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女王の盾  作者: 鰐屋雛菊
第二章
12/20

〈八〉ミーザム街2

 赤茶けた屋根とくすんだ白壁、その壁を補強するよう斜交いに差しわたした木材は、深みを帯びた色合いがかえって素朴な田舎家らしく、煉瓦造りや石積みの重厚な邸宅が並ぶこの街ではかえって目立つ。別邸とはいえ、王の膝元たる都にかまえるのだ。貴族達は競って美々しい豪邸を建てた。そんな虚栄なんぞどこ吹く風の飄々とした佇まいが、いかにも目の前の男にふさわしい。

「なぜ俺を、匿う」

 さして広くもない部屋は、予想外に会話が困難だった。ダナイが縄梯子を登り切る前に、階下でふたたび演奏が始まったのだ。しかも彼を招き入れた男は何やら熱心に戸棚を物色中で、生返事を一つ寄こしたきり、無防備な背をさらしてその中を引っかき回している。仕方なく窓辺に立ったまま、男の一挙手一投足を眺めていた。縄梯子はまだ地上へと垂れている。

 想像していたよりも若い。それがライサラという男の第一印象だった。ダナイの目には三十を幾つもこえていないように見える。癖の強いぼさぼさの髪はふぞろいで、頬も顎もいかにも不精の結果によるまばらな髭におおわれていた。南方人の常識では「髭を蓄える者は、王か行者」と言うのだそうだが、目の前の男は王の威厳に程遠く行者にしては俗気がありすぎる。

 ほどなくして男は目当ての物を探しあてた。黒い革張りの薄べったい箱だった。相当に年季の入った代物らしく角がすり切れ、乾燥に剥落したのだろう点々と白く色抜けしている部分がある。書き物机にそれを置いて、次は壁にかけられた絵皿の一枚へと手を伸ばす。布の切れ端やら定規らしきものがはみ出して、戸棚は閉じられなくなっていた。

 人声と楽器はともかく、床を踏みならす音がうるさい。壁伝いに振動をともなうせいか思った以上に響く。絵皿を袖口で拭いながら、男はやっとダナイをふり返った。苦笑混じりに、こいつが、と親指で床を指す。

「踊り子はからっきしの素人でな。ひどいもんさ。それでも若い女が裳裾もすそからげて踊るってんで、助平共が集まってこの騒ぎだ」

 皿は東方渡りの磁器である。男の指が薄緑色の濡れたつやを一撫でし、縁のあたりを軽くはじいた。おそらく硬質の澄んだ音をたてたことだろう。なるほど素朴な外観であっても、この家屋の正当な主は貴族なのだと主張する一品であった。そして男のまなざしは素晴らしい工芸品を愛でるというより、やはり値踏みしている。

「それだけならよかったんだが、警邏けいらの連中にまで贔屓ひいきにされちまってなあ」

 「警邏」の言葉に、意識の端へと追いやっていた足の痛みがぶり返す。それでも表面上は顔色ひとつ変えない。

 先刻、交易施設で出会い頭に斬り合いとなった二人組の男は、ダナイを同族と断定した。それは同時に彼らが、森の民の戦士であるということだ。その誇り高き二人の戦士は、ハーシュラン王朝ゆかりの都エルナ・デュガーレを襲った凶事に巻き込まれ、警邏隊の雇われ兵に身を堕とした。おそらく断腸の思いで甘んじているだろう境遇を、いっそ嘲笑えたならとダナイは思う。

 身の丈を越す長柄の武器や鍛え抜かれた体躯など、遠目にも目立つ風体に、もしやとの予感はあった。何と言ってもここエルナ・デュガーレには「つるぎの巫女」がいる。月の沢の里の現状は「剣の巫女」候補の少女と義兄の駆け落ちが招いた。「剣の巫女」とはそれほどの存在なのだ。“谷”が、護衛の戦士を一人二人つけていてもおかしくはない。それとも。

 ダナイの手が無意識に腰のうしろへ伸びる。虧月きげつの柄に触れる。

 彼の動向を“谷”が察知していた可能性は果たしてあるか。

 遠見とおみ先見さきみの能力を持つ養母は、ダナイがシェルナム王国の都へと赴く理由を知っていた。とうぜん“谷”にも同じ能力に長けた者が幾人かあろう。だとしたら彼らの役目は、「剣の巫女」ではなく「剣の主人あるじ」の護衛だ。それはダナイが彼らにとって、明白な敵であることを意味する。

「警邏隊だ貴族だといっても生身の人間だ。特に若い野郎が多い。どんなにお育ちが良くても、ああいう見せ物は楽しいんだろうよ」

 書き物机には様々な物品が広げられていた。例の絵皿には、琥珀色の液体が注がれている。話ながらも男は手を休めず、真鍮製の灯明皿に火を点す。

「こっちにすりゃ煙たいが、まさか警邏隊員様だけを爪はじきにもできんしな」

 警戒心のかけらもない背は、まるで旧知の友に対するかのようだった。武装した手負いの、怪しい輩であるはずのダナイを前にして。

 この至近距離ならば。

 助けを呼ぶどころか悲鳴を上げるいとますら与えず、一撃のもと確実に絶命させられる。

「物騒だねえ」

 その顔は笑っていた。何とも大らかな、屈託のない笑みであった。

「退屈だったか? ちょいと回りくどいが、まじめに説明してるつもりなんだがな。お前さんをこうして匿う理由ってやつをさ」

 心中の苛立ちを見抜かれて不快さが増す。握りしめた柄を、いつでも抜き放つと言わんばかり押し下げた。

「なあ、にいさん。お前さんは、どっからどう見ても外から来たお人だ。おっと」

 男は慌てたように両手を上げて、押しとどめる仕種をして見せた。

「詮索するつもりはない。ただこっちの事情も込み入っててな」

 殺気を解く。が、背後にまわした手は下ろさなかった。

 不必要に気がたっていた。ひりつく痛みは搏動に合わせて広がり、右足全体に粘質の重みを沈殿させてゆく。冷たい汗がまた一筋、こめかみから頬へと伝い落ちた。

 男はふたたび視線を机上へともどした。戸棚から発掘した黒革の箱をとりあげ、掛け金を外しにかかる。

「これ以上、北へは行けないと言ったな?」

 最初の問いを聞き流されたわけではなかったらしい。しかしあまりに婉曲な解答に業を煮やし、ダナイは質問をかえた。男は特に異論をとなえず応じる。

「九の鐘はお前さんも聞いたろ。この時間は酔っ払いの帰り客と、そいつらを狙った客引きで橋の周辺は人どおりが増える。おまけに、まあその」

 言い淀み、肩をすくめた。

「北辺の境界あたりは、路がせまくて入り組んでるところが多い。身を隠すには好都合だと思ってるのかもしれんが、宿代けちった渋ちん共がそこらじゅうで盛ってる。今のお前さんじゃあ、悪目立ちするだけだ。こっちとしても、警邏の連中がいるときに騒ぎは困る」

 なるほど確かにこの街について、表面しか知らないのだとダナイは自覚した。

 音楽は相変わらずやかましい。足踏みの音はときどき乱れた。どのような舞踊かダナイには想像もつかないが、短い休息をはさんで二時間近く、早い曲調に合わせて踊り続けている。いや、彼が来るもっと前から見せ物は始まっていたのかもしれない。不揃いな足音は、踊り子達の悲鳴なのだろう。

 限界はダナイも同じだった。もたれかかった壁の上を背がすべり落ちる。

「すまん、少し」

 休ませてくれ。そう言いかけ、瞬時に苦痛が消し飛んだ。萎えかけた足は踏みとどまり、辛うじて指がかかっていただけの手が虧月きげつの柄を握る。

 張りつめた空気のなか、階下からとは別の物音が二人の耳に届いた。それはやや乱暴だったが、家屋全体を揺るがさんばかりの騒音を考慮したせいであって、緊急を要するせっぱ詰まったものではない。

 扉が三度、打ち鳴らされた。



 廊下へ続く扉は、裏庭を見おろす窓の対面にあった。ダナイは正面を向いたまま、部屋の主の動向をうかがう。窓際の一角を占める書き物机を離れ、部屋の中央あたりで足を止めた男がふり返った。くちびるの前でひとさし指を立てて沈黙を指示し、次いでその手で扉の陰にあたる位置を指す。戸惑うダナイを急かすように、来訪者は声でもって催促をくり返した。

「ライサラさん。いないんですか、ライサラさん」

 少年の声だった。ダナイが足音をたてず移動すると、部屋の主は小さく肯いて自らも扉のまえに立った。取っ手に手をかけ、だが肩越しに視線をダナイの左腕へやる。いいのか、とくちびるが動く。刃を突きつけておくべきか否か、そんな逡巡がダナイの脳裏をよぎったのは確かだった。だがそれを男が気づかうのはどう考えても変だ。そして不愉快だった。視線でそう訴えれば、男はかすかに笑う。扉が開かれた。

 まず飛びこんで来た一際大きくなった騒音に、ダナイは耳を塞ぎたくなった。慣れているのか男は平然としている。少年の用件もおおよその見当はついているようで、その横顔は落ち着いていた。むしろやや辟易とした色さえ覗えた。

「今日は何を言ってきた」

「あいつら姉さんを!」

 若い声が勢いこんで言い、慌てて謝罪する。男はすぐに察したらしい、なだめるように肩でも叩いているのだろうか、少年のほうへと手を伸ばした。

「踊り子は客をとらんと説明したんだな」

「しました。でも」

「わかった」

 ほんの二呼吸ほどの沈黙だった。

「この時間だと三番詰め所に黒貂くろてんがいるはずだ。奴に事情を話して来るように言え。山犬には知られるなよ。俺が出て行くより面倒くさいことになるからな」

 消え入るような返事に、また男の手が廊下のほうへと伸ばされた。やはりダナイには見えなかったが、どうやら少年の頭を乱暴になでているようだった。

「心配するな。あいつなら巧くやってくれる。どうしても駄目なら俺が出る。俺の店でそういう無理は絶対に通させん。安心しろ」

 最初よりは幾分か力強い声が返ってくる。男は肯いて、急げよと少年を見送った。階下の音楽と足踏みに混ざり、遠ざかるかけ足はすぐに判別できなくなった。

 不思議なもので扉が閉ざされると、耳は心地良い静寂がおとずれたと錯覚する。ヒトの感覚など相対的であてにならない。ダナイはあらためて思った。だが痛覚は記憶にとどまらない。痛みそのものに慣れてしまう危険を本能が避ける。五感のなかで苦痛は常に新鮮だ。

「やはりライサラか」

 もう両の腕はだらりと下ろされていた。壁に寄りかかっている俯いた顔を灰色の瞳が覗きこむ。

「お前さんの名は尋かないでおくよ」

 二人は同時に、同じ種類の笑みを浮かべた。

「その足、診よう。肩を貸そうか」

 まだ一人で歩ける。ライサラの申し出の一つは辞退した。その後について、書き物机の傍らまで歩く。足は更に重くなっていた。

「適当に座ってくれ」

「あんた、医者だったのか」

 机上には治療のための道具が揃えられていた。ダナイは思わず呻く。火を点した灯明皿や清潔な布、酒に満たされた皿、針、糸。例の黒い箱の中には筆記具程度の大きさの、金属製の器具が収められていた。おそらくは切開と摘出のための道具で、使用方法が想像のつかないものも数本ある。

 詮索するつもりはないとライサラは言った。それはダナイも同様だが、つい口をついて出た。祖父様がね、とライサラは事もなげに答える。

 ライサラに関する噂は数え切れないほどだった。但しどれもがまゆつば物である。もと南方の王族だとか裏社会の黒幕だとか、そう言った分かり易い類だ。どうも彼の前身——この異変以前どこで何をしていたかについて、故意に隠蔽されているふしがある。そんないわく付きの人物だが、こうして本人と話していると、妙に勿体ぶったもの言いに苛立ちはしても胡散臭さは感じない。

 自分は医者ではないと否定したライサラだが、とても素人とは思えぬ手際だった。傷口を水で洗い流したあと圧迫止血を施し、焼いた針と酒に浸した糸であっと言う間に縫合した。

 身体を横臥えたほうがいいとの勧めには応じなかった。だが足の重みは全身へと広がっていた。汗はひいている。肩に毛布をかけられて、ダナイははじめて微睡んでいたことに気づいた。

 思えばライサラはダナイに対して最初からまったく警戒心を示さなかった。むしろ。

「眠れるなら眠ったほうがいい」

 そう、むしろ小鼠のように怯えて、歯をむいていたのは自分のほうだったと気づく。そのみっともなさをふり返り、なぜかダナイは安堵に包まれて眠りに落ちた。


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