〈九〉「兎の尻尾」亭
煤けた支柱がむき出しになっている。焼け残った若草色の屋根にとまる風見鶏は、まちぼうけを食らって所在なげだ。ユリスリートはほぼ瓦礫と化したその家屋を目印として記憶に刻んだ。そうして大路へ視線を戻す。ここまで彼を案内した男の背は、もうずいぶん小さくなっていた。
疑心を差しはさむ余地を埋めてしまうほどに、人なつこい笑顔だった。名前くらい尋いておくべきだったか。
まあいいと、ふたたび歩き出す。逃げ場のない狭い世間である。いずれまた顔を合わせる機会があるだろう。
教えられたとおりに大路から北へ向かい、三つめの小路を東へ抜けると途端に景色が一変した。
静止した街並みは朽ちゆく運命に囚われる。人のための存在は人を失えば滅びるしかないのだ。石の構造物は人の営みが加わって、はじめて町となる。たとえ目に入る人影が武器を携行し険呑な気配をまとう男達ばかりであろうとも、充分にユリスリートを安堵させた。判然としないざわめきと雑多な匂いが混ざり合う湿った空気に、やっと町にいるという実感がわく。
足下には上空の雲に似た、闇にも光りにも属さぬ靄のような影がまとわりついていた。これではおおまかな時刻すら推測できない。大鐘楼の鐘は入城してすでに二度打ち鳴らされていて、一度目と二度目では回数が違うことから時鐘と断定して差し支えはなさそうだった。しかし午前なのか午後なのか。
時刻などどうでも良いと思う反面、時鐘が打たれればどうしても意識してしまう。それに少なくとも町は、この鐘に従って動いているはずだ。そうして日々の大半は、反復によって消化されてゆく。昨日と同じ今日、今日と同じ明日を持続させることこそが、尊ぶべき平穏なのである。
一人二人とすれ違うたびに、好奇の視線が投げかけられる。だが接触を試みる者はなく、ユリスリートもすすんで誰かと交流を持つつもりはなかった。上滑りに流れゆく視線をやり過ごすうち、さして長くない通りの半分を行きすぎる。ほとんどの店舗は打ち棄てられたように静かだった。目からしみ入り頭蓋の内側にこびりつきそうな異臭漂う薬屋と、開け放した土間に黒光りする大きな甕を並べた油屋のほかは、営業している様子がない。時間帯の問題かもしれないが、明らかに長期間にわたって放置されている店もあった。扉が壊されて、中は空っぽになっている。
すれ違った数人の足どりや顔色に、酩酊の色はなかった。ならば午前か。そう思った矢先、朝の商業通りには相応しくない喧噪が起こる。目当ての居酒屋「兎の尻尾」亭は、看板を探すまでもなく見つかった。
その店構えはこぢんまりとしていて可愛らしい。ほぼ真四角に近い入り口の扉は幅広というより縦が短く、ユリスリートくらいの身長ならば辛うじて頭上の心配なく出入りできる高さしかない。けば立った白壁の所々には陶器や硝子の欠片が埋め込まれ、陽射しがあたれば綺羅の輝きをちりばめたかのようだろう。通り沿いに一つある窓ははめ殺しになっているが大きく切られており、店内に明るさを呼び入れていた。
しかしその窓に妙な物がぶら下がっている。毛玉のような塊が五つ六つ、どうやら兎の尻尾部分らしき灰茶色の毛皮であった。また軒先に吊り下がる樫の木を輪切りにした絵のみの看板には、でっぷりとよく肥えた三羽のウサギが描かれている。横一列に並んで往来へ丸い尻を向けている中、右端の一羽だけが振り返っているが、その目はなぜか凶悪だった。
尻尾の毛皮は何かのまじないだろうか、呪術的な雰囲気にくわえて看板のウサギの目が怖い。ここで兎料理を食せば呪われそうな気がした。おまけに三軒先にまで聞こえる騒がしさは、収まるどころか高まってゆく。厭な予感しかしない。しかし食料品を扱う店は、ほかに見あたらなかった。手荷物のなかに残る食べ物は干したナツメヤシが二粒だけで、じゅうぶんな備えとは言い難い。深呼吸をひとつ、ユリスリートは腹をくくって扉を押し開けた。
外観からの予想に反して、中は奥行きが深く広い。その広い空間に充溢する異様な熱気が、野太い声とともに塊となって押し寄せた。歓声の中心でにらみ合う二人と、あおり立てる男達がおおよそ三十人。そこここに俄の胴元が出現していて、掲げられる指の本数のみで賭けが成立してゆく。ざっと見わたした限り、通りですれ違った者らと同じく顔色に酒気はなかった。彼らを酔わせているのは、暴力とささやかな小遣い稼ぎへの期待である。
ここは傭兵溜まりか。
気圧されたのは一瞬で、ユリスリートはこの野蛮な風景に懐かしさを覚えた。だが暗黙の一体感に支配された空間へと何食わぬ顔で入りこみ、即座に順応できるような器用さは持ち合わせていない。為す術なくぼんやりと立ちつくしていると、耳障りな金属音の連打が唐突に鳴り響いた。
木杓子を丸底鍋に叩きつける虎髭の巨漢が、間仕切りの向こうから鬼の形相で店内を見わたしていた。興奮は熱病のように男らを冒していたが、鍋と木杓子と巨漢のまなざしは、頭上からぶちまける冷水以上の威力があった。凍りつくような沈黙が訪れると、鍋は殴打の責め苦から解放された。
「この阿呆どもめが。ちっとばかし目を離しゃこれだ」
憎々しげな濁声に、視線を泳がせる者や冷や汗を浮かべる者がある。
「けんかなら外でやれ。皿の一枚でもわりやがったらここにいる全員、二度と俺の飯は食えねえと思えよ」
ここにいる全員というからには、自らも数に入っているのだろうか。ユリスリートはどうにも腑に落ちない気分だが、彼とは別の理由で腑に落ちていない者がほかに二人いた。悪のりと退屈しのぎに騒いでいた連中と違って、この二人は相互に腹を立てており、溜めにためた鬱憤を今日こそ晴らさねば気が済まないところまで来ていた。何となく気まずくはあったが、まだまだその顔は相手をぶん殴ってやろうという気迫に満ちあふれている。どちらからともなく出入り口へと大股で向かう二人の男に、ユリスリートは道をゆずった。
勢いよく扉が開く。二人の行く手が遮られる。ユリスリートがゆずった場所に、あざやかな緋色が立ちはだかっていた。
「ごきげんよう、諸君」
凛としてよくとおる声は清々しく、造形的に完璧な均衡を保った面白味のない美貌は、その枠を逸脱することなく典雅な微笑を浮かべていた。
つまり、ひどく場違いな男であった。