛も兼ねている若者は相当に焦ったようだ。そしてこの若者もまた、ユリスリートの存在に怪訝な目を向ける。

 確実に警邏隊員二人に顔を覚えられた。おまけに亭主からは「しょぼいの」呼ばわりである。これはやはり出直すべきかとユリスリートが空きっ腹と相談し始めたところで、亭主は思案深げに五人かと呟いた。

「看板だ。悪いな、しょぼい兄ちゃん。今日のぶんは全部捌けちまった。余所あたってくんな」

 どこからか含み笑う気配がする。ユリスリートは警邏隊の連中より先に入店していた。そうと気づいていた者には、彼は随分と要領悪く映ったろう。しかし当のユリスリートはそれどころではなかった。嘲笑われたことは気に触ったが、食事は既にあきらめていた。それよりもっと聞き捨てにできない問題が亭主の言葉の中にあった。「看板」が一日の営業の終了を宣言する意として使用されているなら、今は夜ということになる。

「飯はいい。それより大鐘楼の鐘、あれは何だ」

 壁に貼りつけていた背をはがした。仕切り用の卓へ向かって数歩進む。亭主は虎髭の奥で口をへの字に曲げた。

「何って、決まってるだろう。時刻を報せる鐘だ」

 こいつは阿呆か。厳つい顔がそう言っている。だがユリスリートはそれに構わず、通りに面した窓を睨むように見た。

 既に八の鐘が鳴っている。真夏のシェルナム王国では、午後九時を回ってもまだ薄暗く、十時になってようやく夜のとばりに包まれる。午後八時だと陽が傾き始める時刻だ。但し「外」ならば。雨期の前に逆戻りしたような気候と食い違う日没時間は、看過できない異質さを内包しているように思われた。

 夜闇に浮かぶ怪異となった王都の噂は知っていた。噂以前になぜ、あの痩せ馬は王都への道を拒んだのか。ユリスリート自身もまた、落日に染まらぬ城壁を見たではないか。

 まさか。

「そうか。君は新たな来訪者なのだな」

 教え諭すようなその響きに、ユリスリートの左手がマントの下で握りしめられる。誰かが放った嘲笑よりも神経を逆なでする声だった。

「ようこうそ、王都エルナ・デュガーレへ。君が察したとおり、いまやここは時の流れに取りこぼされた、呪われし地だ」

 作り物めいた白皙の肌に、どこか陶然とした高揚が浮かび上がっていた。酷薄そうな目が、ひたとユリスリートを見据えている。つい先刻まで伸ばせば手の届くほどの近くにいた彼に対して、男は初めて関心を向けていた。

「それにしても今になって。新しく我らの同胞となった人物は余程の酔狂者らしい」

 莫迦にされている。握った拳から力が抜けた。不愉快だが貴族にいちいち突っかかるのも、それはそれでばかばかしい。ここでの用は済んだ。食べ物にはありつけなかったが、情報は手に入れた。ユリスリートは亭主に礼を言って背を向ける。

 王都エルナ・デュガーレに夜は来ない。外界から閉ざされて以来、時は停止した。そして大鐘楼の鐘だけが時の経過があると錯覚させている。彼が飛びこんだのは、そうやって懸命に造り上げた欺瞞の上に成り立つ日常だったのだ。

「待ちたまえ。私はそういう酔狂が嫌いではないよ。そも、こうして今ここで私と君が出会ったのも、女神の酔狂による巡り合わせと言えるだろう」

 ユリスリートの出で立ちを確認するように、冷たい瞳がさらりと一撫でして離れて行く。だが彼自身への興味が失せたのではなさそうだった。

「君を歓迎しよう。私は今宵、ささやかな晩餐ばんさんに君を招待したく思う」

 はじかれたように傍らの部下が顔を上げる。閣下と呼びかける声も表情も固い。しかし見向きもせずに軽く掲げられた手が、その諫言を簡単に封じた。訪れた沈黙を破って鍋を打つ音が一つ、一同の注意を引く。仕切り卓の内側で成り行きを眺めていた亭主が口を挟んだ。

「さっきも言ったが、その兄ちゃんに食わせる分はもうないぜ」

「では訂正する。私と二人の部下、それに彼を含めて四人分。注文は以上だ」

 今度はもう一人の部下が戸惑ったように、よろしいのですかと伺いを立てた。

「かまわん」

 切り捨てるようにきっぱりとした声音に、部下達は沈黙するしかなかった。

 茫然と、あまりに意外な展開にただ茫然としているうちに、当事者であるユリスリートを置いてけぼりにして話がまとまってしまった。我に返って口を開こうとした鼻先に、汚れた食器を押しつけられる。

「手伝え、タダ飯食らい」

 なぜここに居合わせる連中はこうも身勝手なのだ。そう憤慨しかけたユリスリートに、ラスティオは声をひそめ「黙って受けておけ」とささやく。彼の意志を軽視したこの理不尽に甘んじる理由はない。ないが、ちらと垣間見せた目の、その真摯さがユリスリートを押しとどめた。

「嫌いじゃねえって、あんたこそなかなかの酔狂モンだよ隊長さん。見ず知らずの野郎に飯奢ろうなんて、一体いつからそんな慈善家になったんだ? 確かにこの兄ちゃん、しょぼくて哀れっぽいがよ」

「君や君の父上を見習うと言った手前、かな」

「それこそ奇特なこった。けど、俺は親父とは違うぜ。何せこちとらの相手はそこにいるような」

 卓を埋めていた大半は警邏隊員達とは入れ違いに店を出たが、まだ数人が残っていた。彼らはすっかり冷めた煮込み料理を、ときおり思い出したように口へと運ぶ。警邏隊長が下町へ姿を見せるのは稀で、おまけに新参者がからむ事態となった。どうやらことの顛末を見とどけるつもりらしい。ラスティオはそんな、物見高くも抜け目ない連中を顎で指し示した。

「ろくでなしのばかやろう共ばかりだ。慈善事業なんぞとは程遠いやね」

 傭兵達はどっと笑い、ひどいあんまりだと口々にぼやく。実に楽しそうだ。

「正直に答えれば、私も慈善事業のつもりはない。彼は一月ぶりの来訪者だ。この一月、外で何が起こっているのか何が起こっていないのか」

 なるほどと、ユリスリートは納得した。彼はシェルナム王国とそれを取りまく周辺国の現況を知る唯一の人間だった。

「知りたいのは私だけではない。そうだろう」

 うっすらと笑みを浮かべる警邏隊長に、亭主は片付いた卓へつくよう勧めた。


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