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女王の盾  作者: 鰐屋雛菊
第二章
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〈六〉ヒシュカとイズルー

 激憤にまかせて刃を叩きつけたところで、耳をふさぎたくなる音をたてて鎧戸にかき疵を残すがせいぜいであった。そんな無駄でもやらかさねば、持てあました衝動のやり場がない。戦いのなかで久々におぼえた沸きたつような高揚を、最悪のかたちで文字どおり踏みにじられたのだ。

 上階へと遁走した男の意図は明白である。もはや事業所の裏手から塀をこえて市街地へ逃げおおせただろう。

「やめよ、イズルー」

 きっさきを欠いて大斧に格下げされた感のある戦槍斧がおもむろに、制止する声へ向けられた。激情に濁った目が睨めつける。

「まだ遊びたりぬか」

「なにゆえ手をひいたか、兄者よ」

 イズルーと呼ばれる男、その武は兄と慕い師とあおぐ錫杖の男ヒシュカをもしのぐ。だが盛んなる血気を飼い慣らすまでには至らず、こうしてたびたび生来の短気に流される。

うぬの悪い癖ぞ。頭を冷やせ」

 忠告の返答は手加減の微塵もない一撃だった。銀の錫杖しゃくじょうがなんなく受けとめる。怒りにまかせた振りは先刻までとは打ってかわって鈍い。いかに唐突であろうとヒシュカにとって、小虫をはらう程度の煩わしさである。しかしとどめた刃がなおも力押しに押してつめ寄るとなると話は別だ。

「なるほどおれは冷静ではない。したが兄者はどうだ。あの者を逃すどのような理由わけがある」

「彼奴めが剣の主に放たれし刺客と決まったわけではない」

「決まったわけではない? それがなんだ。まさか無益な殺生はせぬなどと言うつもりではあるまいな」

 ヒシュカの非情はときに戦士の間でも忌諱されるほどだった。人まちがいを懸念して、攻めの手をゆるめたなどと到底ありえない。ましてやあの墨染めの衣服に身を包んだ男は、遠見とおみ先見さきみの巫女が告げた刺客に合致した。すわなち「同族」「男」「黒」そして「月」である。

 四王国の前身、ハーシュラン王朝は渡来の民により立国された。それ以前は「名を秘したる女神の島」に国という概念はなく、七つの氏族と信仰を司る“谷”に支配されていた。ふたつの異文化が出会えば融合と反発がおこる。当初はゆるく穏やかな交流が消極的に行われたが、渡来人の勢力が増すにしたがって両者に摩擦が生じた。いずれ大規模な争いへ発展すると思われたが、そこに人の営みを凌駕する事象が起こる。冥の災害である。この災害によってより打撃をうけたのは先住民で、人口を大きく減少させた彼らは島の中央部にひろがる樹海に隠れ、冥を鎮めし英雄王ザハナクの遺児らが生きのこった民衆に推戴されて四王国時代が幕をあける。

 樹海を住処としてのちは「森の民」とも称されるようになった先住民は、こうして歴史の表舞台から姿を消した。いまや建国の伝承にのみその影をのこす彼らは、王国人の一般的な認識ではまぼろしの民であり過去の亡霊であった。しかし人々に忘れ去られようとも、その存在が煙のように消えてなくなるわけではない。彼らは生きていた。むせかえる緑に支配された、深淵の闇をたたえる森の奥で生命を繋いできた。

「あの月弓刃を見て気づかなんだか」

 錫杖と斧刃の交差ごしにヒシュカの声がひそめられる。そうさせたのは他者の耳目をはばかってではない、ある種の禁忌感ゆえだった。

「あれはまさしく虧月きげつ盈月えいげつ。汝もその名を耳にしたことがあろう」

「月の沢の反乱か。因縁があったのか」

 睨み上げるまなざしがふと揺らぐ。

 虧月・盈月とは月の沢という小さな集落に伝わる月弓刃である。打ち出されてより数百年の古刀は、その姿や切れ味に衰えのない名刀でもあった。

 しかしまずはイズルーの言う「反乱」について語らねばなるまい。二十数年前に起こったその事件は、月の沢の若い戦士が、一人の巫女を連れ去り行方をくらませたことに端を発する。そしてこの若者の所業をうけて、“谷”は月の沢に叛意ありという烙印をおした。

 因縁かとつぶやいて、珍しくヒシュカが言い淀んだ。この事件に関わった者、特に戦士達の口は一様に重い。“谷”は総力をあげて逆賊を捕らえよとの命を兵部にくだし、およそ百人が追っ手としてさし向けられた。たった一人に百人がかりとは、その後味の悪さは想像に難くない。ましてや相手は同族の、戦士として少年のころより切磋琢磨してきた朋友なのだ。

 イズルーの亡き父とヒシュカは、ともにこの百人に名を連ねていた。

 いつの間にか互いの武器は押しあうことを忘れている。何事にも動じることなく迷いなく、常に淡々と務めを果たしてきた相棒のらしからぬ様子に、イズルーはすっかり毒気を抜かれてしまった。そうして冷静さを取りもどせば、怒りを抑えきれずに打ちかかった失態が思いおこされて、気まずさにおずおずと戦槍斧をひっこめる。

「先程の男が月の沢ゆかりの者と、兄者はそう思うておるのだな。だが虧月盈月は失われたのではなかったのか。親父にはそう聞いたぞ」

「汝の父はそう言うたか。そうであろうな」

 折られた鋒を拾い上げようとしていたイズルーの手がとまる。妙にもったいぶった言い回しだった。

 この事件の顛末、すでに「顛」は語った。それでは「末」はどうなったのか。つれ去られた巫女の行方は杳としてしれず、数十人の傍輩と死闘を演じた若き戦士は崖下へ転落し増水した川にのまれた。その手にあった虧月盈月はもちろん遺骸すらも回収されず終いである。そして「外れ」とされた月の沢はなんと、二十年経ったいまもその処遇が解かれぬままだった。

 しかしてここには不都合な事実の隠蔽と、せめてもの情けによる方便が混在している。連れ去られたとされている巫女はその実みずから出奔したのであり、反逆者として葬られた若者が最期のときに所持していたのは虧月・盈月ではなく鋼鉄製の月弓刃だった。

「どういうことだ」

「さてな。ともかくその男もろとも川に流されたのは虧月と盈月ではない。これだけは確かだ」

 多くの謎がいまも謎のまま、誰もが口を閉ざして語ろうとしない。一人の男と一人の女が恋に落ち、手に手をとって因習としがらみから逃げ出した。だが振り切ろうとした因習としがらみを、男は最後の最後で振り切れなかった。この事件は本来ただそれだけのものであるのに。

 やはりあなたには敵わないな。

 息も絶えだえに、それでも膝を屈さず血ぬれた口もとをかすかに微笑ませて、男はヒシュカを見上げた。親しい間柄ではなかった。言葉を交わすよりも武を交わし、わずかばかり先行した白星を誇る気もなく余裕もなく、その存在を意識し続けていた。互角に打ち合える、数少ない一人だった。

 大鐘楼の鐘が二人を現実に引き戻す。それは鳴りおさめの鐘。一日は九の鐘でしめくくられ、明けて四の鐘より始まる。

 透きとおったその音色が呼び水となったわけでもなかろうが、イズルーの腹の虫が思い出したように騒ぎはじめた。

「そういえば気どり屋の隊長殿が、どこぞへ来いとかいうておらなんだか」

 怒気は霧散し考えるのにも飽いたのか、イズルーの頭から黒衣の男や二十年前の事件についてのあれこれは追い出されてしまった。もとより楽しいとはいい難い話題である。切り上げられてもヒシュカには何の不都合もない。

「今からでは大幅に刻限を過ぎような」

「めんどうじゃ。大体あのしたり顔を前にしては、何を食っても不味かろうぞ」

 不平をもらしながら鋒を失った戦槍斧を肩にかつぎ、市街地へと続く門内門へ向かってすたすた行ってしまう。相棒の意向など伺いもしない。

 外部との連絡を遮断されるというこの不測の事態に、彼らは生きのびるため武を売った。その判断には是非もないが心情的に納得がゆかぬイズルーは、現在の雇い主を悪し様に言うことで鬱憤を晴らしている。どこかしら幼稚なところのある男だった。

 その背を追って数歩も行かぬうち、ヒシュカは後ろ髪を引をかれるようにふり返る。交易事業所の二階南端の窓が開け放たれている。黄みがかった壁面に点々と落ちる小さな赤いしみは、たった数歩でもう見えなくなっていた。

 黒衣の男が月の沢ゆかりの者であろうこと、十中八九まちがいない。彼は虧月・盈月の真価を知っているだろうか。人のわざを超えたあの禍々しさを。

 遠くで呼ばわる少年のような声に催促されて錫杖を一薙ぎ、爽涼としたかんの音色で自身をとらえる諸々をひとまず断ち切った。その顎から口の端にかけての古傷がひきつれる。

 一度としてあの男は本気ではなかった。

 決して人にふるってはならぬ。それがあの凄まじき双刀、虧月と盈月を授けられし者に科せられる誓いであり、彼は頑なにそれを守った。だからこそヒシュカは今も生きている。

 ありがたくもない。

 ひきつれが疼きを伴った。


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