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2019春節企画『猪は走るべきか』

作者: 野田莉帆
掲載日:2019/02/04

 駅裏の、古びた雑居ビルの2階。

 年季の入った小さなエレベーターの自動扉が開く。

 1歩を踏み出すと、昔ながらの居酒屋に繋がった。


 懐かしい香りが広がる。

 時間の巻き戻ったような感じがある。

 何だか切なくて、一瞬だけ家に帰りたくなった。

 でも、今日は帰れない。


 いらっしゃいませ、と。

 作務衣を着た店員が、明るい声で迎えてくれた。

 かわいらしい笑顔……。

 

 意に反して、ふつふつと私の中に醜い感情が沸く。

 同じ女性としての、嫉妬心の現れだった。


 ——人生ベリーイージーモードって顔だなぁ。


 青々と繁った隣の芝生が、羨ましくなるなんて。

 今日の私は絶不調かもしれない。

 アイボリーのコートを脱ぎながら、そう思った。


 こぢんまりとした店内は質素なカウンター席のみ。

 正面に壁がある1番手前の席を選んでみたものの。


 安らぐ空間を間借りしているような気持ちがした。

 ちょっとだけ落ち着かない。

 出入り口に近いこともあって、底冷えがする。

 おしぼりで手を温めて、ひとまず熱燗を注文した。


 店員が離れてから、心の中で重たい溜め息をつく。

 でも、思考は何も続かない。

 待つほどもなく、お通しと徳利が机上に置かれた。


 定番の白磁。

 お猪口の底に、藍色の蛇の目模様が描かれている。

 見開かれた瞳の中心は乾ききっていた。

 目薬を点すようにして、無色透明な清酒を注ぐ。


 耳に心地の良い音がした。

 ほんのりと湯気が立ちのぼる。

 細かな気泡が表面で消えていく。


 揺らいでいた瞳の色が潤って、濃くなる。

 奥行きのある表情は凛として、澄んでいく。


 両手で囲った杯を私は、ゆっくりと傾けた。

 シャープな香りを含む、まろやかな味わいが深い。

 渦巻く想いを丸めて、沈ませるような甘みがある。


 だから。

 だからこそ、急に目頭が熱くなった。

 鼻の奥が、つーんとする。

 喉が詰まる。


 歯を無意識のうちに食いしばっていた。

 こめかみが、じんじんと痛む。

 ぎゅっと拳を握った。


 ——自分は、いったい何をしているのだろう。


 例えてみると。

 ただ、坂の上を転がるような恋だった。

 ブレーキも効かず、曲がることもできない。


 まるで猪突猛進。

 一直線にスピードが増していく。

 いや、自分の足で走るだけ猪の方が遥かにマシだ。


 ごろん、ごろん。転がり続けて傷だらけ。

 挙げ句の果てに、泥にまみれて砂を噛んだ。

 それでも2番めでいいと言ったのは、どの口かな?


 夜の闇に紛れて、必死に自分の目を探す。

 止まない雨の中で熱燗に口をつけた。

 あぶくをすするだけだった私は、もういない。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 凄く情景描写が洗練されていて、この居酒屋にいるような気持ちにさせてくれました。居酒屋は好きなので、こういうお話は好きです。 [一言] 主人公のなんだか疲れた心が伝わってくるような感じで、不…
[良い点] 渦巻く想いを丸めて、沈ませるような甘みがある。素敵な表現ですね。勉強します。
2019/09/24 04:06 退会済み
管理
[良い点] 猪突猛進というテーマに、悲恋を持ってくるセンスがすごいと思いました。 シンプルならが美しい表現と、スラスラと頭の中に入ってくる文章。素晴らしいです。 [一言] 京都にある高級料亭のお吸い…
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