2019春節企画『猪は走るべきか』
駅裏の、古びた雑居ビルの2階。
年季の入った小さなエレベーターの自動扉が開く。
1歩を踏み出すと、昔ながらの居酒屋に繋がった。
懐かしい香りが広がる。
時間の巻き戻ったような感じがある。
何だか切なくて、一瞬だけ家に帰りたくなった。
でも、今日は帰れない。
いらっしゃいませ、と。
作務衣を着た店員が、明るい声で迎えてくれた。
かわいらしい笑顔……。
意に反して、ふつふつと私の中に醜い感情が沸く。
同じ女性としての、嫉妬心の現れだった。
——人生ベリーイージーモードって顔だなぁ。
青々と繁った隣の芝生が、羨ましくなるなんて。
今日の私は絶不調かもしれない。
アイボリーのコートを脱ぎながら、そう思った。
こぢんまりとした店内は質素なカウンター席のみ。
正面に壁がある1番手前の席を選んでみたものの。
安らぐ空間を間借りしているような気持ちがした。
ちょっとだけ落ち着かない。
出入り口に近いこともあって、底冷えがする。
おしぼりで手を温めて、ひとまず熱燗を注文した。
店員が離れてから、心の中で重たい溜め息をつく。
でも、思考は何も続かない。
待つほどもなく、お通しと徳利が机上に置かれた。
定番の白磁。
お猪口の底に、藍色の蛇の目模様が描かれている。
見開かれた瞳の中心は乾ききっていた。
目薬を点すようにして、無色透明な清酒を注ぐ。
耳に心地の良い音がした。
ほんのりと湯気が立ちのぼる。
細かな気泡が表面で消えていく。
揺らいでいた瞳の色が潤って、濃くなる。
奥行きのある表情は凛として、澄んでいく。
両手で囲った杯を私は、ゆっくりと傾けた。
シャープな香りを含む、まろやかな味わいが深い。
渦巻く想いを丸めて、沈ませるような甘みがある。
だから。
だからこそ、急に目頭が熱くなった。
鼻の奥が、つーんとする。
喉が詰まる。
歯を無意識のうちに食いしばっていた。
こめかみが、じんじんと痛む。
ぎゅっと拳を握った。
——自分は、いったい何をしているのだろう。
例えてみると。
ただ、坂の上を転がるような恋だった。
ブレーキも効かず、曲がることもできない。
まるで猪突猛進。
一直線にスピードが増していく。
いや、自分の足で走るだけ猪の方が遥かにマシだ。
ごろん、ごろん。転がり続けて傷だらけ。
挙げ句の果てに、泥にまみれて砂を噛んだ。
それでも2番めでいいと言ったのは、どの口かな?
夜の闇に紛れて、必死に自分の目を探す。
止まない雨の中で熱燗に口をつけた。
あぶくをすするだけだった私は、もういない。