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Approach

作者: 深月 慧

 ――彼女は薔薇の園で踊っていた。


 その顔はとても嬉しそうで、僕は自分の本来いたセカイを忘れかけた――




 1nm(ナノメートル)=1×10-9m


 ――それが人類に新たな道を示した機械たち『多機能分子機械群(MFMs)』通称『ナノマシン』の大きさ。

 そのウイルス並みに小さな小さな機械たちは様々な分野で革命をもたらした。


 例えば製造業で


 ハードウェアの分野で


 人工知能(AI)の分野で


 拡張現実(AR)複合現実(MR)の分野で


 ――サランラップ並みの薄さで平方1センチメートルの回路をたくさん積み重ねて集積回路を作れば、2019年代のハイエンドCPUに匹敵するかそれ以上の演算・処理能力を有する事ができ、長距離のカーボンナノチューブ(CNT)の製造を容易にしたそれは、僕たちの生活を大きく変えた。



 ――そしてこれからその機械を使った仮想現実(VR)へのアプローチが始まる。

 


 ――日本のある都市の某大学の某研究室

ナノマシン(MFMs)を使って人間の脳をネットに繋げる?」

「そう! 昔のSFでもそういうのあったじゃん。その時代にはなかったけど、いまの俺たちにはそれができる機械があるじゃないか!」

 人間の脳をネットにつなげる―俗に言う『電脳化』―はある意味、人類の夢だったであろう。

 たしかに彼の言う通り実現するための設備・機材は十分すぎるぐらい揃っている。

 しかし――

「誰がそれをやるんだよ。ナノマシンはできたばっかだし、それを脳に打ち込んだらどうなるかわかったもんじゃないだろ。それに――」

「大丈夫大丈夫。教授には『仮想現実への新しいアプローチ』として説明してあるから」

 ……コイツは。

 大学に入ってからコイツの異常な行動力の高さはわかってはいたが、まさか大学院でもそれが発揮されるとは……

『行動力の化身』という言葉はコイツのためにあるものと言っても過言ではあるまい。

「で、具体的なプランは立ててるんだろうな? 当然」

「具体的なプラン? そんなものは、ない」

「ないじゃねえよ、ぶちのめすぞ」


 ――といった経緯で開発がスタートして2ヶ月ほどがたった『仮想現実への新しいアプローチ』の研究は僕が必死に頭を捻って考えたプロセスの元、順調に進んでいた。




 

 ――7カ月後


「これで脳細胞とナノマシンの親和性の問題は解決したな」

「まだやるべきことが山積みだから頼むぞミスター行動力の化身」

「へいへい」


 肝心の脳細胞がナノマシンになじまなかったら元も子もないということでプロジェクトの最優先事項に『親和性・安全性の確保』を上げていたが、もともと再生医療への応用も見越して作られていたということもあり無事解決した。

 昔の時代ではかなりの手間や時間がかかったのだろうが、AIが高度に普及した現代ではその恩恵を十分に受け、かなりの自動化・時間短縮に成功している。

 あとはナノマシンを駆動させ、脳細胞に信号を送るプログラムを組んだり、そのプログラムを走らせるためのプログラム―OSオペレーティングシステム―の選定もしないといけない。

 少なくとも選ばれるOSはLinux(リナックス)系だろう。改変も自由だし、何より無料で使えるという点がデカイ。何もLinuxじゃなくてアップル社のmac OSやiOSのベースとなったUNIXユニックスというOSを使うって手もあるが、金がかかる。企業じゃなきゃとても無理だろう。

 何もOS、プログラムばっかりじゃない。数え切れないかつ筆舌に尽くしがたい困難が山積みだ。

 あぁ、考えただけでも頭が痛い。

 それなのに行動力の化身は僕の苦労を知ってか知らずかのんきに僕がコンビニで買ったコーヒーとパンケーキで一息ついている。

「人のものを勝手に食うなこの野郎!」





 数日後、僕は大学付属の病院に在籍している友人に誘われてその病院に来ていた。

 気分転換っていうのもあるが、なんでも僕がやっている研究のことで話があるそうだ。

「よぉ、研究は順調か?」

「おかげさまで。――で、話っていうのは?」

「ついてきてくれ」

 そう言って彼は首にかけていたカードを壁にかざし、指を押し付けた。すると壁に彼を認証したという旨の文が浮かび上がる。

 ナノマシンを応用したナノレベルの薄さのディスプレイ―俗に『塗るディスプレイ』と呼ばれてるもの―だ。ただディスプレイとしての役割だけでなく、指紋、虹彩、顔認証、その他様々な生体情報を読み取ることができるという優れものだ。

 そしてそのディスプレイの活用できる範囲は壁だけにとどまらない。

 認証を終えたあと、壁に表示されたキーボードにおそらく患者のものであろう情報を打ち込む。

 すると、足元の床に誘導マーカーが浮かび上がり、床を沼とした魚のように泳ぎながら僕らを目的地へと案内していく。


 なかなか便利だろ? と彼は自慢げに言った。

 圧力抑滑剤を配合したこのナノディスプレイを導入した後、滑って怪我する人や、道に迷う人が激減したのだそうだ。


 ナノマシン(MFMs)には、液状のもしくはナノ粒子化した物質を混ぜると、自己最適化して新たな特性を発現するという変わった性質を有している。

 病院に導入されたこのディスプレイもその一つだ。最近の製造業のブームはこのナノマシンの性質を利用した新たな製品の創造だ。



 彼と誘導マーカーに案内されて来たのはある病室。


 ガラス越しに中が見えるようになっていて()()()()()()を始めとする様々な医療機器に囲まれた少女の姿が目に入った。

 医療機器やそのケーブルに囲まれた彼女の姿はまるでいばら姫のようにも見えた。


「……閉じ込め症候群、ロックドインシンドローム、かぎしめ症候群、モンテ・クリスト伯症候群。何のことかわかるか?」

「どういう病気なのか皆目見当がつかないが、彼女の病気がそうなのか?」

「ああ」


 閉じ込め症候群とは『四肢麻痺および下位脳神経が麻痺しているが意識は覚醒している状態であり、合図として用いる眼球運動以外,表情を示す、動く、話すといった意思を伝達することができない』病気のことであり、簡単に言えば『意識があるが、それを自分で証明できない』状態だと彼は言った。


 肉体という牢獄はこのことであると言わんばかりだ。


 彼女は5年ぐらい前、後頭蓋窩に悪性腫瘍ができて以降ずっとこの状態が続いているという。

 悪性腫瘍自体はナノマシンで除去できたが、そのダメージまでは除去できなかったようだ。

 ギランバレー症候群等の場合は完全にとは言わないが回復するとのことだが、後頭蓋窩と後頭蓋橋に悪性腫瘍ができた場合はその見込みはないとのことだ。


 生命維持装置に囲まれながらただ死を待つ。


 刑が執行されるのを待ちながら日々を過ごす死刑囚のように。


「お前たちの研究は聞いている。『VRへの新しいアプローチ』――だっけか? そう言いながら実際はいわゆる電脳化を実現する研究なんだろ?」

「まぁ……そうだな」

「もし、それが完成したら彼女に導入してくれないか?」

「おいおい待てよ。彼女を実験台に使えって言いたいのか?」

「彼女の親が……な、彼女に意識があるのならその意識を尊重したいって言ってるんだ。でも、どうやってその肝心の意志を読み取ればいいかわからないだろ? そこでお前の研究が役に立つんだよ」

「でも……」

「どうせ今の法律じゃ医療目的以外じゃ使えないだろ。彼女の親にはしっかり説明するからさ」

「………」

「もうすぐシフトがあるしせっかくだから言わせてもらう。お前らの研究は、世界中にいる彼女とその親たちを救えるんだ――」



 帰り道をゆっくり歩きながら今日のことを考えていた。

 ――閉じ込め症候群にかかった彼女のこと。

 ――意識があるのをわかっていながらも何もできない彼女の親と医師。

 ――『お前らの研究は、世界中にいる彼女とその親たちを救えるんだ』





 ――それから数ヶ月が過ぎた。


「――教授、もう一度言ってください」

「教授の言ってることが全く理解できないんです」

「そうか、それならもう一回言おう。……OSの件だが、Linuxベースではなくフォーラムが試作したものをベースにやってくれっていうお達しがあってな。学長含め」

「「はい⁉」」





TRON(トロン)フォーラム』という団体がある。

 ざっくり言えばかつて日本独自のコンピュータ規格『TRON』を広めようとしていた団体だ。

 どうしてこの団体の説明を始めたのか。


「理解できません! 第一、あそこは産業系、IoTモノのインターネットがメインでしょ! 天下取ったIoTだけで満足できずに、またパソコン系に手を出すつもりなんですかあの連中は!」

「だいたいどうしてフォーラムが絡んできたんですか⁉」


 ――なぜかその団体が横槍を入れてきたからである。


 どこから僕たちの研究を嗅ぎつけてきたのかはあえて聞かないでおこう。大方、教授か学長かが宴会とかでポロリとこぼしたに違いない。

「口出ししてきたからにはあるんでしょうね? 試作OS」

「あぁ。これがそのOSだ」

 そう言って教授は机の上に一枚のブルーレイディスク―それもナノマシンを利用し、価格を抑えながらも容量が倍以上となった次世代型だ―が入ったケースを置いた。

 ディスクにはプリントされた『斗』の異字体を元にしたTRONのエンブレムがあり、その下には『次世代型VRデバイス(仮)用試作OS v1.86』とマジックで粗雑に書かれている。


 ――全く、ありがた迷惑な事をしてくれる。

 元々の予定じゃ公開されているナノマシンに対応したLinux系(正確にはLinuxディストリビューションという)のOSを今回の研究用にいじって使う予定だった。Linuxを使うほうがコストが掛からないし、手間もかからず、趣味でいじってる僕の経験が活きてくるからだ。

 そんな矢先にコレである。

 OSを作る手間は省けたが、それ用のプログラムを新たに作らなければならない。iOSのアプリがandroidを入れたスマホでは使えないのと同じだ。

 ただでさえとてつもなくニッチなOSである。情報工学系ですらない僕たちではとてもじゃないが手がつけられない。いや、情報工学専行の学生でもかなりきついんじゃないだろうか。

 一体誰が作ったのかは知らないが、Linuxで作れば良いものを……全くとんだ物好きもいたものだ。

 そんな僕の悩みを知ってか知らずか我らが行動力の化身はずずっとお茶をすすった。




「――というわけなんだ。こういうのに強いやつ知らない? つか、やってくれない?」

 翌日、僕は学食で名物のカンパチ丼に舌鼓を打ちながら偶然出くわした情報工学部の友人にこの件を話した。

 一人暮らしが長いとこういう生魚系の料理と縁が遠くなりがちだ。

 友人は親子丼をつつきながら

「かるーくソースコードとかを見てみたんだけどさ、これは荷が重いな……しかもこれ、純ナノマシン製のハードなんだろ? ちょっとなぁ………」

「頼む! 俺達じゃ手が付けられないんだ!」

「でもなぁ……あ、奴ならなんとかできるかもしれん」

「えっ、マジで⁉ 誰?」

「うちの学部にはプログラムの申し子って呼ばれてるやつがいてさ、まぁ早い話が天才ってやつだ。ホレ」

 友人がスマホを握った手をこちらに向けてきた。僕もテーブルの上に置いていたスマホを手に取り、お茶が入っているコップを倒さないように気をつけながら友人の手に軽くぶつけ(バンプし)た。

 スマホの画面を見るとそのプログラムの申し子とやらがいる研究室の場所と電話番号などの情報が表示されていた。

 ――最近のスマホに標準搭載されている近距離無線通信(NFC)を利用した機能だ。

 わざわざLINEとかで送らずにかつ、iOS、AndroidといったOSの垣根を超え、こうして簡単に情報をやり取りできるのはとても便利である。

「あいつ甘い物好きだから、パンケーキや筑紫餅とかをあげれば喜んでやってくれると思うぜ」





「――わざわざごめんねー。何でもフォーラムの人がうちのOS使えってカチこんだんでしょ?」

 ちょっと片付けるから待っててねーとそのプログラムの申し子は慌ただしく研究室を片付けている。

 そして僕は友人から教えてもらった研究室にパンケーキやパフェと一緒にお邪魔していた。

 彼のいる研究室にはいろんなコンピュータの部品でいっぱいだ。

 中央処理装置(CPU)グラフィックボード(グラボ)マザーボード(マザボ)にハードウェアやプログラムに関する本や論文がテーブルの上に山積みだ。よくよく見ると、かつてのTRONフォーラムが掌に合うようにと放射状の配列を採用して作った、異形かつ今では骨董品のキーボード『TRONキーボード』まである。

 その隣にはIBM社製の最新型の量子コンピュータと一体化した今流行りの複合型(ハイブリッド)コンピュータが鎮座している。

 ――PC含め一体いくら掛けたんだか。

「確かにそうなんだが、どうして知ってんだ?」

 彼とは学部は別のはずだ。

「僕もさ、長年コンピュータと付き合ってきたんだけど、飽きてきたんだよねー」

「と、言うと?」

「今やコンピュータのOSはウィンドウズかMac系がほとんどでしょ? たまにLinux系もいじるけど新鮮味がなくてねー。だから僕もトロンフォーラムにいるんだけどー」

「ちょっとまて、君もフォーラムにいるのか?」

「そうだよ。成績も良かったってのもあって参加してんのよ」

「そ、そうなのか……」

 でなきゃあんな異形の骨董品(TRONキーボード)を持っているわけがないよな。

「んである日、フォーラムの人から『純ナノマシン製のVRデバイスを作ってる面白いやつがいるぞ』って情報がきたのよ。くっそ面白そうじゃない? だから…………」

「だから………?」

 彼はいたずらに成功した子供のようにこう宣った。

()()()()()でそのOSをフルスクラッチビルド(イチから作って)して、その研究に参加させてくれって頼んだんだ」

「はい?」


 一週間であのOS作ったっていうインパクトもさることながら、僕達の研究に一枚噛むためにフルスクラッチビルド―わざわざイチから作ったっていう事実に驚きを隠せなかった…………


「そんなどーして……一言言ってくれれば良かったじゃないか」

「なんつーか……気分?」

「えぇ…………」


 気分でOSをフルスクラッチするのかよこいつ……

 間違いない、こいつはPCバカもとい変態だ。それも手がつけられないレベルの変態だ。




 なんだかんだで、研究メンバーがひとり増えることとなった。

 

 ――10年ぐらい前に開催された東京オリンピックが終わったあと、前々から予言されていたとおり確かに日本は景気が悪くなった。だが、ある学生たちの発明品によって一気に持ち直した。

 それが『多機能分子機械郡(MFMs)』――ナノマシン

 その機械は人類に新たな夢を見せ、実現させてきた。

 ――しかし、夢の機械とは言っても所詮人間が作った機械だ。自ずと限界がある。



 ――目の前にいる小さな女の子すら助けられないのだから――



「――余命とかあんのか?」

「余命? そんなの親が望む限り、金が続く限りさ」


 病院の屋上でそんなことを話しながら缶コーヒーを飲む。


 フォーラムがよこしたOSと僕のLinux系OSの開発はまぁ順調だ。トライアンドエラーの繰り返し。大学時代からやってきたからそんなものはもう慣れっこだ。

 そういえばあの新しく入った変態プログラマーがあるアイディアを思いついたらしい。

 あとでじっくり話を聞いたほうがいいのかもしれない。

 ――話についていけるかいささか不安があるが――


 OS騒動が一段落したあと、教授と行動力の化身と変態プログラマーに例の少女のことを話した。さすがに戸惑っていたものの、親の同意があればOKということになった。

 今回この病院に来たのは報告と面談の打ち合わせだ。無論、彼女のお見舞いも忘れない。


 病院を出たのはいつもどおり日がとっぷりと暮れたあとだった。






 病院から出たあと、僕は直接研究室に戻らず、病院から少し離れた海辺の公園に来ていた。

 ここからあるものがよく見えるからだ。一体何かって?


 核融合発電施設の建築現場。


 ナノマシンが『人類の夢』と言ったが、これもまた『人類の夢』の一つである。


 ――地上で太陽をつくる研究。

 ――その地上の太陽の輝きは、人類を導く道標となる。


 この核融合炉で全世界のエネルギー問題を一掃できるとしてかなりの期待が寄せられている。

 この核融合発電の実証実験はフランスのカダラッシュにあるITER(イーター)という実験施設で行われ、見事成功した。

 これをきっかけに世界中で次々と建造されている。

 無論、日本も例外ではない。

 時々、『反原発』やカルト教団の連中がデモ(とは言ってるが実際のところかつて沖縄米軍基地にへばりついてた反対派がやっていたのと同じような『妨害』そのものだ。実際、ドローンを建築現場に突っ込ませたバカが逮捕されている)を起こしているが、共感・同調する人は皆無に等しい。

 連中の行動や態度もそうだが『自分たちの正義・思想のために苦しい生活をしろ』と言ってるのに等しいから、周りから白い目で見られても仕方あるまい。

 


 さて、日本は地震大国であることは周知の事実だろう。無論、それは2035年代の日本でも続いている。

 そしてここは東京だ。建てるためのスペースはないに等しい。

 それではどこに建てたのか。

 海中だ。

 核融合炉を始めとする施設は海中に置かれ、その他は地上―専ら人工島メガフロートが多い。この核融合発電施設もそうだ―に置かれる。

 このほうが有事 ―主にテロとか周辺機器の事故が挙げられる。核融合炉そのものは性質上、原子炉のような事故は起こらない―の際、対処しやすいのだという。

 数年後には無線給電ユニットの設置兼実証実験が行われるそうだ。


 ――時代・人間は変わる。技術とともに――




 一通り見て満足した僕は帰ろうとした――

 ――その時だった。

「一緒に、来てもらおうか」

 僕は何者かに肘の関節を極められた上に、首元にナイフを突きつけられていた。

 ――何故――

 さっきから奴がいろいろ言っているが、アクセントがおかしい。そして同時に聞き慣れたアクセント。

 これは方言の訛りなんかじゃない。

 この人は中国の人だ。


「一体何が望みなんだ」

「お前らが作ろうとしているモノが欲しい。どこにある」


 ――日本と中国は今でも友好関係を結んでいる。

 ―表面上は―


 今この時間にも人民解放軍(中国軍)


 日本各地のサーバーというサーバー。


 スマホというスマホ。


 PCというPC.


 ありとあらゆる情報機器にいろんな形で攻撃を仕掛けているはずだ。

 ネットの世界だけじゃない。

 日本の領海・領空・排他的経済水域(EEZ)にもちょっかいを出しているだろう。


 尖閣諸島や東シナ海における騒動や紛争等で、日本に住む人間はもはや、中華人民共和国に対して以前のような信頼を寄せてはいない。


「一体何のことを言ってるのかは知らんが、まぁ待てよ中国の人」

「よくわかったな。―なぁ、一つ提案がある。中国に来ないか? 日本以上の設備と資金提供を保証しよう」


 ――そのかわり、中国共産党(我ら)の監視下に置かれろ。無論、お前の生殺与奪権はこちら(共産党)にある。


 早い話がそういうことだ。

 潤沢な資金と最高の設備。技術屋・研究職に就く人にとっては垂涎モノだ。

 だが、それは悪魔の契約そのものだ。

 中国の『チャットで共産党に関するジョークを流したら警察がやってきて署に連行され、こってり絞られた』という話は、『旧ソ連で共産党やゴルバチョフとかにまつわるジョークを言うのは命がけ』という話と同じぐらい有名な話だ。

 ジョージ・オーウェルが書いた『1984年』のビッグブラザーよろしく年中監視され、連中の都合や悪口で痛めつけられたり、収容所送りにされたりされるのは嫌だし、処刑なんてもってのほかだ。

 それでもなお、中国などの外国に行く技術屋たちは後を絶たないそうだ。

 小さい頃、宇宙航空研究開発機構(J A X A)に努めている僕の従兄弟の叔父がよくこぼしていた。


 ――一線に立てるほどの技術を持ち、自分たちが作ったロケットを人工衛星を飛ばすんだという熱意あふれる若者達が技術に無理解・無頓着な上層部や官僚に命じられ、もう使うこともない人工衛星のメンテに回されている。

 海外に行くやつの大半はそいつらさ。

 こんなところで腐っていくより、自らの技術をフルに発揮できる環境を求めて海外に飛び出して行っちまったのさ――


 ――彼らとおじの気持ちは痛いほどわかる。

 だけど僕は中国に行くつもりはない。

 今の日本は昔のような技術屋・研究者に優しくない国じゃないから。

 中国の有様・惨状を知っているから。

「なんの冗談か知らないが、年中監視され、連中の気持ち一つで消される中国なんか行くもんか。わかったらとっとと離せ!」

 口ではこう言ってはいるものの、内心かなりの恐怖を感じている。

「冗談か。もったいないな。主席は君たちの研究と才能を高く評価しているのだよ? それなのにこんな国でその才能を腐らせていくつもりなのかね?」

「うるせぇ! 俺たちの研究は、てめぇらの下らねぇ権力闘争や、思想のためにやってんじゃねぇんだよ! カネや環境ちらつかせれば俺らの先達みたいにホイホイ引き込めると思ったか?」

「――この……!」

俺たち(日本人)を、舐めるな」

 奴のナイフを持つ手に力がこもるのをはっきりと感じた。彼がちょいとナイフを引けば、首をかっさばかれ自らの血に溺れて死ぬか、心臓を一突きされるかしてあっという間にお陀仏だ。

 悔い? そんなのあるに決まってる。

 人並みに彼女作りたいし、友人たちとワイワイやりたい。とにかくやりたいことがたくさんありすぎる。

 でも何より――


 俺たちの研究で新しい夢を築いたり、世界中にいるあの少女たちを救いたかった――





 ――

 ――――

 ――――――あれ?

 あれほど覚悟した瞬間・ナイフが僕の喉を引き裂く瞬間は来なかった。

 同時に、ナイフの冷たさや、奴の腕の感触も感じない。

 なんかわからないけど助かったーという安堵感が僕を包んだ。


「――鳩間 レン君だね? 私は日本情報軍(・・・・・)の倉瀬大尉だ。君を保護(・・)しに来た。ついてきてくれるかい? 安心してくれ、一緒に研究してる(・・・・・・・・)友人たちも無事だ(・・・・・・・・)


 ――え?

 日本情報軍(・・・・・)だって? 軍人が僕に一体何の用なんだ?

 ――いや、通りすがりに助けてくれたのかな? にしてはタイミングが…………

 つか、友人たち(・・・・)――行動力の化身(ハルト)変態プログラマー(レイ)、教授のもとにもあいつの仲間が行ったってことか?


 ――そんなことを考えながら僕の無意識は後ろを向くことをひたすらに拒否していた。


 でも、頬を撫でる風とその音が―――


 いつの間にかへたりこんでいたからか手に感じる草の感触と匂いが――


 かすかに聞こえる建築現場の音と光が――


 同じくかすかに聞こえる車が走る音が――


 否応なく僕の嗅覚を刺激する血の匂い(・・・・)が――


 首から多量の血を流し、二度と生体由来の電流が走ることのない肉の塊が――


 僕に『目の前で起きていることはすべて現実だ』と雄弁に物語っていた。

 ――僕は胃の中にあるものを思いっきり吐き出した。


 ――その現実は、日常に、平和にまどろんでいた僕にはあまりにも重すぎた。


 眠気に近い感覚が体を包んでいく。


 ――薄れゆく意識の中、彼の言葉を心の中で何度も反芻した。

 そしてこう思った。


 どうしてこうなった。


 僕は、僕たちは、夢を追っていたはずだ。


 ――あぁ…………全く…………

 本当に、どうしてこうなってしまったんだ。

 




 かつて日本に存在していた『自衛隊』なる戦力は2020年台の憲法改正によって完全に消滅した。


 そのかわりに生まれたのが『日本軍』。


 しかし旧日本軍と違い、陸海空とは別の軍、コンピュータやAI、ネットワークが今ほど普及・発達してなければ軍として独立してなかったであろうもの。かつての日本では大きく欠けていた(であろうもの)を補完するために陸自にいたサイバー部隊と統合した存在。

 それが僕たちを『保護』した『日本情報軍』である。


 情報軍の仕事は人を用いた諜報活動『ヒューミント』やコンピュータを用いた諜報活動『シギント』、対AI戦含めたサイバー戦とかを担当していたはず。

 軍オタの友人曰く『現代はサイバー戦・情報軍がブーム』なんだそうだ。

 実際、情報系の軍を保有してる国はアメリカを始めとするコンピュータ産業が強い先進国を中心に増えている。無論、その中には中国・韓国・日本も含まれている。

 設立前、情報軍に懐疑の声が上がっていたが、中国を含む『日本と仲が大変よろしくない国』からのクラッキング・DoS(サービス拒否)攻撃などといったサイバー攻撃がひどく、当時陸自に組み込まれていたサイバー部隊の規模や設備では到底さばききれないケースが多くなり、陸海空軍と同じ規模と言わないまでも設立を望む声が日増しに大きくなっていった。

 その結果、情報軍の本格的な設立が決定され今日に至ったのだそうだ。


「――やぁ、気がついたかい? お茶でもいかがかな?」


 ――話を戻そう。


 窮地を脱し海辺の公園で気絶した僕はその後情報軍の大尉に移送された。

 場所はわからない。

 情報が必要だ。僕たちには彼らから事情を聞かないといけない。

 お茶を淹れるから少し待っていてくれと大尉を名乗る男が出ていくと、見慣れた行動力の化身が交代するように部屋に入ってきた


「よォ、生きていたか相棒」

「ハルト! やっぱりお前も……」

「あぁ。いきなり中国人が研究室に入ってきて銃突きつけながら一緒に来いって言われたときはビビったぜ――お前顔色悪いぞ。何があったんだ」

「脅され、殺されかけた」

「……誰に?」

「同じ中国の人間。いささか荒すぎるヘッドハンティングだったよ………ハハ………」

 乾いた笑いしか出てこない。

 冗談混じりで気を紛らわすことはできないと悟った僕は素直に事の顛末をハルトに話した。

「そりゃぁ……災難だったな……」

「お前もな……」

「まさかフォーラムだけじゃなく中国の耳にも届いていたなんてな。驚きだ」

「んで、他のみんなは?」

「教授と変態レイは別室で落ち着くのを待ってるんだそうだ。そりゃムリも無いよな。いきなり中国軍でござい、情報軍でございってきたんだから」

「――僕たち、一体どうなるんだよ……中国の人間に殺されかけるし」

「まぁ、こういうのは詳しい人間に聞くのが一番じゃないか? 餅は餅屋。だろ?」

「………だな」


 程なくして大尉が戻ってきた。教授たちも一緒だった。

 ――さて、どこから話したものか

 と大尉はぼやいたあと、語り始めた。


 僕たちの研究がどれほどのものなのかを――

 

 人間の歴史は闘争の歴史である。

 病との闘争

 環境との闘争

 動物との闘争

 そして何より――


 人間同士の闘争


 そう、僕ら人間の歴史は戦争無しで語ることは不可能だ。


 そして戦争の歴史も科学なしで語ることはできない。

 火薬の発明で、てつはうが生まれやがて爆弾となり、またそれを用いた精密機械―銃―が騎士の歴史を終わらせた。


 時の流れと技術の発達は無情である。


 同時に科学技術の発達は情報も変化させた。

 狼煙が時が経つにつれモールス信号となり、無線となりパソコン通信となりインターネットへと拡大し、発達し、濃密になっていった。

 そしてその情報伝達の最前線を切り開くのが僕たちの研究なのだそうだ。


「――イマイチ実感湧かねェ……」

「おぉ、このお茶はいいやつじゃないか! さすがは軍。君たちも飲みたまえ!」

「どら焼きありません?」

「おいハルト………この二人は参ってたんじゃなかったのか」

「二人がタフネスすぎるのが悪い。俺に文句言うんじゃねぇ」

「…………いいかな?」

 大尉は苦笑交じりに話を続けた。


 情報が戦況そして戦争そのものに関わるのはよくあることだ。

 ある情報がなければ戦争を仕掛けられないし、また別の情報がなければ重要な作戦に失敗する、ある情報によって国民がデマに扇動され困ったことになる。


 今も昔も情報を疎かにすることはできないものだ。




『情報化兵士』という概念がある。

 またの名を『将来歩兵システム』。日本では『先進個人装備システム(ACIES)』と呼ばれるもの。

 簡単に言うと、歩兵にいろんな機材とかセンサーを付け、兵士の体調、生死、エトセトラ、ありとあらゆる生体情報やその他諸々の情報を捌き、活かし、兵士に最大限のフィードバックをすることで兵士の戦闘能力の増強、生存性の向上などといった戦場における優位性を得ようとする試みである。

 では、それは成功したのか?


 答えはノーだ。


 そりゃそうだ。馬鹿みたいにいろんなセンサーを付け、それらの情報を捌き、活かし、フィードバックするための処理装置やHM(ヘッドマウンテッド)D(・ディスプレイ)のような出力装置をつけたとして、電源はどうするのか?

 活動時間は? 当然、重量増加も避けられない。重量増加による機動力低下を防ぐためにはパワーアシスト機能を持った何かが必要で、同時にそのエネルギー源も必要となる。で、その分のバッテリーが………


 ロケットが抱えている根本的な問題と同じことだ。


 まずロケットを飛ばすには燃料がいる。当然だ。


 かと言ってたくさん積んだらその分重くなって飛ばすのに苦労することになるし、最悪飛ばないという本末転倒の結果で終わる。


 まただからといって燃料の量をケチると、軽くはなるだろうが、目標の高度に達する前に途中で落っこちるだろう。


 このバランスを求めるために『ツィオルコフスキーの公式』というものがあるのだが、これはまた別の話だ。


 とにかくバランスをとることが難しい。

 はっきり言って無茶なのである―現時点では―


 そんな袋小路に陥り、死にかけていた将来歩兵システムに救世主が現れた。

 センサーやHMDの機能を集約しつつ、それらを駆動させるための重いバッテリーを必要としない次世代型デバイス。

 それが今僕たちが作っているモノなのである


 では、そんなコロンブスの卵が完成され、軍に導入されるのを黙って指を加えて見ていられる国・軍・組織がいるだろうか?

 いるわけがない。

 もし仮にいるとしたら、ただの無能か、平和ボケしてる連中、甘く見ている連中ぐらいだろう。


 ――だから僕は命を狙われた。


 こちらの国(中国)に来るよう強請された。


 新たに作られた技術が戦争に軍事に使われるのは宿命だ。


 しかもそれは決して逃れるものではない。


 ――炭鉱用に発明されたダイナマイトが戦争に使われたように。


 ――飛行船が戦争に使われたように。


 ――ライト兄弟が作った飛行機が一次大戦に使われ、今の戦闘機・爆撃機となったように。


 ――ロケットがVロケットとなってロンドンを火の海にし、後に核を積んだ大陸間弾道ミサイル(ICBM)となり、冷戦の中心になったように。


 ――(ライカ)を載せた人工衛星と世紀の天才物理学者(アインシュタイン)が構築した理論が位置を正確に把握するための全地球測位システム(G P S)となったように。


 ――コンピュータが元々砲弾の弾道計算や虐殺したユダヤ人を数えるために作られたように。


 僕たちが作り上げているモノも例外ではなかったということだ。




 

 ――弟を亡くした悲しみからダイナマイトを作ったはいいが、戦争に転用されたことを知ったノーベルもこんな気分だったのだろうか。




「――それで、僕たちは何を」

「無論、今まで通り開発を進めて欲しい」

「もちろん、ただ進めろってわけじゃないんでしょ」

「その通りだ。まず、この研究はしばらく機密指定とする。この件でわかっただろ? この技術・デバイスを喉から手が出る程欲しがる連中はごまんといる」

「いつまでーってのはあるんですか?」

「そうだな……具体的には兵士に導入し、慣れるまで……といったところかな」

「あの………大尉。一つ約束してください」

「なんだい?」

「あなた達が僕たちの研究を戦争に使うのは構いません。機密指定にするのも構いません。それでも世界中の誰もとは言わないけれど、必要としてる人たちにも使えるようにしてあげてください」

「……わかった。約束しよう」



 ――これで僕たちの研究はしばしの間、闇へと消え、いろんなことが抹消されるだろう(実際抹消された。一昔前に『スパイ天国』と揶揄されていた時代が嘘のようだ)。

 ただ、いいこともあった。


 潤沢な資金・最高の設備の提供だ。


 レイは軍のコンピュータ・AIが触れるといって大はしゃぎしていた。

 しかも驚いた事に、コンピュータ界で話題となっている大規模強性(L-S)汎用人工知能(AGI)(今までのスパコン以上の莫大な計算資源や強力な処理能力を有した物凄いコンピュータにいろんな場面で使える人工知能―俗に言う『強いAI(AGI)』―を載せたものと思ってもらえればいい)の軍用版の設計・建造の指揮をしているそうだ。しかもその一部を新しいスパコンとしてうちの大学に置くと言っていた。

 さすがに詳しいことは『機密だから』と教えてもらえなかったが、かの『富岳』や中国やインドのスパコンも真っ青の性能を有していると自慢気に語っていた。


 ハルトや僕は被験者からいろんな要望・不満点を聞き、フィードバックしていくように努めている。




 研究を進めるうちに時は流れて行く。

 例の少女の病状は今の所安定しているとのことだそうだ。

 この間、当然僕たちに休む暇はない。


 扱いやすいUI(インターフェース)のデザイン、操作マニュアル、互換性、信頼性の確保。最適化、環境の構築、ソフトの作成、その他たくさん。


 とにかくやることが多い。

 だけど今にはじまったことじゃない。


 だから僕らはいつものように精一杯頑張るだけだ。


「さて、今日もやろうか!」

「「おう!」」

 





 ――2年と6カ月後


 ようやく様々な調整が終わり、たくさんの過酷な試験が成功に終わった。

 軍に認められたということは信頼性や確実性・安全性が確保されているということだ。

 そして法も変わりつつある。


 ――そして今、僕は大学院の研究室にいる。


「ヘイ、Siri。最後にここに来てから何年立つ?」

〈――2年と6ヶ月です〉

「ここに戻るのも2年と6ヶ月ぶりかー」


 目の前にはステンレス製のトレイがあり、中には樹脂製の銃みたいな形をした物が置かれている。それには液体が入った最近普及しつつあるCNT複合素材(CCS)で補強され、圧縮空気が入ったボンベと一体化したガラス製の容器(アンプル)がセットされている。


 圧縮空気による圧力を利用した『ジェット・インジェクター』と呼ばれる針を用いない注射器である。


 アンプルの中には『次世代型VRデバイス』改め『ホロスフィア』を構成するためのナノマシンがたっぷりと詰まっている。

 これを打ち込んだら、ナノマシンが自動で脳へ向かい、血液脳関門を突破し、第3脳室を中心に脳に根を張り、ホロソフィアが構成され、僕の脳はインターネットに繋がるだろう。


 僕は注射器を手に取り、深呼吸をして呼吸を整える。


 そして覚悟を決め、注射器をぐっと首に押し当て、トリガーを引いた――




 30~40分経ったあと、僕は情報軍の護衛付きで例の少女がいる病院に車で向かった。


「あの……博士」

「『博士』って、まだ博士号を取ったわけじゃないんだからやめてくれ。普通にレンでいいよ」

 護衛についたのは実験・開発で親しくなった同い年の情報軍の兵士だ。

「すいませんレンさん。でも仲間たちはみんなレンさんたちのことを博士って呼んでますよ。レイさんなんてすごいもの作っちゃいましたし。ところでそのでっかいPCは一体……?」

 僕はいま後部座席に座っているが、その隣の席にはそのでっかいタワー型PCの他にキーボードやその他の機材がたくさん置かれた箱が置かれている。

「仮想世界構築用としてレイと僕で作ったんだ。とびっきり高性能なCPUにグラボ、マザボにクーラーにエトセトラ。いくらかかったかわかんないや」

「それはまた……」

 護衛と談笑しながら病院への道中を走る。

 まさか軍人と仲良くなるとは思いすらしなかった。例の襲撃といい、やっぱり人生何があるかわからないものだ。

「――ホロスフィアのナノマシン、定着しましたか?」

「あぁ、ちょっと待ってくれ。ホロプロを射すのを忘れてた……」

 そう言って僕は目の周りにクリームを塗ったあと、ホロプロの形成液を点眼した。

『ホロニック・プロジェクター(ホロプロ)』とはホロスフィアを作る際、オマケもとい出力用デバイスとして作った、ナノディスプレイを応用したコンタクトレンズもしくは目薬として目につけるタイプの複合現実(MR)デバイスだ。

 今使ったのは点眼型。

「コンタクトレンズ型のやつもあったでしょ? 使わないんですか?」

「あいにく、僕はコンタクトレンズが苦手なんだ」

 生体電流で液の分子配列が整理され角膜を覆うディスプレイとして固着される。塗ったクリームは絶縁体なので、そこにディスプレイが形成されることはない。

 程なくして僕の視界に一連の文字列や数字などといったベンチマークの舞いが現れ、OS『ホロン』のアイコンが現れた。

 そしてホロスフィアとのリンクが自動で確立され、各種情報が映し出される。

「……おっ出てきた出てきた。………スマートグラス無しで視界に情報が出てくる感覚は慣れるのに時間がかかりそうだな……」

 とぼやきながらハンカチで目の周りを拭った。

「わかります。でも慣れたら結構便利ですよ」

「そんなのわかってるよ。僕をなんだと思ってるんだ」

 そう言ったらなんだか可笑しくなって二人で思いっきり笑った。

 何から何まで久しぶりだ。




 そんなこんなで病院に着いた。

 護衛曰く、教授やハルト、レイ達がもう着いているのだそうだ。

「全く……」

 苦笑しつつ台車にPCとかを入れた箱を載せゴロゴロ鳴らしながら病室へ向かう。

「私が押しますよ」

「いや、いいんだ」


 ――今思えばいろんな事があった。

 ハルトの発案からこの研究が始まり、試行錯誤を繰り返し、中国の刺客に狙われてなんやかんやで今に至る。

 当然のことながら平坦ではなかった。

 というか、普通の研究でもこんな事にはならんぞ。


 それもようやく報われるときが来た――のかもしれない。


 例の少女がいる病室に入るとそこにはハルトやレイの他に病院に属してる友人、教授、少女の親や祖母祖父、そしてホロスフィア導入を許可した政府の人間達がいた。

 挨拶を終え、ホロソフィアがらみの説明一通りを行ったあと親からの承諾をもらい、契約書のサインも貰った。


 少女にホロソフィアのナノマシンを注入し、定着するまでの間にレイが例のコンピュータを床に置き、仮想空間の構築を行う。

 その間僕は箱から頭を覆うような形をしたヘッドセットを2つ取り出し、一つを彼女に装着させ、ケーブルを介してコンピュータに接続する。ホロソフィアの電波を送受信するためにNFCを利用して作った特製品だ。無論、どこぞの小説みたいに強力なマイクロ波で脳を焼き切ることはない。

 そしてもうひとつのヘッドセットにもケーブルを接続したあと、頭にかぶり、あご紐のアタッチメントをカチリと付け、窓際にあるもう一つのベッドに寝っ転がった。


「――定着率は?」

「75%を突破した。もうすぐだ」

「とは言ってもセッティングとかに時間がかかるからそんなに焦るなってレン。ほれ、パンケーキとコーヒーだ。ゆっくり食え」

「さんきゅ」


 親たちが不安と期待を混ぜた不思議な目で少女やレイ、ハルトそして僕を見ている。


 そうこうしてるうちにすべての準備が整った。


「準備はいいか、レン?」

「大丈夫だ、問題ない」

「10カウントでやるぞ。いいな?」

「OK」

「んじゃ、行くぞ―カウントスタート。10、9、8――」


 ヘッドセットのバイザーを下げ、時が来るのを待つ。


「7」


 これからやるのは『VRデバイスとして(・・・・・・・・・)』のホロスフィアの実証試験だ。


「6」


 統合型MRデバイスとしてそれも軍用品のホロスフィアは成功したが………


「5」


 ――不安と期待が胸の中を満たしていく。


「4」


 初めてMRIに入ったときのような恐怖心が湧く。あのときはあまりの恐怖で泣きわめいたものだ。祖父に話したら『わしなら眠り込むわい』と一笑に付されてしまったが。

 今から入る仮想空間はHMDを使ったものとは全く違う。本当の仮想世界だ。


「3」


 心拍数が上がっていく


「2」


 ――必死に抑えようと試みる


「レディ」


 ――覚悟を・決意を抱いた


「――ダイブ・スタート」


 ――刹那、体の感覚が消えた―――――

 

『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』


 川端康成の小説『雪国』の冒頭文である。

 小説の世界を一文で表したとしてかなり有名な文だ。

 読んだことない人でも一度くらいは見たこと・聞いたことはあるだろう。


 何故この文を挙げたかと言うと、僕が仮想世界にダイブしたとき、この文が頭をよぎったからだ。もっとも、その仮想世界は雪国なんぞではなく文字通りの草原だったが。

 アバターは僕の現実の姿と変わらない。レイがうまく配慮してくれたようだ。


 なにはともあれ僕と彼女は真の仮想世界に入ったはじめての人間となった。


〈おーい、聞こえるかレン?〉

「レイか? 聞こえるぞ」

〈良かった良かった。異世界転生もといダイブ成功おめでとう〉

「さんきゅ。で、彼女は?」

〈ここから真っすぐ行ったところに薔薇園があって、そこにいる。急ぐ必要はない。人生初・世界初の仮想世界を楽しんでこい〉

「あいよ」


 早速僕は薔薇園へと向け歩を進めることにした。


 風や風に揺られた草の音、歩く音――


 なるほど、これが仮想世界かと実感しながら歩いていく。

 ネットでよく見る異世界ものの主人公もこんな気分なのだろうか。

 箱の中の異世界でも抱く気持ちや感想は同じなのかもしれない。




 ――やがて彼女の姿が目に入った。


 


 ――彼女は薔薇の園で踊っていた。


 その顔はとてもとても嬉しそうで、僕は自分の本来いたセカイを忘れかけた――





 ――僕たちが人間である以上、いろんな争いが起こり、そこにいろんな技術が絡んでくるだろう。


 いつの世だって変わらない。


 自分達が作った技術が戦争に関わるのは悲しいことだ。

 どんな形で世界を変えるのかもわからない


 でも彼女の楽しそうな姿は、そんな杞憂を吹き飛ばし、未来に希望を感じさせるほど美しかった。





 僕は決意と希望を抱き、彼女に向かって力強く歩き始めた。



 ナノマシンやホロスフィアとホロプロがもたらすかもしれない明るい未来に思いを馳せながら――





 ――2040年6月9日、僕たちの真の仮想世界へのアプローチ(挑戦)は無事、成功した――

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