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『ベアトリーチェ・ロッドの初恋』

 愛する人から「身長が低いから貴方とは結婚は出来ない」なんて言われたら、もうこの世の終わりというくらい、絶望的な気持ちになる。



「ふ……ふふふ……」

「お客さん、飲み過ぎだよ」

「ふ、ふふふふ……あはははははは!」


 ドン! と空のジョッキを机に叩きつけた声のは、まだ十歳にも満たない程体の小さな少年だった。


「もう……私なんて、どうでもいいんですよ」

 茶色の髪に黄緑の瞳。

 奇妙な笑い声を上げた後、机に突っ伏して小さな低い声で呟く。その声はまだ幼く、子どもが無理やり低く話しているかのようだった。


「一体どうしたんだ?」

 そんな彼の後ろから、精悍な顔つきの青年が尋ねた。

 くすんだ金色の髪に赤い瞳。

 少年と同じ白地に金色の装飾の服を着た男は、自分も酒を注文すると少年の隣に座った。


「――『身長が』」

「ん?」

「『身長が小さいから、貴方とは結婚できない』だそうです」

 少年はゆらりと体をゆらして顔を上げた。顔は酔って赤くなっている。


「私だって、好きでこんな体じゃありませんよ!」

 これが飲まずにいられようか。


「まあお前の気持ちはわからんでもないが、お前の体が小さいのは変えようのない事実だからその子の言い分もわからんでもないな」

 青年はそう言うと、自分もマイペースにぐびぐび酒を飲み始めた。


「『地剣』殿!」

 そんな二人の元へ、息を切らした髪の長い男が、息を荒げて店内に入って来た。

「こんなところで大酒を食らわないでください!」

「嫌です!! 私はもう今日一日ここで過ごします!! あははははは今日はもう記憶がなくなるまで飲みますよ」

 男の言葉に対し、子どものような外見をした彼は笑い声を上げた。

「外見だけでなく中身も子どもみたいなことを言わないでください!」

 しかし男が放ったその言葉には、子どもはピクリと反応して怖い顔をした。酔っ払いが怒っている。

「――今、何と言いました?」

 底冷えするような低い声。

「まあ、落ち着けよ。ベアトリーチェ。感情的になると更に子供っぽく見えるぞ」

 そんな彼を、隣で飲んでいた青年は宥めつつ地雷を踏んだ。

「私は、子どもではありません!!!!」

 子どもの怒号は酒場の中だけでなく、店の外まで響いた。


 クリスタロス王国騎士団所属。 

 ベアトリーチェ・ライゼン。一六歳。

 魔法適性は地属性。

 年齢の割に身長は一〇歳にも満たない程度しかなくずいぶんと幼く見える。

 それは彼の特殊な魔力のせいだ。

 この世界における魔法とは、魂に宿るという器と回復力で決まる。

 器の大きさはおよそ一五歳で確定すると言われており、その器は前世から引き継がれる魂により決まるという説もある。

 通常、器から魔力を溢れさせるような人間はいないが、彼は器よりも明らかに回復力があるせいで、溢れ出した魔力の影響でかなり成長が遅く体が小さい。

 若干一〇歳で騎士団の入団試験に合格した天才は、『地剣』という二つ名を与えられており、彼をその名で呼ぶのは今年入団した新しい騎士だ。

 メイジス・アンクロット。二九歳。魔法適性は光と水。

 一三歳差の二人だが、メイジスは新米でベアトリーチェが彼の教育係……の、筈なのだが。


「『地剣』殿!」

 メイジスがベアトリーチェの下に配属されてからずっと、彼は自分の教育係を探し回る日々を送っていた。

 しかも、職務時間中に。

「職務中に飲むのはやめてください!」

「……お断りします」

 昨日に続き今日もだ。

 メイジスは怒っていた。目の前のベアトリーチェの行動は、国の為に剣をとる騎士の行動とはとても思えない。


「これまで真面目に生きてきたんです。自分なりに。そんな自分を、やっと受け入れてくれる人に出会ったと思ったのに……! こんなの、あんまりじゃないですか」

 小さな子供が、酒を片手にうっうっと泣くの図。

 シュールだ。メイジスはちょっと困る。

 子どもに甘い彼は、目の前の上司がすでに一六歳というのは分かってはいたが、どうも心がついていかなかった。

「飲み過ぎだぞ」

「……団長」

 そんなベアトリーチェに、昨日も隣に座っていた青年が困った子どもを叱るように声を掛けた。


 ローゼンティッヒ・フォンカート。

 クリスタロス王国騎士団の団長である彼は、幼いベアトリーチェが入団した当初から、兄のような存在だ。


「そうやってダダこねてると余計子どもっぽくて彼女の一人も出来ないぞ」

「いいんです。……私はもうずっと子の初恋を抱えて生きていきます」

「失恋した初恋を抱えて生きてくのか? お前面白い趣味してるな」

「……!」

 ベアトリーチェの動きが止まる。

 失恋、初恋。今、このワードはベアトリーチェには禁句だ。

 自分で言うのはいいにしても、他人から言われるのは嫌らしい。めんどくさい小さな酔っぱらいは半泣きになっていた。

「団長……『地剣』殿をいじめないでください」

 その光景を見ていたメイジスは、はあと溜息を吐いた。

「ちびっこいから弟みたいでからかいたくなるんだよな~~。普段すましてるだけに、こう、弱ってる姿を見ると余計に?」

「いじめっ子ですか……?」

 メイジスは子供じみたことを言う上司に、明らかな不快感を示した。


「俺は団員を大事に思ってるぞ? そりゃあもう、家族のように。ちなみにこいつは弟」

「弟さん、振られてやけ酒中なんですから、頭を回すのはやめてあげてください」

「いやー。ちょうどいい高さにあるから。肘おきの」

 ローゼンティッヒはケラケラ笑う。

 その様子は、子どもに絡んで苛める悪い大人にしか見えない。メイジスは思わず叫んでした。

「『地剣』殿は、肘おきではありません!!!!」

 そもそもベアトリーチェが一六歳であるといっても、メイジスからすれば一三も下の少年なのだ。その相手に団長であるローゼンティッヒが、非道な行いをするのは許されない。

 ローゼンティッヒと長い付き合いのベアトリーチェからすれば、今日のようなことはよくあることで、本人はさして気にしていなかったが、年下に甘く過保護なメイジスはそれが許せなかった。

 呑み続けるベアトリーチェを挟んでぎゃあぎゃあ話していたら、突然動きを止めたベアトリーチェがら下を向いてうっとうめいた。


「……気持ち悪い」

「え」

 固まるメイジス。

「おいおい。ここで吐くなよ~?」

 隣に座っているローゼンティッヒは、まるで他人事だった。

「何冷静に注意してるんですか団長!!! ……って、ああもう!!! 『地剣』殿!」

 二人の関係が掴めない。

 巻き込まれた新人騎士メイジス・アンクロットは、年下の自分の教育係を抱えて慌てて外へ出た。



「……飲み過ぎですよ」

 ベアトリーチェが目を覚ますと、風のそよぐ『春の丘』と呼ばれる場所だった。

 彼が新緑の瞳を開くと、彼の周りの植物は、他の場所よりも少し成長してしまっていた。

 酒を暫く飲んだ後、具合が悪くなった後の記憶が無い……。

 ベアトリーチェは頭を押さえつつ、ゆっくりと起き上がった。

 二日酔いの、いつもならするはずの頭痛が無い事に気が付いて首を傾げる。


「自分は弱いですが、一応水魔法と光魔法が使えるんです」

 メイジスはそう言うと、ベアトリーチェに微笑んだ。

 光属性に適性がある人間は治癒が使える。

 ベアトリーチェはメイジスが、自分が眠っている間に光魔法をかけてくれていたと気付いて、少し驚いた。

 光魔法は他の魔法より多く魔力を消費するため、仕事でない限り、他人に使いたがる人間は少ないからだ。


「本当に、貴方には驚かされることばかりです」

 メイジスはベアトリーチェの考えは他所に、空を見上げて溜息を吐いた。

「平民出身の私のような人間からしたら、【神の祝福】を受けた貴方は憧れのような存在だったのに。まさかこんな方とは」

「……平民出身で魔法が使えるなら、貴方だって祝福を受けたものの筈です」

「私などは、とても」

 この世界で、魔法を使える人間の多くは貴族だ。

 普通平民に魔力を持つ者は生まれない。

 平民で魔力を持つ者は、【神の祝福】を受けた人間であるとされる。


「私、実は一年前に妻を亡くしたのです」

 ベアトリーチェの言葉に、メイジスはそう返した。

「目の前で、事故にあって。私が魔法を使えるようになったのは、それからなので」

「……申し訳ありません」

 悲し気な彼の声に、ベアトリーチェは謝罪した。

 失言だ。

 魔法が使える人間には二つのパターンがある。

先天的か、後天的か。

 先天的の場合血によるものが大きいが、後天的の場合、主な原因とされるのは愛する人間の死だ。

 魔法は、何か大きなショックを受けた人間に稀に発現することがある。

 魔法は心から生まれる。

 この世界で今は常識とされるこの言葉は、元々後天的に魔法を使えるようになった人間をさして使われた言葉だ。

「い、いえ! 『地剣』殿が謝られることではありませんよ。だいたいこんな話を始めたのは私の方ですし。突然身の上話をしてしまい申し訳ありません」

 頭を下げる年下の上司に、メイジス・アンクロットは慌てて謝罪した。



「そもそも、どうしてあのように飲んでいらしたのです? 職務中に……。私が人から聞いていた『地剣』殿は、とてもこのようなことをする方とは思えなかったのですが」

「……実はここ数年、とある女性と交際させていただいていたつもりだったのですが、いざ求婚すると思いっきり振られただけです」

 光魔法をかけてくれたメイジスの問いを無視するわけにもいかず、ベアトリーチェはぽつりぽつり語り出した。


「確かに今の自分は、借金返済中の身ではありますが……。いずれは立派に返済して家を建て、そこで幸せな家庭を築きたいと……」

 ベアトリーチェは、多額の借金を抱えている。

 彼は生まれた時呼吸をしておらず、両親は神殿で彼を蘇生させた。

 本来であれば平民の子である彼が、王族のみに許される高度な光魔法をかけてもらうなどとても許されないが、ベアトリーチェは神殿で当時の最高位だった『光の巫女』に『国の未来を変える者』と予言され、特別に蘇生を許された。


 彼は異常に魔力の回復が速く、地属性という魔法の適性もあってか、周りの植物を異常成長させる一方で、彼自身の成長はとても遅い。

【神に祝福された子ども】

 何でも千年前も同じような子どもが居たという記録があるらしく、彼の様な人間は千年に一度という頻度で生まれ、千年以上生きるというのが普通らしい。

 そんな特別な彼ではあるが、彼自身はまだ国家に何も貢献していない一平民に過ぎず、光魔法の治療費の返済に追われている。

 光魔法はとても便利で、一日以内の傷であれば腕を繋ぐことも可能というまさに魔法の様な治療が可能だが、それを行える光魔法の使い手は基本的に神殿に勤めており、その治療費は目が飛び出るほど高い。


 予言のこともあり、ベアトリーチェの治療費は特別に後納が許されてはいるが、毎月かなりの額の返済が求められるため、今のところ借金に追われる日々だ。

 しかし、頑張って返せば返せない額ではない。

 それに彼は今、その魔力を生かして賃金の高い仕事を二つ行っている。

 『変わり者のロッド伯爵』

 そう呼ばれる伯爵の医学・薬学と魔法を組み合わせた新しい治療方法の研究の手伝いと、騎士団の騎士としての仕事だ。

 おかげで休みはほぼないが、借金返済まではそれも我慢しようと彼は考えていた。

 いずれ全ての借金を返済し終えたら、ささやかながら幸せな家庭を築いて、家を買って愛する人と暮らすのだ。

 彼の夢は昔から、彼に与えられた肩書に比べてとても庶民的だった。


「……なんで震えているんですか」

 その夢を、ベアトリーチェが目をきらきらさせて語っていると、話を聞いていたメイジスが体を震わせていた。

「『地剣』殿の夢があまりに可愛らしかったので」

 返ってきた返事に、ベアトリーチェは不快感を示した。

「ふざけたことを言わないでください。男に可愛いと言われても虫唾が走ります」

「いえ、なんというか。貴方は見た目が子どもっぽいので、小さな子が夢を語るみたいで可愛いなあと」

 メイジスはしみじみと語る。

 まるで子供を見守る親のような目で見つめられ、ベアトリーチェは憤慨した。

「私は!!! これでも!!! 一六です!!!!」



「にーに!!」

「ただいま、アルフレッド」

「母さん、父さん。ただいま」

「お帰りなさい。ビーチェ」

 ベアトリーチェが家に帰ると、両親と最愛の弟が自分を迎えてくれて、彼は破顔した。

 可愛い。

 弟は自分と違って魔法は使えないが、小さな体で精一杯自分に好意を向けてくれる姿を見ると、連日仕事ばかりの疲れも吹き飛ぶというものだ。

 最近初恋の相手に求婚を断られ、職務中に酒場に行ってしまうことはあるけれど、その時はいつも何故か団長が隣にいるので、今のところ特に注意などはされていない。


「アルフレッド。いい子にしていましたか?」

「にーに! え! かいた!」

 アルフレッドはそう言うと、ベアトリーチェに紙を渡した。

 そこには自分と同じ髪と瞳をした謎の物体と、弟と同じ髪と瞳をした謎の物体がかかれていた。

「これは、私とアルフレッドですか?」

 腕の中の小さな弟に尋ねると、彼は大きく頷いてにっこり笑った。

 ベアトリーチェは胸をおさえた。

 可愛い。可愛すぎる。

 弟は地上に舞い降りた天使じゃないかと思ってしまう。

 もしかして弟は、魔法が使えるんじゃないかとベアトリーチェは思う。だって彼に笑いかけてもらえるだけで、自分こんなに元気になれるのだ。


「ありがとうございます。アルフレッド! 貴方は私の世界一大切な弟です」

 ぎゅううううっと抱きしめれば、小さな弟は少し苦しそうにしていた。

 慌てて手の力を緩める。

 そんなことをしていると、咳き込んでいた彼の母が、くすっと笑って彼に言った。

 ベアトリーチェは、六歳の頃から伯爵のところで働いている。

 それは母が原因でもあった。

 息子の借金を返そうと、体がさして強くないのに働きづめだった彼の母は、体調を崩してしまったのだ。

 元々自分の借金。

 母に無理をさせないためにも、ベアトリーチェは日々働いている。


「ほんと、仲良しねえ」

「……だって、アルフレッドが可愛いから」

 ベアトリーチェは、母に笑われて頬を染めた。

 一六にもなって弟をこんなに溺愛しているのはおかしなことかも知れないが、年が離れていると、なんだか庇護欲が増してしまうのだ。

 初めて弟にあった時、指を握られた瞬間、この子を命をかけても守らねばという使命感が生まれたことを、ベアトリーチェははっきり覚えている。

 その可愛い可愛い弟が、自分の為に絵を描いてくれたのだ。感激しかない。

「……額を買ってこないと」

 この絵は自分の家宝にしよう。ベアトリーチェはそう心に誓った。



 そんな幸せなベアトリーチェだったが、実は玉砕以外に頭を悩ませていることが一つある。

「君を伯爵家に迎えたい」

「にい様!」

「ジュテファーも君になついているし。何より研究を任せられるのは、君しかいない」

「……私には家族があります。それにこの子だって、将来家を継ぐことを望むかもしれない」

「君を支えたいと、そう言ってくれると私は思っているよ」

 実は、自分を六歳のころから雇ってくれているレイゼル・ロッド伯爵が、自分を養子に迎えたいと言ってくることだ。

 彼には、ベアトリーチェの弟アルフレッドと同じ年の息子ジュテファー・ロッドが居るのだが、その伯爵位を継ぐべき子息が魔法を使えない為、ベアトリーチェを後継者として養子に欲しいという話だった。


「はあ……」

 ベアトリーチェは溜め息を吐いた。

 彼の申し出は絶対に受けるつもりはないが、伯爵の気を損ねたくはない。

 愛する家族と離れるなんてごめんだし、だいたい伯爵が自分を養子に欲しい理由が嫌なのだ。

 魔法を使えないジュテファーのことを思うと、ベアトリーチェは胸が痛んだ。

 伯爵子息ジュテファー・ロッド。

 自分のことを『にい様』と呼んでくれる彼を、ベアトリーチェは少なからず思っていた。実の弟に比べたら劣るが、幼い頃から知っていて自分を慕ってくれているので可愛くはある。

 そんな彼と敵対するような未来は、絶対に嫌だった。

 だから伯爵の申し出を受けることは有り得ない。だというのに仕事で一緒になると高い確率で言われるため、ベアトリーチェは精神的に疲れていた。

 そろそろ諦めてくれないものか。



「あら。ビーチェじゃない」

 久々の非番の日。

 街を歩いていると、とある少女に話しかけられてベアトリーチェは思わず顔を背けた。

 自分の求婚を断った男爵令嬢ティア・アルフローレン。

 貴族らしくない彼女は、今日も手に荷物を抱えていた。

 彼女付の侍女も居る筈なのに、自分で何でもしようとするなんて相変わらず変わっている。

「プロポーズを断ったのに普通に話しかけてこないでください」

「断られたからってあからさまに避けないで欲しいんだけれど」

「普通避けます」

「器が小さいわね」

 金色に青い瞳の少女は、ずばっとそうベアトリーチェを切り捨てた。

 思わず胸をおさえる。大丈夫、傷は深い。


「……荷物、持ちます」

「別にいいわ」

 ベアトリーチェは、せめて挽回しようと彼女の荷物に手を伸ばした。

 最近自分に対して妙にひどい気がするが、ベアトリーチェは六年越しの初恋の相手を、多少のことでは諦めたくなかった。

「一緒に歩いているのに、女性の貴方に持たせるのは気が引けるだけです」

「言い方さえ変えたらよかったのに。それじゃあ、紳士的とは言えないわね」

「……」

「やっぱり駄目ね。身長が低いのと同じくらい中身もお子様なんだから。それにそんな風に拗ねてるとさらに子どもっぽく見えるわよ?」

「う……っ」

 何か自分は失敗してしまったらしい。

 更に傷付く内容を言われ、ベアトリーチェの心は崩壊寸前だった。

 胸が痛いが諦めたくない。


「わかりました。責めません。代わりにもう一度チャンスを下さい。貴方の心を射止めることが出来たら、私と結婚してください」

「申し訳ないけれど、何度言ってもそれは受けられないわ」

 ベアトリーチェの求愛に、彼女は今日も首を振った。

「他に好きな相手が出来たのですか?」

「そう言うわけではないけれど」

「ならどうして?」

 ベアトリーチェは尋ねる。

 この六年。少し彼女が変わっているせいか、自分以外に彼女と仲が良い相手なんて居ない筈なのに。

「私、もうすぐ引っ越す予定なの。貴方は借金返さなきゃ出し、一緒には来れないでしょ?」

「…………」

「私大きな家に住みたいの。薔薇の花が沢山咲く家がいいわ。静かな場所で、心穏やかに暮らすのが昔からの夢なの。遠距離恋愛で、貴方が私を迎えに来るまでに何年もまつなんて御免だわ」

 彼女が求婚を断った理由を聞いて、ベアトリーチェは何も言いかえすことが出来なかった。




「もういやだ……」

 再び酒場。

 誰がどうみても子どもの、彼を見る周りの大人たちの目は厳しい。

 真昼間から子どもが酒を飲んでいる。それはあまり褒められることじゃない。

 実年齢なら飲んでいてもおかしくはないが、外見年齢はまだ十歳ほども無いのだ。

「だってどうしろっていうんですか。生きるために作った借金が求婚を断られた原因なんて、もうどうしようもないです」

 うっうっと彼はむせび泣く。

 そして顔を上げたかと思うと、全てを悟ったかの様な、涼やかな目をして言った。


「……所詮、この世は愛よりお金なんですね」

「『地剣』殿。ぐれないでください。何もかもわかったみたいな顔してますけど、童顔のせいでギャグですよ」

「失礼な!!」

 ベアトリーチェはメイジスの言葉に激怒した。

 しかし大人のメイジスは、ベアトリーチェの怒りなど特に気にしていないようだった。

 冷静に、彼は尋ねる。

「だいたいそんな少女なら、六年も付き合っていればわからなかったのですか?」

「これまでの彼女は、野に咲く花を渡しても喜んでくれるような方で……」

「女性への贈り物は花屋で買いましょう」

「お金のない人間の精一杯の愛情表現に対して駄目だしするのやめてください」

 妻は故人だが、元既婚者のメイジスの言葉はもっともだった。

 それに、いくら少し変わっているとは言えど、ティア・アルフローレンは男爵令嬢なのだ。

 魔力が強い将来有望な人間とはいえ、平民であるベアトリーチェ自ら摘んだ花を貰って喜んでいたとしたら、余程心が広いかベアトリーチェが好きだったかしかありえない。


「……というか、そんなにお金がないのなら、何故ここで飲んでいるのですか?」

 年下の上司の恋愛相談。

 半分彼に仕事をさせるのを諦めて話を聞いていた彼は、疑問に思ったことを尋ねてみた。

「ああ」

 そして、彼が当然のように言ったことにメイジスは思わず机を叩いた。

「ここ、ローゼンティッヒが私のぶんは自分のツケにしていいって」

「団長!!!」

 甘やかしすぎだろう! 

 メイジスの思いは当然だった。

 しかし――その話を聞いて、また彼の中に疑問が生じた。


「……『地剣』殿と団長殿はどういう間柄なのですか?」

「どういうとは?」

「その、他の方に比べて随分親しそうに見えましたので」

「ローゼンティッヒのご生母が、私の命を救ってくれた方なのです」

「え……?」

 メイジスは目を瞬かせた。

 と、いうことは、あのおちゃらけた騎士団長は――……。

「では、団長は『光の巫女』の??」

「はい。そのこともあって、いろいろと気をつかってくれているのでしょう。彼女自身はもう無くなっていますが、昔からよくして頂いています」

 ベアトリーチェは酒を飲みながらこたえた。

 クリスタロス王国騎士団騎士団長を務めるローゼンティッヒ・フォンカートが、『光の巫女』の実の息子であることはあまり知られてはいない。

 もともと国に一人か二人しか生まれない神殿の最高位を務められるような光魔法を使える人間は、出産の際に母体に何かあったら国家の損失と考えられるため、家庭を持つことが推奨されていないのだ。

 ローゼンティッヒは、本来クリスタロス王族に受け継がれる金髪を生まれ持っているのだが、面倒ごとに巻き込まれるのが嫌だという理由で、わざと美しい金髪を茶色に近い少しくすんだ色で染めている。



 翌日。

 騎士団の休暇の日に伯爵のもとで仕事をしていたベアトリーチェは、再び伯爵に声を掛けられ、顔を歪めた。

 そろそろ諦めてほしい。

 ここ三年間、ずっと請われている内容は、とても受け入れられるものではないのだから。

「伯爵。養子の件なら私は」

 しかしその日の伯爵は、いつもとは違う言葉でベアトリーチェに話をした。

「もし君が伯爵家に入ってくれるなら。請求されている治療費を、全て私が支払おう。そうしたら、君の家族の生活も、十分楽になるんじゃないか?」

「え?」

「君を買うような物言いはあまりしたくなくて言ってこなかったが、私はずっとそう思っていた」

「え……」

 平民でなく爵位も得て、借金も無くなる。

 彼女もそんな自分なら、喜んで求婚を受けてくれるかもしれない。

 借金。

 それを理由に愛する少女から振られたばかりのベアトリーチェは、少しぐらついた。


 でも。

『にーに!』

 頭の中に小さな弟が自分を呼ぶ声が浮かんで、彼は頭を押さえた。

「少し、考えさせてください……」

 家族は大切だ。でも、自分のせいで家族に苦労を掛けているのは確かで。それにこれからの人生を考えるなら、新しい家族のことを考えることも大切だと思えた。

 六年越しの初恋の相手。

 伯爵家に入れば彼女との婚姻も可能かもしれない。そう思うとベアトリーチェは、いつものようにすぐに断ることが出来なかった。




 伯爵からの申し出を聞いた翌日。

 その日ベアトリーチェは、休憩時間中ずっと空を眺めていた。

 どこまでも青い空、白い雲。

 それを眺めていると、整理できない感情から目を逸らせるような気がした。

「どうかしたのか?」

「いえ……」

 そんなベアトリーチェに話しかけてきたのは、騎士団長のローゼンティッヒだった。

「伯爵に、借金を肩代わりするから養子になってほしいと言われて……」

「は? あの方がまさかお前をただ働きさせるつもりだったとでも?」

 ローゼンティッヒは、ベアトリーチェが申し出を聞いた時驚いたのと違って、ずっとそう思っていたような口ぶりだった。


「……私は、よくわからないのです。自分に与えられた肩書ばかりが大きくて。私の心が付いていかない」

 ベアトリーチェは、母が作ってくれた昼食を一口食べた。

 いつもはおいしい筈なのに、今はなんだか味がわからない。

「私が伯爵家に入れば、家族も、結婚も、上手くいくかもしれない」

「いや、最後はどうかと思うぞ」

「え?」

 ベアトリーチェは首を傾げた。

「伯爵家となれば、結婚は伯爵が決めた相手を望まれるんじゃないか? たしか、その男爵令嬢、魔力はそんなに高くないという話だっただろう? せっかくの養子なんだ。魔力の高い令嬢と結婚をと伯爵もお考えになるんじゃないか?」

 魔力の高い人間同士の間には、魔力の高い人間が生まれやすい。

 だからこそ貴族の婚姻において、魔力の強さは昔から重視される。

 それは生まれた子どもの魔力の強さが、家の繁栄に繋がるからだ。


「あ!」

 誰もが知る当然のことを、すっかり忘れていたベアトリーチェは声を上げた。

「……も、盲点でした」

 しゅんと目線を下げる。

 その様子は、彼の子どもっぽさを際立たせていて、ローゼンティッヒはそんなベアトリーチェを見て苦笑いし、その後その背をバンバン叩いた。

「見方が甘いな~~物事はもう少し俯瞰して見ないと」

「……背中を叩かないでください」

「あはははは」

「やめてくださいと言ってるでしょう!」

 ベアトリーチェが声を上げ、立ち上がったその時。

 突如として地面が揺れ、ローゼンティッヒは彼の腕を掴んだ。


「……落ち着け」

 ローゼンティッヒはそう言うと、ベアトリーチェの目に手をあてた。

 光属性特有の温かさがベアトリーチェを包む。

「お前が本気で怒ったら、ここ辺り一帯が倒壊しかねない」

「…………」

 ベアトリーチェは動きを止めた。

 彼の魔力は他の人間より多く、更にその回復力は計り知れない。

 だからこそ彼に期待する人間は多いが、彼の魔力には成長を緩やかにする以外、もう一つ実害がある。

 それは彼の感情の高ぶりが、周囲に影響を与えてしまう可能性があるということだ。

 ベアトリーチェの丁寧な口調はこれを防ぐためのもので、騎士団に入ってすぐローゼンティッヒはベアトリーチェにいつでも平常心を保つために言葉遣いを改めるように言った。

「自分の感情をコントロールするのも、今のお前には大事なことなのかもな」

「…………」

「ベアトリーチェ」

「でも、ティアのことを、諦めたくないんです」

 兄貴面するローゼンティッヒに、ベアトリーチェは小さく漏らした。

「いや〜〜。青春って、青いな!」

 ローゼンティッヒはそう言うと、手を離してベアトリーチェの頭をわしわし撫でた。



「……で?」

 案の定、それをベアトリーチェがティアに伝えると、彼女は盛大な溜息を吐いた。

「そんなに簡単に家族を捨てていいの? 大体、伯爵家に入ったからといって私との結婚が許可してもらえるとは限らないでしょ?」

「…………」

「見た目も中身も子どもなんだから。そんなんじゃ、私以外とだって結婚なんて無理よ」

「そういうなら貴方の友人に聞いてみてください」

 呆れ顔のティアに、ベアトリーチェはボソッという。

 ベアトリーチェは知っていた。自分の価値を。

 彼は平民だが、その潜在能力の高さから彼を望む人間は多い。

 養子にと強く望んでいるのは伯爵だけだが、自分を婿にと思う人間は多いことを彼は知っていた。

 ただ、そんな彼のプライドをズタズタに傷付けるのがティアなのだ。


「貴方、自分が腐った林檎を私が誰かに与える様な女だと思っているの? 嫌よ。そんなの渡したら私が誤解されるじゃない」

「私は腐った林檎だと?」

「ええ」

「貴方は何も捨てられないし何も選べない。それなのに何でも欲しがろうとするなんて欲張りなだけだわ。貴方は周りを腐らせる腐った林檎。借金も貴方の立場も何もかも、周りを困らせるだけだわ」

「…………」

「反論できないじゃない」

 ティアはベアトリーチェを嘲笑った。

「求婚をするなら、身辺整理をしてから来てもらわなきゃどうしようもないわ。帰って」




 彼女に振られた翌日、ベアトリーチェは再び酒場に居た。

「私は腐った林檎らしいです」

「めっちゃ面白いなその子」

「何故ですか」

「発想が笑える」

「悪口で笑うのはやめてください」

 その隣にはローゼンティッヒも居り、案の定そこにはメイジスがやって来た。


「団長、『地剣』殿。お願いですから真昼間から飲むのはやめてくださいと」

「平和な証拠だろ?」

「平和ボケって言葉知ってます?」

「知っているが、今は知らないことにする」

「団長!」

 ベアトリーチェは職務時間中だというのに今日もやけ酒していた。

 その横で、ローゼンティッヒとメイジスが口喧嘩をしている。

 そんなところへ。

「何をしているんだ? 君は」

 幼い頃から聞きなれた、厳しい男のその声に、ベアトリーチェは思わず背筋を伸ばした。

 声の主は、ずっとベアトリーチェを養子に欲しいと言っていたレイゼル・ロッドその人だった。


「今日は騎士団の仕事だったのではなかったのか? ……まさか、君がこんなことをしているとは思わなかった」

 伯爵、レイゼル・ロッドは彼の研究内容から『変わり者』と呼ばれているが、厳格な人だとベアトリーチェは知っている。

 だからこそベアトリーチェは、彼を尊敬していた。

「伯爵家に入るのなら、もっとちゃんとしてもらわないと困る。私は変わり者とは言われるが、今日のようなことは見過ごせない」

 その相手に厳しく叱責され、ベアトリーチェは暫く下を向いたまま動くことが出来なかった。




 ベアトリーチェの知るティア・アルフローレンは、貴族でありながらとても自由な少女で、森の中を駆けまわって水遊びをするような子だったが、ベアトリーチェの求婚を断る少し前位から、彼女が外を出歩くことは少なくなっていた。

 そもそも二人の出会いは、王都の外れにある森の中だった。

 歳を重ねても、よく彼女は森を訪れていた筈なのに、最近はめっきり、足が遠のいてしまっているようだった。


 ――やはり子どもっぽく森で遊ぶなんて、おかしいということなんだろうか。

 そう思うと、ベアトリーチェは悲しくなった。 

 彼の成長は他の人間に比べて緩やかだ。

 彼は今年一六になったが、いまだに彼は森を愛しており、時折今も訪れる。

 でも普通の人間は、そうではないらしい。

 そう思うと、自分だけが時の流れに取り残されているような気がしたのだ。

 彼が、ティア・アルフローレンという少女に固執したのにもそこに原因がある。

 ティアという少女は、いつまでも子どもの心を忘れないような、そんな女性にベアトリーチェは思えたのだ。

 いつまでも穢れなく、優しく、真っ直ぐで、自然体で――……。

 野に咲く花を差し出しても、「ありがとう」と言って受け取ってくれるそんな少女に。

 だからこそ、ここ最近のベアトリーチェは、求婚するたびに自分に酷いことばかり言うティアが、少しずつ嫌になっていた。


 仕事帰りに男爵家の扉を叩くと、いつも通りティアが彼の為に屋敷から出てきた。

「だから貴方は駄目なのよ」

 彼女はベアトリーチェの話を一通り聞くと、最近の彼女らしく、ティアは思い遣りの欠片も無いような、ベアトリーチェが傷付く言葉を吐いた。

「頭が良くて紳士で大人っぽくて、包容力があって、小さくても色気を感じさせる大人の男になったら結婚を考えてあげてもいいわ」

 そして、今の彼にはとても無理な注文をずらずらっと彼女は並べた。

「注文が多いですね」

「何? 文句でもあるの?」

「昔は道端に咲く花だって喜んでくれたのに、それが貴方の本当の姿だったというのですか?」

「……」

 彼女は答えなかった。ただ、自分を軽蔑するようなベアトリーチェの視線を、まっすぐに受け止めていた。

「答えられないのですか?」

 ベアトリーチェの声はとても低い。

「貴方が、そんな方だとは思わなかった」

 彼はそう言うと、何も言わない彼女を置いて家に帰った。



「にーに!」

「ただいま」

 彼が家に帰ると、相変わらず小さな弟は自分を待っていてくれて、嬉しそうにかけよって抱き付いてくる。

 小さな、温かな、生き物。

 ベアトリーチはアルフレッドの頭を優しく撫でた。

 思う。もう、結婚なんてどうでもいい。養子の話など知ったことか。

 どうせ自分の人生は人より長いのだ。好きなように、自由に生きて何が悪い。

 せめて家族が亡くなるまで。この家を守って、生きていくのも悪くない。

「アルフレッド」

 ベアトリーチェは、優しい声でその名を呼んで、小さな弟を抱きしめた。




 ティアにベアトリーチェが初めての告白をしてから一か月。

 最後にあってから一週間ほど経ったある日のことだった。

「『地剣』殿!」

 仕事をしていたベアトリーチェを呼び止めたのは、漸く教育期間を終えたメイジスだった。

「『地剣』殿は、この病をご存知ですか?」

 彼は真新しい紙を手に、ベアトリーチェに駆け寄った。

「心臓が石になる……?」

 記事の見出しに、ベアトリーチェは目を細めた。

 それは、医学・薬学の国の研究施設で働く彼も、聞いたことのない病。

 騎士団に報告が来たとなると、今頃施設の方にも資料が届いていることだろう。


「今巷で、『精霊病』と言われている病です。魔法式を書き込める石のことを、古くは精霊晶と呼んでいたことに由来するそうです」

「ああ……」

 今は、魔法式が書き込める石のことをただ『石』としか呼んでいないが、昔はそう呼ばれていたことを、彼は知ってた。

 そもそもこの世界の魔法は、一部欠落しているところがあるのだ。

 欠落時期の魔法は古代魔法と呼ばれ、記録が残るだけで魔法陣などは全く残っていない。

「でもなんで、そんな奇病が……」

「人間を石に変える。どこかの国が新しく作った病ではないかとも思われたそうなんですが、世界中で起きていることもあって、何も特定できないそうです」

 メイジスはそう語る。


「発症率は限りなく低いそうです。この国ではまだ発症した人間は居ないそうですが、ただ現実にそんな病があるとしたら……。混乱する可能性はあります」

 恐怖は伝染する。

 発症率が低いと他国は報告を上げていても、そもそも最近流行り出した病なのに、それが何のデータとして役に立つというのか。

「薬や治療法などは?」

 ベアトリーチェはとりあえず尋ねた。

「わかりません。ただ、罹患した場合助からないと」

 ベアトリーチェは顔を顰めた。

 未曽有の病。そんなものが、この国に訪れることがあったら。

 自分がどう対処すべきか、今の彼にはわからなかった。



「ビー……、チェ……」

 その時。

 自分の名を呼ぶ弱弱しい声が聞こえて、彼は背後を振り返った。

「ティア?」

 そこに居たのは、ティア・アルフローレン。

 随分顔色が悪い。

「ごめん、な、さ……」

 彼女の手は、ゆるゆるとベアトリーチェへ伸ばされる。

 しかしその手が届く前に、彼女は地面に崩れ落ちた。

「ティア!」

 ベアトリーチェは思わず彼女を抱きとめた。

 その身体は、彼が知る彼女の重さより、ずっと軽く感じられた。

「一体どうして……」

 ベアトリーチェの知るティア・アルフローレンは、よく笑う元気な少女だった。

 風邪一つ引かないのが自慢と言っていたほどの彼女が、どうしてここまで弱って自分の元に?

 少女の体を抱き上げた彼は、その手の異常に気が付いた。

 彼女の手首には、まるで茨のような文様が浮かび上がっていたのだ。

 それは。

 ――『精霊病』の末期症状の印。





「彼女はずっと、病に侵されていたんだな」

 ティアの体は、すぐに男爵家ではなく、ベアトリーチェの働く研究施設敷設の病院へと運ばれた。

 ベアトリーチェ自身が彼女を運びたかったが、それは許されなかった。

 運ばれた彼女の体は綺麗に洗浄され、白い病室ベッドに横たえられた。

 窓の向こう側には、偽物の風景。

 死期の迫る末期患者の為の病室は、せめて彼らが心穏やかに生を終えられるよう特別な配慮がされている。

 それは彼女が貴族だからの特別扱いだからというよりは、彼女を死に追いやるその病のための対策だった。

 彼女が逃げ出したいなんて思わないようにして。

 静かに、彼女の病を観察するための部屋。


『――私と、結婚してください』

『身長が低い貴方とは結婚は出来ません』

 ティアが病室のベッドで眠るころ。ベアトリーチェは、病院の屋上に居た。

 ここから飛び下りれば、彼女が息を引き取るとき、自分もこの世界から消えてしまえる気がした。

 地属性の人間の周りには死がつきまとう。

「何、やってるんだ」

 屋上から、彼が飛び下りようとした時。

 それを止めたのは、ローゼンティッヒだった。


「私なんて、いないほうがいいんです。私がいるから周りの人間は不幸になる。彼女が病気になったのだって、きっと私の……」

 ベアトリーチェの声は震えていた。

 地属性に適性のある人間は、死を招くという言い伝えがある。

 大地が死骸を栄養に変えるように、その属性の人間の周りには死がつきまとうと。

 ただそれは、本人が望むことでは決してない。

「お前のせいじゃない。馬鹿なことを考えるのはやめろ」

 ローゼンティッヒは、そう言うとベアトリーチェを自分の方へ引き寄せた。

 ベアトリーチェの体は小さい。

 彼がどんなにローゼンティッヒから逃れようとしても、その身体の大きさと力の差がそれを許さない。

 ベアトリーチェの目から涙が零れる。

 最愛の彼女はもうすぐこの世から去ると言うのに、この体は、死ぬことを許されないのかと。

 そのことが、たまらなく悔しくて。




 ティア・アルフローレンが倒れて三日後。

 漸くベアトリーチェの監視の目を解いたローゼンティッヒは、ベアトリーチェとメイジスの二名を含めた騎士に、最近王都周辺に現れるという野盗の捕縛を命じた。

 簡単な任務だ。

 野盗は数は多くても、その殆どが魔法を使えない。

 この世界で魔法を使えるのは、選ばれた人間だけ。そして騎士の多くは魔法が使え、ベアトリーチェの魔法はその中で並ぶものが居ないほど強力だ。

 いつもの彼であれば一瞬で終わる仕事。

 だというのに、ベアトリーチェは魔法を使わなかった。

 ただただ地面に立つだけ。

 そんな小さな体の彼に、野盗の一人が武器を振り下ろした。


「『地剣』殿!」


 世界を染める赤い色。

 けれど不思議と痛みはなく、ベアトリーチェは伏せていた目をゆっくりと開いた。

 そして自分の目の前に広がる光景に、ベアトリーチェは言葉を失った。

「な、何故、貴方が……」

 声が震える。

 何故ならその光景は、彼が望んだものとは全く別のものだったからだ。

 ベアトリーチェ・ロッドは死を望んでいた。だから殺されていいと思った。だから何もしなかった。

 でもそれは、一人の騎士によって阻まれた。

「貴方が。……貴方がご無事でよかった」

 そう言う彼の片腕は、地面に転がっている。

「……『地剣』殿」

 メイジス・アンクロット。

 ベアトリーチェ・ロッドの初めての部下は、彼を庇ってその片腕を失った。



 その後の仕事はすばやかった。

 可能な限り早くメイジスを神殿に運ぶため、ベアトリーチェは一瞬で野盗を無力化した。

 地属性の魔法。彼の作る牢獄は、そう簡単には抜け出せない。

 ベアトリーチェはメイジスを神殿へと連れて行った。

 一日以内の怪我であれば、治療費は高額だが治すことが出来る。そう思って向かったものの、何故か神殿はベアトリーチェの願いを断った。

 曰く。

『今、彼を治療できる人間は、この国には居ない』

 なんでも、第一王子レオン・クリスタロスと、と公爵子息ギルバート・クロサイトが原因不明の病で眠りについて、総動員で彼らに光魔法をかけているとのことだった。

 本来この魔法を執り行うべきは、ベアトリーチェを蘇生させた『光の巫女』だ。

 しかし彼女は、数年前に亡くなっている。

 王族の大事に、平民出身の男の願いなど聞き入れられない。

 メイジス・アンクロットの腕を元に戻すことは、もう絶望的だった。





「やっぱり、私のせいです。私が、私のせいティアも、彼も……」

 ベアトリーチェは泣いていた。

 一応の処置は行われ、メイジス・アンクロットが生命を脅かされることは無かった。けれどもう二度と、彼は騎士としては戦えない。

 そう告げられたとき、ベアトリーチェは苦しくてたまらなかった。

 メイジスは自分を助けただけだ。お金の為に騎士になった自分が、国の為に騎士になった彼の腕を奪ったことが申し訳なくて、何と声を掛けていいかわからなかった。


 ごめんなさい。ごめんなさい。

 こどものように謝ることは出来ても、それでは何の解決にもならない。

 メイジスは自分を許すだろう。彼はそういう人だ。彼は優しい人だから。

 そう思ってしまう自分が、ベアトリーチェはまた許せなかった。

 騎士団長であるローゼンティッヒは、騎士であるメイジスの為に病院に来ていた。

 けれど彼がメイジスと話したのは僅かな時間だけで、相変わらずローゼンティッヒはベアトリーチェの傍にいた。

 ベアトリーチェがまた、自分から命を断とうなんてことを考えないように。


「やっぱりあの時死んでおけばよかった。いや、それよりもっと早く。私なんて、生まれるべきじゃなかった。生まれた時そのままに、死んでおけばよかったんだ」

 ずっとベアトリーチェの泣きごとを聞いていた彼だったが、流石にその言葉は許せなかった。珍しく激高したローゼンティッヒは、ベアトリーチェに怒鳴った。

「いいかげんにしろ!」

 いつも自分の傍で笑っていてくれたその人の声に、ベアトリーチェはびくっと体を震わせた。

 それまでベアトリーチェを見下ろしていた彼は、ベアトリーチェに目線を合わせるために膝を折ると、そっとその小さな体に触れた。


「お前の命は、お前だけのものじゃないんだ」

「……」

「お前を助けた後に、母さんは亡くなった」

 ベアトリーチェには、何故彼が今そんなことを言うのか分からなかった。

「魔法の使い過ぎは、寿命を縮めるのかもしれない。だからこそ……。お前には、母さんの分まで生きてもらわなきゃ困る」

「……!」

 ベアトリーチェは息を飲んだ。

 それは、彼が一六歳だったときはまだ、有名ではなかった一つの仮説。

 魔法。特に光魔法の使い過ぎは、その寿命を縮めると。

 この体に宿る命は、決して自分だけのものではない。

 ベアトリーチェは、彼にそう言われた気がして胸を抑えた。

 赤い瞳は真っ直ぐに、ベアトリーチェを見つめている。


 考える。

 自暴自棄になる自分のことを、この人はいつもどんなふうに思ってきたのだろう。いつだって自分の愚痴を聞いて、酒代だって彼がいつも払ってくれた。「お前らしく生きろ」なんて言う言葉を、かけてもらったこともある。

 この人は、これまでどんな思いで。

 ――自分の母親を奪った相手わたしに。

「ベアトリーチェ」

 ローゼンティッヒはベアトリーチェの頭を撫でる。兄が弟にするように。

「……泣くなよ」

 その声は、泣くベアトリーチェを見て傷ついている声だ。

 彼を。ローゼンティッヒを傷付けたいわけではないのに、ベアトリーチェは涙を止めることが出来なかった。


 苦しくてたまらない。

 自分に優しくしてくれる人の痛みを、自分は何も考えていなかった。

 ただ彼は優しい人だ。ただ彼女は優しい人だ。

 そう思って生きてきた。

 その優しいが何から成り立つのか、自分は何も理解していなかった。

 そのことが、どれだけ相手を傷つけてきただろう?

 違う。本当は自分はどこかで気づいていた。

 自分はずっと自分が傷つくのを恐れて、気づかないふりをしていただけだ。

 人の心を移す鏡のようなこの心に、壁をつくって誰の心も移そうとはしなかった。

 臆病な自分の。弱い自分の選択が。

 どれだけ自分を守ってくれた優しい人を、傷付けていたことだろう?

「俺はお前を、泣かせたいわけじゃないんだ」

 ベアトリーチェは涙を流す。涙を止めることができない。自分を責める感情が溢れて、ただただ胸が苦しかった。




 片腕を失ったその騎士は、原因となった子どもが病室へ入って来ると、いつものように笑顔で迎え入れた。

 大人が子どもを見つめる優しい瞳。

 メイジス・アンクロットは、ベアトリーチェの顔にそっと触れた。

「どうしたんです? 目なんか腫らして。私はちゃんと生きているんですから、そんな顏しないでください」

 彼はそう言うと、当然のようにベアトリーチェの為に光魔法を使った。

 光魔法特有の温かさが、ベアトリーチェを包み込む。

 その温かさが、またベアトリーチェの胸を痛ませる。

 優しい人。自分に優しさを向けてくれる人。

 その相手から、自分は大事なものを奪ってしまった。

 せっかく彼に治療してもらったというのに、ベアトリーチェはまた泣いてしまいそうだった。

 そんな彼に向かって、メイジスは微笑んでからこう言った。


「私の妻の名前も。貴方と同じ『ベアトリーチェ』だったんです」


 メイジスはベアトリーチェの頭を撫でる。愛しい人に触れるように。

「だから貴方を、守れてよかった。……私は、あの日守れなかったから」

「!!」

 ベアトリーチェは思い出していた。自分に光魔法をかけてくれた彼が、自分に語ってくれたことを。

『私、実は一年前に妻を亡くしたのです』

『目の前で、事故にあって。私が魔法を使えるようになったのは、それからなので』

 その名を持つ自分が自ら死を選んだことを、彼はどんな思いで見守って、そして助けてくれたのか。

 そう思うと、ベアトリーチェはやっぱり泣いてしまった。


 愛する家族から笑顔を奪う自分が嫌いだ。

 自分を大切にしてくれる上司の母を奪った自分が嫌いだ。

 自分を慕ってくれたはじめての部下から、剣を取り上げるそんな自分を、どうして好きになれるだろうか。

 自分はただ、幸せになりたいだけだった。

 自分が好きな人たちと、笑い合って時を過ごす。

 そんな平凡な、手のひらに収まるだけの幸福を、一生大切にしたいだけなのに。この命に与えられた使命が、それを許してはくれない。


『貴方はいつか、この国を変える人になる。だから、貴方を生かすと決めたのです』

 最後に会った日。

 『光の巫女』の最後の言葉は、その未来が平穏ばかりでないことを暗示するかのように、ベアトリーチェについてまわる。  


「貴方が、ご無事で良かった」

 メイジスはそう言って笑う。ベアトリーチェの、頭を撫でて。

「う……あ……ああ……! あ……ッ!」

 ベアトリーチェは声にならないこえをあげた。

 奪った未来。奪われた未来。誰かを傷付け、救われる。

 心の中に生まれる沢山の感情こえが、溢れて止まらない。

 でもその痛みが、また魔法を強くする。

 魔法は心から生まれる。

「泣かないでください。……私にとって貴方は、ずっと憧れだったんですから」

 この世界で、魔法を扱える人間は少ない。

 庶民の出で魔法を扱えることは、『神の祝福』であるとされる。


 しかし、器と回復量があわない自分は、時に好奇の瞳をむけられ、大切な人を傷付ける。

 ベアトリーチェは胸を押さえた。

 ズキズキと痛む心は、まるで心臓を貫かれ、血があふれるような痛みがある。

 ベアトリーチェは思い浮かべる。自分に向けられたたくさんの笑顔や言葉。

 向けられた愛情を。返せない温かさを。

「……っ!」


 人に愛された心を。その思いを、返したいと思わずにどうしていられるだろう。

 自分を愛してくれた人を傷つけるたびに、どうして傷つかずにいられるだろう?

 守る力のない自分を、どうしようもなく無力な自分を、どうして嫌わずにいられるだろう?

 そんな自分に優しい言葉をかけてくれる人を、どうして愛さずにいられるだろう?

 この手に彼らを守る力はないのに。


「貴方は愛し愛される人だ。貴方が選ばれたのは、きっと貴方が、誰よりも優しいから」

 メイジスはそう言うと、優しくベアトリーチェの頭を撫でた。

 その手は相変わらず温かくて。優しくて。ベアトリーチェの胸は更に痛んだ。

 強くなりたい。強く。

 守られるのではなく、守る人間になりたい。

「だから、泣かないで。私は貴方を、傷つけたいわけじゃないんです」

 齎される言葉は光を伴って、水のように染み渡る。

 深く傷を残す。

 この心を、誰にも伝えることなんて出来ない。

 それでも、涙脆い弱い自分に差し伸べられる手は、いつだって温かいのだ。





「貴方のせいでその人は騎士ではなくなったの? やっぱり貴方って駄目駄目ね」

 白い病室ではカーテンが揺れていた。

 ベアトリーチェはその日、彼女のために花を買った。

 彼女がいつか好きだといった青い花。

 『forget me not』

 この世界には異世界から招かれた人間がいて、その人間がつけた物の名前がある。

 この花の名もそれで、図鑑には違う世界の言語によって登録されている。


「そんなんじゃ私の夫になんて相応しくないわ」

「……はい」

 花を受け取ったティアは、青い花に触れると目を細めた。

 ベアトリーチェはただ下を向いて、彼女の言葉にうなずく。

「私、もうすぐここから引っ越すの」

 その言葉は、最近の彼女の口癖だった。

「だから貴方は、誰か別の子を見つけて」

 彼女は言う。そして続ける。

「きっと貴方なら、誰だって幸せに出来る」

 ――いつかの言葉とは、まったくの逆の言葉を。


「ティア」

 ベアトリーチェは顔を上げた。

 彼女の手には、花が握られている。

 彼が買ったものだ。彼が初めて、誰かのために買った花だ。

 彼女は、礼は言わなかった。だから彼は、もしかして自分はまた失敗したのかもしれないと怖くなった。

 だっていつも、彼女は笑ってくれていたから。

 ベアトリーチェは目を瞑る。初めて彼女と出会った日のことを思い出す。

 その頃の彼と彼女はそこまで体格が変わらなくて、ベアトリーチェは自分も彼女と同じ普通の子どもだと信じていた。

 木漏れ日のさす森の中には、自分たちの笑い声だけが響いているような気がした。

 ベアトリーチェには、目の前の少女はやはり、昔と何も変わっていないように今は思えた。


 野に咲く花を贈っても、笑ってくれた貴方が、本当の貴方だと信じている。

 自分に優しさに、確かに嘘はなかったと信じている。

 長い時を生きる。この命の僅かな時かもしれないけれど、それでも同じ景色を見ていたいと思った、貴方のことを愛している。

 貴方は私に他の誰かと幸せになれと言う。

 でも私が幸せにしたいのは、貴方一人だけだ。


「顔を、よく見せて?」

 彼女は昔から、よく笑う人だった。

 病室であってもそれは変わらずに、彼女はベアトリーチェの前で笑っていた。

「ああ。やっぱり、まるで森の精霊みたい」

 自分に伸ばされた手。

 ベアトリーチェは彼女にされるがままで黙って立っていた。

「私ね、貴方に出会った時、貴方のこと、森の精霊かと思ったの」

 ベアトリーチェは何も言わなかった。

 彼は覚えていた。

 今でも鮮明に、彼女と初めて出会った日のこと。

 そしてその日、かけられた言葉を。


『貴方、まるで森の精霊みたいね』


 初めて彼女に貰った言葉。

 その言葉をきっと、ベアトリーチェは千年経っても忘れられない気がした。

 自分という人間を、永遠のような時を生きるこの命を、自分の属性も何も知らない彼女が、最初からすべてわかってくれたような気がした瞬間。

 世界に光が差し込むような、そんな感覚。

 それは、多分一生消えてはくれない。

 だからこそ。癒すことの出来ない甘い傷となって、彼女は自分の中に残り続ける。


「ねえ、ビーチェ」

 涙の名を与えられた少女は笑う。

「精霊病にかかった人間の心臓は、魔法を使える石として利用出来るんですって」

 ベアトリーチェの手を、自分の手で包んで。

「だから。私がもし石になったら。その時は私の石を、貴方に持っていてほしいの」

 彼女は笑って、残酷なことを彼に願う。


 ベアトリーチェの魔法の才能は特出している。

 魔法を使うためには魔法式を保存出来る石が必要であり、その石は高度などにより魔法式を保存出来る量が異なる。

 強大な魔法程多くの情報量となり、ベアトリーチェはその才能に見合う石を今だ手にすることが出来ていない。

 石は高価で、平民で、しかも借金を抱える彼では相応しい石など購入できるはずもなく、一応の功績は認められてはいるものの、騎士として戦うベアトリーチェはいつも全力であるとは言えない。

 彼は望んでいた。

 昔から、自分に見合う石が欲しいと。

 そして彼女も、そのことを知っていた。

 でもそれは、彼女を犠牲にしてまで、彼が望んだことではない。


 ベアトリーチェの頬を涙が伝う。

 一度泣いてしまうと、涙はただただあふれるばかりだった。

 彼はベッドの上の彼女に手を伸ばした。でも、抱きしめることは叶わない。

 必要以上の接触をできない魔法が、今の彼女にはかけられている。

 せめて、彼は彼女に伝えたかった。

 もうすぐ失われる灯。その命を必死に生きる、彼女に永遠の愛の誓いを。

「ティア……ティア。私は……ずっと、これからも、貴方を」

 貴方だけを。

「駄目」

 けれどベアトリーチェが口にしようとした言葉を、彼女は笑って阻んだ。

「私、もうすぐ引っ越すんだから」

 それは最近の彼女の口癖。

「だから、駄目」

 そう言って、彼女は笑う。


「私ね。どんなに辛いことがあっても。生まれたことを後悔なんてしないわ。どんな使命を持って生まれても、何も持たずに生まれても。きっと、笑って生きた人間が勝ちなんだわ。だから」

 それは光属性に適性を持つ彼女の、最後の祈りの言葉だ。

「貴方はずっと、笑っていて。貴方は生きて。それが、私の願い」

 相手を思い、慈しむ。その心が、誰かを守る力になるなら。そのとき祈りは、自分だけのものではなく、誰かに影響を与える力になる。

 彼女は、そう信じていた。

「ねえ、手を出して?」

 彼女はそう言うと、ベアトリーチェの手を取った。

 彼女はベアトリーチェに、一枚の葉を握らせる。

「ビーチェ。私ね、貴方の幸福を願ってる。どんなに遠く離れても、この気持ちは変わらない」

 好きだとは一言も告げずに。

 掌に残された祈りだけが、彼女の彼への思いの証だ。

 ハート形の葉っぱの欠片。

 その葉が、とあるおまじないの一種だと知ったのは、随分時間が経ってからだった。

 幸福の名を与えれた四つ葉。

 四つ葉のまま持っておけば、その人間には幸運が訪れる。

 しかしそのうちの一つをちぎって誰かに渡すと、その人間の幸運が、相手に移るという言い伝えがあるらしい。

 死の淵にあった彼女が願ったのは、彼の幸福だった。




 彼女が好きだった花。彼が最後に彼女に贈った花。

『フォーゲットミーノット』

 異世界の文字はそう読み、「私を忘れないで」を意味するらしい。

 花言葉は『真実の愛』。

 もしかしたら彼女は、自分が病にかかることを予知していたのかもしれない。

 後からになって、彼はそう思った。

 彼女は光属性に適性があり、光属性は時に未来を見通すと言われているからだ。

 目の前の道を光が照らすように、彼らは――。

 だとしたら。

 彼女はいつからそれを知っていたのだろう。

 ベアトリーチェが花を贈ったときに笑っていた。きっとその頃の彼女は、まだ未来を知らなかったに違いない。

 見通せる未来は、その魔力に依存する。

 『光の巫女』がベアトリーチェの先の未来を見たとして、ティアが見ることができた未来はよくて数カ月だったはずだ。

「私は」

 ベアトリーチェは葉を抱く。

「貴方を忘れない」


 これは、貴方への真実の愛だ。





 彼女が息を引き取って少しして。

 ベアトリーチェの実の弟であるアルフレッドが重い病にかかった。

 幸い彼は『精霊病』ではなく、ベアトリーチェは彼の病を治すためにレイゼル・ロッドに治療費を借りることを条件に伯爵家入りを受け入れた。

 その時の彼には、人の命に比べたら、何もかもが些細なことに思えた。

 『国の未来を変える者』大層な肩書のおかげで、ベアトリーチェは蘇生と治療費の後納を許されたが、普通は治療する前に代金は支払わねばならない。

 アルフレッド・ライゼンは、その後無事回復した。

 ベアトリーチェはそれを一人喜んだ。もう会うことはないと決めた親からの手紙を読んで。

 彼の母は相変わらず体を崩したままだ。

 ベアトリーチェは伯爵家に入り、アルフレッドの治療費を返済しながら、家にお金を送った。

 彼はもう家族には会わずにいようと思った。

 弟を助けるためとはいえ、自ら家族の関係を断ち切ることを選んだ。それは彼にとって、自分へのけじめに思えた。




「笑ってください。『地剣』殿。誰も貴方の、不幸は望んでいないのだから」


 ベアトリーチェが伯爵家に入ると、レイゼル・ロッドは研究室の管理をベアトリーチェに一任すると言った。

 新しく施設が作られるらしい。相変わらず変わっているというか、自由な人だとベアトリーチェは思った。ただ管理を任されたおかげで、彼はある権利を手に入れた。

 それは職員の雇用。

 ベアトリーチェは、騎士団を退いていたメイジス・アンクロットを、職員として雇用することにした。

 後々になって思ってみると、それはレイゼル・ロッドなりの自分への愛情だったのかもしれないとも彼は思った。


 レイゼル・ロッドは地属性に適性を持つ人間だ。

 地属性の人間の愛情表現は、基本的にわかりづらく回りくどい。

 片腕を失ったメイジスは、今は職員として楽しそうに過ごしている。

 ただ本当は彼は騎士として生きていきたかったはずだと思うと、今も自分が騎士であり続けられることにベアトリーチェの胸は痛んだ。

 ガラス張りの植物園。

 自分の周りは緑で満たされ、ガラス越しに入りこむ光は、きらきらと光って見える。

 それはどこか遠い日の、誰かと出会った森のような温かさのある場所だ。

 ベアトリーチェは目を瞑る。

 自分に語りかける長身の、彼との出会いを思い出す。


 新人の騎士は少し緊張した面持ちで、ベアトリーチェが声を掛けると、何故か頭を撫でてきた。

『こんにちは、僕』

『…………』

『騎士団の子かな? こんなに小さいのに偉いね』

 頭を撫でられてベアトリーチェは顔を顰めた。

『貴方は誰ですか? 私はベアトリーチェ・ライゼンです』

『え!? あ、貴方が『地剣』殿!?』

 不機嫌そうに返せば、彼は慌てて首を垂れた。

『た、大変失礼いたしました。今日から貴方の下で学ぶように言われている、メイジス・アンクロットと申します』


 ベアトリーチェがメイジスと初めて出会った日。

 彼はベアトリーチェを子どもと勘違いして話しかけてきた。

 そしてその子どもが何者かわかると、すぐさま言葉遣いを改め壁を作った。

「メイジス……アンクロット」

 小さな声で、ベアトリーチェは彼の名を呼んだ。

 片腕を奪った自分が、今更彼を姓でなく名で呼ぶことは許されないことに思えた。

 後悔は遅れてやってくる。

 ――出会いをやり直せるなら、今度は。私は貴方と友達になりたい。

 彼はそう思ったけれど、告げる勇気は生まれなかった。


「森の木陰、新緑の瞳。貴方はきっと、この世界に愛された人だ」

 メイジス・アンクロットは楽し気に、そう言ってベアトリーチェに笑いかける。

 緑と光に包まれるその場所で流れる時間は、どこまでも穏やかに優しく過ぎていく。

 ベアトリーチェは魔法をかける。

 大地に願う。祈りを捧げる。

 彼の心は、命を育てる。




 それからまた、少し経ってのことだった。

 騎士団の入団試験を受けたいと、一人の少年がやって来た。

 年は一〇。

 ベアトリーチェが、騎士になったのと同じ年だ。

「今度の入団試験、お前に任せたい」

 ローゼンティッヒは静かに言った。

「私に……ですか?」

「――ああ。『剣聖』様の愛弟子らしい」


 七〇年前この世界を終焉へと導くとされた魔王。

 『剣聖』とは、先代公爵グラン・クロサイトのことだ。

 彼は元々平民の出であったが、魔王討伐の功績として恋仲にあった公爵令嬢と結婚したという異例の経歴の持ち主だ。

 その彼の愛弟子とあれば、並々ならぬ才能なのだろう。

「ユーリ・セルジェスカ……」

 ベアトリーチェは、自分の対戦相手の書かれた紙を受け取った。 

 どことなく、柔らかい印象を与える名前だ、と思う。 

 人は少なからず、音に対してある一定の印象を抱くような気がする。

 ゆるやかで、温かい。涼しげで、どこか真面目そうな硬さを帯びる。

 ベアトリーチェはその名から、何故かそんな印象を抱いた。

「……どういう子なのでしょう?」

 願わくばこの名を持つ少年が、今自分が思ったような、そんな子供であることをベアトリーチェは願った。

 まっさらな白。銀色。この名を持つ人間は、きっとそんな色が似合う。


 地を動かす力はあっても、彼の力が、天へと届くことはない。

「はああああああっ!」

 天を舞う。

 まだ幼い少年。

 ユーリ・セルジェスカは、ベアトリーチェが願った通りの少年だった。

 ――なんて、綺麗な剣を使うんだろう。

 そう思って彼は空を見上げた。

 魅せられる。

 銀色の髪も、金色の瞳も。まるで宝石のように美しい。

「これで」

 そんなことしているうちに、少年の攻撃はベアトリーチェをとらえていた。

「終わりだ!!!」


「――参りました」

 ベアトリーチェは、負けたのに不思議と清々しい気分だった。

 自分より年下なのに大きな彼に、ベアトリーチェは手を差し出した。

「私は、ベアトリーチェ・ロッド。これからどうぞ、よろしくお願いします」

 その手に、ひそかな願いを込めて。


 自分のことを何も知らないまっさらな貴方の中に、私はこれから、どんな「私」を貴方の中に宿せるだろうか。

 貴方が尊敬してくれるような、貴方が頼れるような、貴方を導き支えられるような、そんな大人に私はなりたい。

 ベアトリーチェはそう思った。

「まだ小さいのに強いんだな」

 ただそんな思いを知らない子どもは、ベアトリーチェに向かってため口だった。

「お前! 彼はお前より年上だぞ!」

「え?」

 審判をしていた騎士に怒られ、ユーリは顔を蒼褪めさせた。


「え? あ、え? も、申し訳ございません!」

 どうやら年上を敬う人間ではあるらしい。

 その態度は嬉しいけれど、なんだか壁を感じてベアトリーチェは苦笑いした。

「いいですよ。どうか、そのままで」

 もう間違えないように。自分を変えていけるように。

 この子どもとは、壁を作らずに過ごしたい。

「これから、よろしくお願いします。セルジェスカ」

「……ユーリでいい」

 ベアトリーチェがそういえば、子どもは申し訳なさそうにしながらも、短くそう返してくれた。

「そうですか。では私のことは、ビーチェと読んでください」

 ベアトリーチェがそういえば、子どもは小さく「ビーチェ」と呼んだ。

 その彼の声が、ベアトリーチェはとても愛しく思えた。

 彼はまるで、真っ白なキャンバスのように思えた。


 ユーリ。

 私は。貴方と共に、「私」を育てていきたい。

 弱いこれまでの自分とは違う、他者を思いやれる新しい強い自分を。

 変わるんだ。

 大切なものを、大切な人を、もう傷つけない。

 今度はちゃんと守れるように、自分を変えていきたい。 

 その隣に、貴方にいてほしい。

 貴方のしるべとなれるような、そんな「私」に私はなりたい。


 それはこれまでの、自分との決別。その願いのような誓いは、小さな少年へと託される。




 クリスタロス王国騎士団。

 二つ名を持つ騎士を倒して入団を許された騎士は、同じく二つ名を与えられる。

 ベアトリーチェは自分の対戦相手に、自らその名を与えることにした。

「『天剣』か」

 紙に書かれた文字を見て、ローゼンティッヒは少し笑った。

「はい。彼にこそ、この名は相応しい」

「珍しいな。気に入ったのか?」

 その声はとても嬉しそうで。彼の声を聞いていると、ベアトリーチェも嬉しくなった。

「――ええ。彼の剣こそ、私の対を為すに相応しい」

 それは小さな彼の前進。

 そのための、第一歩。


 ベアトリーチェは変わることを願った。

 彼は共に前に進む相棒に選んだ子供に、自分とは真逆の名を与えた。

 彼の祈りは、願いは、空へとは届かない。

 でも空を飛べる彼となら。『天剣』を持つ彼となら。

 心は、どこまでも高く飛んで行けるような気がした。




 ティア・アルフローレンの葬儀はつつがなく行われ、その身体は『春の丘』へと埋葬された。

 その墓の上に、ある花が咲いた。

 それは、屍花『青い薔薇』。 

 病で死んだ人間の墓の上に咲き、生前親しかった人間の魔力に触れていなければ枯れてしまう花。

 『屍花』は古くから、死んだ人間を死に追いやった同じ病の薬になる可能性が高いと指摘されており、だからこそその花は、彼には彼女の分身に思えて仕方なかった。

 人はきっと、人に祈りを託して生きる。

 祈りは人の中で、命のように宿り続ける。

「――ティア……!」

 ベアトリーチェは彼女の墓に手を合わせた。

 最後の最後に自分でなく他人の幸福を願った彼女が残した祈りを、彼は絶対に無駄にしないと誓った。

 貴方が眠るその上に、貴方の病を治すための花が咲く。

 青い薔薇から零れる滴は、まるで貴方の涙のようだ。


 ガラス張りの植物園には、柔らかな光が射し込む。

 愛した彼女と過ごした森に似た場所で、彼は時折追悼するように目を閉じる。

 そうしていると自分が生きていることが、今の彼にはとても幸福なことに思えた。


 ――ティア。

 貴方のことを愛している。

 この手が、空に届くことは無くても。

 それでも私は、貴方が愛したこの世界を生きていこう。

 優しさは美徳だ。信じることは美しい。ただ一つの決意を信条に掲げ、強さを求めることを否定はしない。でも人は、それだけでは生きていけない。

 立ち止まって振り返る、横を見たそのときに。自分を見守っていてくれる人たちを思い出す。そうでなければ、人間は生死を分けるとき、かんたんなほうを選んでしまう。

 生きることは戦いだ。そして、自分が帰るべき場所が無い人間は、本当の意味では戦えない。

 人はずっと自分を信じ、優しさを向けてくれていたのに。

 自分は、ちっぽけな強さだけを、幸福だけを求めて、自分一人だけで生きているつもりだった。

 昔から、強くなりたいと思っていた。

 けれど小さな体では、誰かを守るために手を広げても。結局何も守れやしない。

 弱い心は死を願い、そしてまた誰かを傷つける。

 沢山の人に生かされていたこの命の価値を、気づくのが遅れた私は、これからは罪を背負って生きる。


 貴方に伝えたい言葉がある。

 この心は、誰かの幸福を願う。

 この小さな体に宿る、溢れる想いを貴方に捧げる。

 貴方のことを忘れない。私を愛してくれた貴方を、私が貴方を愛していたことを。

 貴方は私の中で生き続ける。これから先も、ずっと。

 大地を慈しみ、土に染みわたる水のように人を育む。

 与えられた自分の属性の意味を、もう間違いたくはない。

 貴方のことを、愛している。

 どんなに傷付こうとも、私はきっとこの先も、人を愛さずにはいられない。

 人に裏切られても、私はまた人を信じたいと願うことだろう。

 誰かを失っても、また誰かと繋がりたいと思うことだろう。

 地に根を張り聳え立つ。この心は天を目指す。

 想いは、まるで樹が地面に根を張るように強く延び、私という人間を少しずつ変えていく。

 どうか貴方にも信じてほしい。

 私のこの思いが、誰かを守る力になることを。


 この世界には、体の弱い子どもが早世しないよう、逆の性別の名を与える風習がある。

 健康を願いこの名前を与えてくれた父や母が、私を見つめたあの温かい瞳。

 木陰に守られ生きるということ。私は今、それを感じて生きている。

 この体は小さい。

 きっとこの体では、誰かを身を挺して庇うことなんて出来ない。

 でも、この体に宿る心が、魔法となって誰かを守る。そんな力になるなら、私は大嫌いな私のことを、少しは好きになれる気がする。

 届かない青空に手を伸ばす。

 私を慈しんでくれた誰かの愛情が、今はこの心に宿り魔法を生みだしている。

 目を瞑る。彼は思う。

 もう間違わない。

 これからの自分は、誰かを幸せにするために、この力を使いたい。


 ――ごめんなさい。ありがとう。


 この手は空には届かない。

 それでも、託された想いや祈りはきっと、いつか誰かを空へと導くと信じている。

 未熟な自分は。

 もしかしたらまたこれからも、何かを間違えるかもしれない。

 誰かを傷付けて、泣かせることもあるかもしれない。

 でもそれは仕方のないことだ。

 人は未熟な生き物だ。

 誰だって。いつも正しいばかりの選択をして生きていくことは出来ない。


 もしかしたらいつかは、貴方以外にも愛しい人を、私は見つけるのかもしれない。

 生きている限り、人は誰かを思わずにはいられない。

 ――貴方のことを愛している。

 この心が変わることは無いけれど。

 いつか貴方が願ったように。私はいつか、違う誰かを愛せる日が来ると信じている。

 そして、もしそんな日が来るなら。

 私は、その可能性のある相手に、貴方が私にくれたあの葉を贈ってみようと思う。

 その相手が私ではなくても。

 自分の幸運を願うだけでなく、誰かに欠片を渡せる人がいい。

 そういう女性なら、自分はもう一度、恋をしてもいいと思えるかもしれない。

 今のところもうしばらくは、そんなと出会える気はしないけれど。

 もしそんな女性と出会えたら、私はその女性の幸福を、貴方のように願って生きようと思う。

 長い時を生きるこの命。

 その女性が瞳を閉じるその時まで、私はその女性の幸福を願って生きる。

 願わくばその女性の一番傍で、私も共に笑うことができますように。




「いつか、きっと。この病を治す薬を作る。どうか、力を貸してください――ティア」


 精霊晶。

 愛した少女の心臓の宿る剣。

 誰かを守るために剣を使うたびに、彼は彼女の心に触れる。

 人の命は失われても、人の心に人は生きる。


「貴方が愛したこの国を、私が守ると誓います。……この命が、続く限り」



 そうやって、命は巡る。








 ベアトリーチェ・ロッド。

 『神の祝福を受けた子ども』『国の未来を変える者』生後すぐにその肩書を与えられた彼の晩年の呼び名は『騎士伯爵』。

 騎士団に所属し騎士として生きたものの、伯爵として国家に尽くしたことを大きく評価されたことから、この名で呼ばれている。

 生前彼はよくこんなことを語っていたという。

「青い薔薇と赤い薔薇。二人の女性との出会いが、私の人生を変えた」と。


〇歳  『光の巫女』の予言を受け、蘇生。

六歳  ロッド伯爵家の門を叩く。

一〇歳 クリスタロス王国騎士団に入団。

一六歳 伯爵家の養子となる。

   植物園の管理を任され、青い薔薇の研究を開始。

二〇歳 騎士団長副団長に就任。

二三歳 青い薔薇を使った『精霊病』の特効薬の開発に成功

二四歳 騎士団長退団時、新しい騎士団長にユーリ・セルジェスカを指名。

二六歳 魔王討伐作戦に参加 魔王討伐に成功。……………………………………………………………………………………………







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