〈七〉ミーザム街1
地上に降り立ったダナイは、そこで初めて濃密な気配に気づいた。がらんどうのような交易施設との落差には息苦しさをも感じる。ざわめきとも違う、何と特定できない気配がこの無風の大気にわだかまっていた。壁一枚の隔たりは想像以上のものを遮断していたようだ。
かつて貴族街として華やかで権高な風をこれ見よがしにまき散らしていた南西地区ミーザム街は、生への執着と諦念が入り混じった、どこかせっぱ詰まった喧噪に夜ごと包まれている。そんな刹那的ならんちき騒ぎとは裏腹に、ここは王都でもっとも安全な街区だ。すべての建物は南方人達に管理されていて、居住するには彼らの許可という選別を受ける。さらに出入り口は南大路へと続く橋が一つきり。厄介な場所であった。
なじみの女の一人でもつくっておくべきだったか。
その身勝手な思いつきに、ダナイは吐き気すらおぼえる。できもしないことをと自嘲に顔をゆがめた。偽りの好意を演じられるなら、もっと楽な生き方ができただろう。少なくともこうして人殺しなんぞに身を堕としてはいまい。
行けども行けども白っぽい石畳が続く。ふり返る。逃げ場のない一本道が白く尾を引いていた。明らかに経路の選択を誤ったが、後もどりする余裕もない。このまま進めば半時かからず街区の北端へたどりつけよう。そこから塀と空堀を越えて、隣接するダラッド街へと脱出するつもりだった。
砂まみれであちこち切り裂かれた衣服もさることながら、右足に巻きつけた布がゆっくりと、だが確実に赤く染まってゆく。何より殺し合いの余韻とでも呼べばいいのだろうか、疼くような興奮にいまだ指先がふるえていた。住民たちで組織された自警団は、昼夜を問わず目を光らせている。この出で立ちこの有様では間違いなく怪しまれる。
額に浮かんだ冷たい汗が、ひと筋ふた筋と流れて視界をにじませた。気配であったものは狂騒へと変じている。見せ物でも打っているのだろうか、蔓草がからまる鉄柵の内側からもれ聞こえてくるのは軽快な音楽だ。鳴り物が拍を刻み、擦弦楽器の情熱的なうねりが歩調にはずみを促している。それに合わせた歌声、手拍子、そしてはやし立てる野卑なかけ声や指笛。
建物の裏手にあたるため、見える範囲に人の出入りはない。そしてこの賑やかしさの向こう、そそり立つ槍の穂先のような鉄柵が途切れた先で、やっと一本道の終わりとなる四つ辻が現れた。ダナイは思わず安堵の吐息をもらす。いつの間にか指の震えは止まっていた。異様な興奮状態が冷めて肉体感覚が正常に戻りつつある。痛みが痛みとして知覚されはじめていた。
鳴り納めの鐘が頭上をとおりすぎて、入れ替わるように近づく者があった。まがり角の向こうから声が聞こえる。ふと、このまま誰かに目撃されたなら、それでいいような気になる。
死んだ者を追ってはならぬ。
エルナ・デュガーレへと旅立つ前夜、養母がダナイに訴えた一言がいまなぜか脳裏によみがえる。三月前のあのときは考えもしなかった。だが「死んだ者」とは誰を指していたのだろう。
妻か。
それとも義兄か。
痛む足を叱咤して柵を越える。家屋は思ったよりも近くに迫り、裏庭にあたるこの狭い空間を圧迫している。はびこる蔓草と、固い葉を生い茂らせる小高木のあいだに身をひそめた。
「いい加減にして」
不明瞭だった声が突然に意味をもった。女の声だ。どうやら角を曲がってこちらへと向かってきている。
「何度おなじこと言わせるの。あたし達だって食べてかなきゃいけないのよ。それともあんたが食べさせてくれるっていうの?」
「だからよ。俺だって稼ぎの半分お前につぎ込んでんだぜ」
「子供ったって三人もいればあんな端金、あっと言う間に右から左に消えちゃうのよ」
娼婦となじみ客と思われる二人連れであった。立ち止まって二言三言の応酬のあと、数歩すすんでまた向き合う。飽きずにそれをくり返す。早く立ち去れと胸中で毒づきつつ、ダナイは聞きたくもない痴話げんかを聞いていた。ところがそれこそ目と鼻の先で言い争いはますます激しくなる。
最初から分かっていたことだろう。もちろん分かっていた。そんな押し問答が続く。
まずいな。
ダナイの懸念をよそに、案の定ののしり合いがはじまった。鳴り収めの鐘を汐に楽の音が止んでいた。声高な言い争いを聞きとがめる者があるかもしれない。思った矢先、その懸念は現実となった。ダナイは息をつめる。二階の窓が一つ、音もなくそろりと開いた。
もうたくさんよ、この分からず屋の野暮天。言葉にすれば酷いものだが、女の目にはうっすら涙が光っていた。男はそれに気づかない。掴みかかる。腕をふり上げる。
「やれやれ。犬も食わないってヤツかい」
その声はどこか楽しそうだった。まるで冷やかしているみたいだと、ダナイが思ったほどに。
「それとも助け手がほしいか、ねえさん。なんだったら二三人、そっちへ遣るが」
とつぜんの闖入者にまず反応したのは女だった。見おろす人物は服装や肌の色で南方人と見受けられた。このときまで全く目に入っていなかったのだろう、からまる蔓草が緑の壁のような柵と、ここミーザム街では珍しい素朴な田舎家ふうの家屋に気づいて、あからさまに狼狽える。
「いえ、いいえ大丈夫。なんてこたぁないんですよ、ちょっとしたけんかで。お騒がせしちゃって済みません」
ほら、あんたも謝って。そう促す女の豹変ぶりに、男はいきおいを殺がれたものの矛を収めるには至らなかった。その口調は癇にさわったし、赤の他人の、しかも南方人ごときに指図されるいわれはないとの反発もあった。挑戦的な目つきで肩をそびやかすその袖を、女が血相変えて引っぱる。
ばか、ライサラよ。
ささやき一つが男の強気をくじく。
ライサラ。その名を知らぬ者はない。王都が閉ざされて数日のうちに、南東地区の貧しい南方人を率いてこのミーザム街を占拠した人物である。どさくさに紛れた一種の反乱行為ともとれるこの荒技はしかし、住居を奪われた貴族を除くほぼ全ての住民たちに承認された。承認どころか快哉を叫ぶ声は大きかった。
暗黙の不可侵を貫いてきた四王国において、貴族は王都をとり囲む城壁や城門にひとしい。すなわち無用の長物であり、念のための備えである。しかして王都に降りかかった凶事に、備えは備えとしての役に立たなかった。彼らの大半は右往左往した挙げ句に王宮へ押しかけてそのまま二度と戻らず、あとは使用人に家を乗っ取られほうほうの体で逃げ出したか、逃げおくれて殺されか。邸宅を守ったごく少数の者らも結局は南方人に叩き出されて、現在のミーザム街に貴族はただの一人も住んでいない。
二組の靴音が足早に遠のいて行く。だが辛うじて垣間見える白い服は、窓枠にもたれたまま動こうとしない。それどころか視線を感じる。ライサラの名を聞いたあのとき、わずかに気配を乱してしまった。まさか気取られたのかと右手を腰のうしろ、革鞘に収まった虧月に伸ばす。
「言いにくいんだがな」
とても独り言とは思えない口調に手を止めた。
「見慣れんのがその通りを南からふらふら歩いて来る。それでまあ、ずっとここから見てたのさ」
やり場をなくした手が力なく垂れた。自らの滑稽さに苦笑も出てこない。まるで子供のかくれんぼのようだ。左の頬がひりりと痛んだ。植え込みの葉は固く、そのまわりは尖ったのこぎり歯のようだった。おそらく葉陰に潜りこんだとき切ったのだろう。このつまらない小さな切り傷には、命のやりとりに身をさらして負った負傷よりも現実感があった。
「そこでひとつ提案だ。こうしてるとかえって目立つ。目立つのはお前さんも困るだろう。俺は俺で、とうとう頭がイカレちまったかと思われると、これまた困るんでな」
やはりどこか不真面目に、だが小さく「今は」とつけ足した呟きには、皮肉めいた真摯さがこもっていた。それはダナイには聞こえなかったし、聞こえたとしてもどうでもいいことだったろう。彼にとって目下の最重要問題は、窓から投げ下ろされた縄梯子をどう解釈するかである。
「ちょいと上がってきてくれないか。どうせその態でこの時間に、とてもじゃないがこれ以上北へは行けんぞ」
だらりと力をなくしていた腕が、再び背後にまわる。指先に柄がふれた。
「お前さんをどうにかしようってんなら、それこそ一声上げりゃあ済む話だ。違うかい」
柄をにぎりしめる。確かめるように。それだけだった。腕をおろして立ち上がる。「ミーザム街のライサラ」は、話しぶり同様の不真面目そうな笑みを口もとに浮かべていながら、色の薄い瞳にはダナイを値踏みする冷徹さをたたえていた。