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苦楽を共にした相手とは真の友情で結ばれるようです。

 揺れる馬車の中で、ローズはアカリの話を聞いていた。

 真実を打ち明けた彼女の顔は、決戦前だというのに明るく、懸命にローズに自分の知識を伝えようとしては少し空回りしてしまっていた。

 人は簡単には変われない。

 人の評価を変えることは、きっともっと難しい。

 それでもローズは、彼女の成長を見守りたいと思った。


「乙女ゲームっていうのは、私の世界にある、男性キャラクターとの恋愛を楽しむものなんです。私はあまり体が強くなくて、恋とかそういうこともよくわからなくて」


 アカリの言葉は、ローズには理解できないものも多かった。

 ローズは相づちを打って話を聞いていた。

 ただ少しだけ、彼女の話で気になる言葉があり、ローズはアカリに尋ねた。


「……その、攻略対象? というのは、なんなのですか?」

「ええと。私がしていたゲーム『Happiness』には、主人公に恋をする相手は六人いるんです。五人は最初から開放されていて、魔王を倒したら最後の一人が開放されるっていうシステムで……」

 アカリは話ながら指を折った。


「台詞や行動の選択肢を自分で選び、望む相手と幸せな結末にたどり着く。これが乙女ゲームの最終目標です。選択を誤れば、badendという可能性もあるので、そこは注意しなくちゃいけなくて……」

「選択……」


「このゲームの中で、ローズさんはレオンさんの婚約者で。リヒト様はレオンさんのせいで自信がなく、ユーリさんは立場もあって、負けることに対してひどく怯えるキャラクターなんです。だから、主人公は彼らにこう言うんです。リヒト様には、『貴方には貴方のいいところがある』。ユーリさんにはお守りを渡して、『大丈夫』って言って。ローズさんのお兄さんはちょっと変わった方で……唯一主人公の心だけがわからないから、『運命だ』って言って口説いてくるキャラクターで。レオンさんは、ローズさんという婚約者がいるのに、主人公に軽口を叩いてきて。ローズさんは、ゲームの中でそんな私にいじわるをしてくる人で……」


「……」

 ローズはアカリの話を聞きながら、かつて彼女が自分のことを例えた言葉を思い出していた。


「ゲームの途中で召喚されたので、私はここまでしか知らないのですが……私の世界では、ネットの小説で『悪役令嬢』っていうのが流行っていたので、『悪役令嬢』が出てくるゲームっていうので噂にもなっていたようなんです」


「その、悪役令嬢というのは何なのですか?」

 ローズはアカリに尋ねた。


「『悪役令嬢』は、乙女ゲームの主人公に対していじわるしてくる貴族のお嬢様です。……私の世界では、そんな小説が流行っていたんです。だいたいは王子とか立場がある人と婚約をしているんですが、主人公をいじめるせいで王子から心変わりされて、没落したり追放されたり、悪いと死ぬっていうパターンもあるんですけど……って、あ! ……す、すいませんっ!」


 不吉なことを言ってしまい、アカリは慌てて謝罪した。


「こんな時に、すいません。ただ私、ずっと怖かったんです。この世界は、私の知るゲームの世界とは何かが違う。転生者の『悪役令嬢』の出てくる小説では、ヒロインが悪者になることがあるから。その場合badendは私の方。私は、ローズさんに糾弾されるのが……ずっと、怖かったんです」

「アカリ……」


「今はローズさんがそんな人じゃないって、ちゃんとわかってます。それに私、この世界が好きです。私はこれからも、この場所に居たい。ローズさんと一緒に、幸福な未来を迎えたい」


 アカリはそう言うとローズに笑いかけた。

 けれどローズは、彼女に笑みを返すことが出来なかった。


「……その世界では、魔王は居ても王子たちが眠りについていないんですね」

「はい」

「それは……きっと、楽しい世界なのでしょうね」


 その声は、少しだけ震えていた。


「……ローズさん?」

 アカリはローズの名を呼んだ。

 けれど返事がなかったため、アカリは話題を変えることにした。


「そういえばユーリさんって、今日は髪を結んでますよね。あれって、ローズさんがあげたものなんですか?」

「ユーリの髪紐は、私が以前渡したものですね。負けて死ぬのが怖いと言っていたので、お守りに魔除けとして赤い紐を手に結んであげたんですが……」


 ローズはアカリのために、笑みを作った。


「髪紐として利用しているのは少し驚きました」

「……」

 

 アカリはローズには告げなかったが、ユーリにお守りを渡すという行動は、『Happiness』であればヒロインの行動そのものだった。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 指輪の石が魔力を貯蔵し、共有するものであったように。

 聖剣に嵌められた石が『魔王の核』と同じ力を持ち、魔力を貯蔵する力があるならば、聖剣を使い魔王への王子たちの魔力の供給を、止めることが可能である可能性が高い。


 魔力の少ない者が持てば、聖剣は魔王に直接的な打撃と共に、魔王の魔力を奪う力となるかもしれない。

 調査の結果聖剣には、器に収まりきらない、回復する魔力を石に貯め込む性質があることが発覚した。


 強力な魔法を使わない限り、通常人は器に満たせない魔力をわずかにこぼす。

 聖剣は、どうやらその魔力を吸い取る力を持つらしかった。


 そして不思議なことに、聖剣は魔力を貯蔵出来るが、魔法を発動させるために使うことはできないこともわかった。

 つまり聖剣は、『魔力の貯蔵出来て鍵としては使用できる』ものの、魔法の使用には使えない。


 溢れた魔力を吸収する性質を持つ。

 それがおそらく、アカリが『誓約の指輪』だと言った二つの指輪と、聖剣の石の特性。

 指輪には更に、所有者の魔力の共有する能力が付加されていると考えられた。

 

 だったら数多くの王子たちが眠りに付いた今、彼らの魔力を魔王の回復に利用されるよりは、聖剣を使って力の供給を止めるほうが理に適う。


 魔王の力は、近ければ近いほど影響を受ける。

 もし石が、流れ出る魔力との距離が近いほど吸収力を上げるならば、聖剣を魔力の供給源の近くに置けばいい。

 この世界にある各国の王都に存在する神殿には、ある一つの共通点がある。

 それは各国の神殿に一つずつある水晶が、現存する限り唯一魔力をためおくことができる性質を備えており、光魔法のみだがその石を使い魔法が使えること。


 そしてその石は、かつては空をも貫く巨大な水晶だったと言うまことしやかな話があり、各国にあるその水晶は、もとは一つの石である場合の性質を備えているという点だ。


 言い伝えでは、「空を貫く同じ水から生まれた水晶は、その心を共にする」というものがあり、そのおかげか神殿の石は、他国との交信が可能だ。


 ただ、特定の国を指定できない機能でありすべての国に情報が伝わるため、この石の力は、有事の際にしか使われていない。


 ベアトリーチェはこの石を使えば、もしかしたら水晶を媒介にして、他国の王子たちの、魔王への魔力の供給を止めることができるかもしれないと考えた。

 特殊に特殊を重ねる行為だ。

 各国で生命維持のために神殿で眠る王子たちに水晶に触れてもらい、クリスタロス王国の水晶に聖剣を固定する。

 この作戦は成功した。魔王の巨大化が止まったのだ。


 聖剣を持たないローズには、代わりに騎士団で使われている剣が手渡された。

 今や彼女の力を、制限するものはない。

 測定が出来ない――その魔力を、強力な魔法に変換し彼女が戦えば、勝機はある。

 しかし同時に、ローズは魔王の格好の餌だ。

 彼女が魔王に取り込まれたら、この世界は終焉を迎えてしまうかもしれない。

 それを防ぐために、アカリは欠かせない存在だった。


 『光の聖女』は魔王と戦う者たちに、守護の魔法を与えてきたということが、世界の過去の事象、未来を記録する神殿の書物には書かれていた。


 彼女たちしか持ち得ない、力の名は『加護』。

 それは願いと祈りによって、世界を脅かす存在に対抗するために、身体能力の向上と、目には見えない防御壁を纏わせることのできる魔法だという。


 アカリはまだ、力を完全には使いこなせていない。 

 アカリの『加護』が破られたら、ローズは『魔王』に飲み込まれる。

 ローズの命は、アカリに預けられたも同然だった。


 アカリの手は震えていた。

 式典のときと同じように、失敗したらどうしよう? もし、今度失敗したとしても――今度は自分を支えてくれる人は、隣にはいてくれない。

 ローズは震えるアカリの手を、そっと自分の手で包んだ。


「ローズ、さん……」

「――いいですか? アカリ」

 自分を不安げに見つめるアカリに、ローズは静かな声で言った。


「魔法は、心から生まれます。自分を信じること。自分なら出来るーーそう、思うこと。貴女に足りないのは、自信です」

「自信……」

「大丈夫」

 ローズは優しく笑う。


「――貴方なら出来る」


 ローズの手は温かい。

 アカリはその温もりを、失いたくないと思った。

 自分は『光の聖女』。祈り、願うことしか出来なくても。それが誰かの役に立つなら。自分は願い、祈ろう。たとえそれがどんなに、叶えることが難しいことであっても。

 この思いは、届くと信じて。


「――はい」

 アカリは静かに頷いた。

「私が、ローズさんをお守りします」

 ユーリとベアトリーチェは、頷くアカリを見て、自分の剣を握る手に力を込めた。


 『天剣』、『地剣』。

 騎士団の双璧とされる二人の青年は、空を見上げていた。

 今回の魔王討伐作戦はローズ、アカリ、ユーリ、ベアトリーチェを中心に行われる。

  

 作戦はこうだ。

 アカリが『加護』でローズを守り、ベアトリーチェが土の階段を作りローズとユーリは魔王の近くまで近付く。

 ユーリに『加護』はかかっていないため、ユーリは自身の魔法の有効範囲ぎりぎりを見極め、ローズを魔王の核の上へと風魔法を使って押し上げ、ローズが核を破壊する。

 最後は、ローズ一人で核を壊さねばならない。

 

 ローズはいつもとは違う剣に力を込めた。

 全ての力を、一撃に込める。

 大丈夫。自分なら出来る。たとえお祖父のときのように、聖剣がこの手になくても。

 騎士団に入団したときと同じように――自分の力で、道を切り開く。

 そう思って瞳をとじて、彼女はゆっくりと瞼を上げ前を見据えた。


「それでは、始めましょう」

 『地剣』の作る柱が、空へと伸びていく。

 まるで天へと繋ぐ階段だ。

 ベアトリーチェが、『地剣』と呼ばれる理由はここにある。

 圧倒的な回復力を持つ魔力を以て、地形をも動かす力。

 しかしその力をもってしても、魔王の頭上には到達できない。

 『地剣』の力は天を目指せても、空に届くことはない。


「ローズ様!」

 続いてユーリの風魔法。ローズは加速し、空を飛んだ。

 ローズは魔王の攻撃のため、魔力を温存する必要がある。ユーリはそのためのアシストだ。

 魔王の腐食の力が、ユーリの服を僅かに溶かす。

 ローズを無事送り出したユーリは、後方へと下がった。


『僕の住んでいた地域では、お祭りの時に男装した女性が、神への捧げものとして剣で舞うんです』


 空を舞う。髪は宙で円を描いて、まるで神に祈りを捧げる巫女のようだ。

 神を呼ぶ舞。

 ローズはふと思い出す。

 『剣神』の名は嬉しかったけど、本当は少しだけ寂しくなった。


 神様なんていないと、どこかでいつもその存在を否定していたから。

 どうせ叶わないと諦めて、自分一人で何でもしようとしたから。

 でも、それじゃ駄目だった。何も変わりはしなかった。

 だからお願いーーローズは、心の中で呟いた。

 

 今もう一度、貴方に願う。

 貴方に願うことを諦めていた、私に力を貸して。私はとても弱いから、きっと一人きりでは世界を変えられない。

 泣いていいと人には言って、自分は泣くことなんてできず、苦しいときに私は、結局自分しか信じられなかった。

 これまでの、そんな弱い私に。

 神様、どうか一度だけでいい。

 ――愛する人と。彼らと守ると約束したこの国を、守る力を私に与えてください。


「この国は、私が守る」


 『剣神』は魔法を発動させる。

 天と地を繋ぐ、神の一撃。

 雷撃は、魔王の動きを止める。

 ローズは剣を振り下ろした。剣に雷をまとわせる。『加護』に守られたローズに、傷は生まれない。

 けれど。


「……っ!!」

 魔王の核は、世界中の魔力を吸っている。核は、ローズの力に対抗する力を発していた。その力は、ローズ一人の力より強かった。

 押し負ける。このままじゃ、私は……。


 ――死んで、しまうの?

 ローズは、アカリの言葉を思い出した。

 『悪役令嬢』の終わりは、決して良いものとは言えないようだった。高慢な彼女は、王子に婚約破棄されて、悪い時には死に至る。


 そんなのは、嫌。

 ローズはそう思ったが、今の彼女には、もう何も出来なかった。

 一日に使える魔力量は限られている。 

 測定不能とはいっても、それは彼女が、この世界では魔力を蓄えておける量が人より多く、強大な魔法を扱えるというだけに過ぎない。


 石に組み込まれた式は雷撃のみ。

 強力な魔法故に、どうせ使えないと他の魔法式は書きこまなかった。自ら敷いた背水の陣は、彼女に退路を与えない。

 甘かった。自分なら、魔王を倒せると驕っていた。その結末がこれだ。

 弱くなる心が、ローズの魔法を弱めてしまう。


「ローズさん!」

 核が壊れない。

 その様子を見て、アカリは彼女の名前を叫んだ。遥か上空にいるローズには、アカリの声は届かない。

 光魔法しか使えないアカリでは、物理的な魔法でローズを救うことは難しい。

 アカリは、懸命に祈りを捧げた。

 

 ――どうか、どうかこの世界で。ただ一人私を信じてくれると言ってくれたあの人を――ローズさんを死なせないで。どうか彼女に『加護』を与えてください。


 すると、その時。

 ――お嬢様!

 ローズにはどこからか、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 温かい。


「――ミリ、ア……?」

 指輪とは別に、腕に嵌められた一つの腕輪。

 不思議と今のローズにはその腕輪が、まるで自分の手を包み込むように温かく感じられた。


 気付く。

 いつだって貴方は、私を守ってくれる。そう、私は一人じゃない。

 神様に祈る前に、もっと早く気付くべきことがあった。

 それは――こんな弱い私を、信じてくれている人がいることだ。

 待っている。待っているんだ。

 私をここまで導いてくれた、送り出してくれた人たちが居るなら。私は、帰らなきゃいけない。


 失ったものがある。愛しい人との約束。そのために自分が苦しんできた、同じ痛みを。今度は私自身が、大切な人たちに背負わせようとしていた。


 どうして気付かなかったんだろう。

 『命が潰えても(しんでもいい)』という自分の思いが、言葉が、大切な人たちを傷付けてしまっていたことを。


『私はここでお嬢様をお待ちしております』

『貴方は、前線に立って戦うべき人じゃない。あの方だって、望まれない筈です!』


 ユーリの言う『あの方』が、誰なのか気付いていないふりをしたのは、自分の弱さを隠すためだ。


『お前なら出来るよ』

 優しい言葉をいつもくれた。

 頭を撫でて笑ってくれた。

 そんな大好きで大切な人が、たとえこの先も二度と目覚めなくても。

 自分を待っている、生きている人が居るならば、こんなところで死ぬわけにはいかない。


「……私は」

 ローズは剣を握る手に力を込めた。


「一人じゃない……っ!」


 ――信じられている。それに気付く、それだけで。どうして心は、こんなにも熱く滾るの?


 だからローズは、もう一度決意した。今度は揺るがないように。

 この体に宿る力の、その一滴まで。使い切ってでも倒してみせる。

 そして。

 生きて、彼らのもとに帰るのだ。

 魔法は心から生まれる。


「私は負けない」

 ローズは雷撃の威力を強め、そしてミリアの腕輪の式を展開した。

 ローズの剣はずんと重みを増して、核に力を加える。

 その様子を見て、『地剣』ベアトリーチェ・ロッドは口元を緩めた。


 ――これなら、戦える。


 バチバチという火花が強くなり、パキッという軽い音がして、『魔王』は霧散した。


「やった……!」

 ユーリは、魔王が崩れていく姿を見て思わずそう口にしていた。

 全て、これで終わりだ。誰もがそう思って疑わなかった時、ローズだけが一人、戦いを終えていなかった。

 魔王を倒し、ユーリの居る後方へ下がろうと思ったが、体が動かなかったのだ。


 ――駄目!

 体に力が入らない。まるで水の中で溺れるように、体の力が抜けていく。

 このままじゃ墜落する。

 ローズはきゅっと目を瞑った。

 死んでもいいと思っていた。それなのに今は、死がひどく怖い。


「ローズ様!」

 ユーリは彼女の名を叫び、墜落する彼女の体を受け止めた。


「ユー……リ……」

 先程まで強力な魔法を使っていたとは思えない。ローズの身体は、ユーリにはとても軽く感じられた。


「ローズ様。もう……もう、大丈夫、です」

 ユーリの声は震えている。

 傷だらけの自分を見つめて、今にも泣いてしまいそうな彼の声が、ローズの心に小さなさざ波を起こしていた。


 ――大丈夫。大丈夫だから。だから、だから泣かないで……。

 ローズは彼の頬に手を伸ばそうとしたけれど、体に力が入らなかった。

 ローズは霞む視界でユーリを見つめた。


 ユーリは、ローズにとって大切な幼馴染だ。婚約破棄されて落ち込んだ自分のために、求婚までして励まそうとしてくれた。

 ユーリは優しくて誠実な人だ、とローズは思う。

 彼は騎士で、今は自分の上司で。四つ年上の彼は、少し抜けているところもあるけれど、未熟で力不足な自分のことを、きっとこれからも精一杯守ってくれるような気がする。


「魔王は、もう居ません」

 彼は言う。


「貴方が、倒したんです」

「……いい、え……」


 ローズは途切れ途切れの、消え入りそうな声で否定した。

 今だからこそ、ローズは思う。

 独りよがりな自分を、変えていかなければ。

 一人じゃ何もできなかった。魔王を倒せたのは騎士団とアカリとミリアが――沢山の人達がいたおかけだ。

 自分は何もわかっていなかった。わかっているつもりでいただけだ。

 リヒトの言葉は、強ち間違ってはいない。


 ――弱さを肯定しない、認めないことが、きっとこれまでの自分に足りなかったこと。


「みん、なが……貴方が、いてくれた、おかげです」

 停滞していた物語を動かす。

 今は不思議と、アカリがこの世界に招かれたのは、そのためのような気がした。

 だからそう――どんな出会いも、無駄じゃないと信じたい。今の彼女は、そう思った。

 弱弱しく自分に微笑みかける初恋の相手に、ユーリは鼓動を速くした。


「ローズ様……!」

 感情が溢れてしまう。

 魔王は居ない。ローズが倒した。約束は、もう出来ないというのに。――気持ちが抑えられない。


「ローズ様。やっぱり、諦めるなんて無理です。力も、地位も。貴方に自分は足りないかもしれないけれど。それでも、それでも俺は……俺は、ずっと……ずっと、貴方が」


 ローズに対しては、いつも『私』というユーリだったが、今は取り繕うことなんて出来なかった。


「――貴方のことが、好きなんです」


「…………」

 ローズから返答はない。


「…………ローズ、様……?」

 ユーリは彼女の名を呼んだ。

「ローズ様、一体どうなされたのですか!?」

「ローズさん!」

 異変に気付いたアカリも駆け寄る。


「ユーリ、聖女様。……大丈夫です」

 動揺する二人とは対称的に、ベアトリーチェだけは冷静だった。彼はゆっくりと、ローズの元へと近寄る。

「ローズ様の魔力の器は大きい。けれど回復は、私のようにははやくない」


 ベアトリーチェはそう言うと、ユーリの腕に抱かれたローズの顔にかかった髪を、そっと指で払った。

 ローズは目を閉じていて、静かに寝息をたてている。


「大丈夫。分不相応な魔法は――と、以前仰っていたように、今は疲れて眠られているだけです」

 ベアトリーチェは微笑を浮かべ、子どもにするように優しくローズの頭を撫でた。


「――……よく、頑張られましたね」

 小さな声で囁く。

 これまで、ベアトリーチェはローズのことを、ユーリを通してでしか知らなかった。

 だからこそ彼は、彼女を戦わせることには反対だった。

 眠り続ける二人の少年。

 二人のことがあり、自分の命を捨ててでも国を守ろうと戦う彼女は、決して強くなんかない。死んでいいと簡単に口にする人間を、戦場に送るわけには行かない。そんな決意は、もろく瓦解するからだ。


 立ち止まって振り返る、横を見たそのときに。自分を見守っていてくれる人たちを思い出す。

 そうでなければ、人間は生死を分けるとき、(かんたんなほう)を選んでしまう。

 生きることは戦いだ。そして、自分が帰るべき場所が無い人間は、本当の意味では戦えない。


 この戦いで、彼女はそれに気づくことが出来たのだろう。

 ベアトリーチェは眠り続けるローズに、心の中で囁いた。


『ようこそ。クリスタロス王国騎士団へ。私はベアトリーチェ・ロッド。この騎士団の副団長をつとめております』


 彼女が目を覚ましたら、まずは自己紹介から始めよう。


 ユーリは彼の上司だが、年下だしローズには甘い。

 だからベアトリーチェは、自分だけはローズに厳しく接しなければならないと思っていた。

 それに今のユーリはきっと、ローズを失うことに耐えられない。


 かつて自分を倒した年下の少年。

 そんな彼に、『天剣』の名を与えたのはベアトリーチェ自身だ。

 そして前騎士団長に副団長に指名された彼は、団長が騎士団を去ったときに後継として、ユーリを指名した。


 誰を支え、導き、育てたいと思うのか。

 ベアトリーチェはユーリの未熟さを理解しながらも彼を選んだ。その未来に期待して。

 だから自分が騎士団長として選んだ器を壊すその存在を、目障りにも思ったことは否定できない。


『副団長として、私は貴方が騎士として生きることを認めることはできない』


 ローズにそう告げ、追い出そうかと思ったのも事実だ。

 でも、今は。

 今は彼女のことを、一人の騎士として認めたい――そう、彼は思った。


 騎士団の団員に仲間として認められるには、本当の意味で騎士団を支えているベアトリーチェに認められなければならない。

 ローズは本人の知らぬところで、彼の信を得ることに成功した。


「大丈夫。数日すれば元気になられます。だから、今はどうか――眠らせてあげましょう」

 彼はそう言うと、今度はアカリの方を向いた。


「聖女様」

「はっはい!」

 アカリは慌てて返事をした。


「ローズ様の回復は、貴方に頼んでもよろしいですか?」

「え?」

 突然のベアトリーチェのお願いに、アカリは目を丸くした。


「貴方が倒れられたときは、ローズ様がリヒト様の目を盗んで、光魔法をかけてくださっていたんですよ。そうでなければ、あんなに早く目覚められるはずがない」


 ベアトリーチェはアカリに優しく微笑んだ。

 厳しさと優しさを併せ持つ。

 そんな彼に微笑まれ、アカリはどきりと胸を高鳴らせた。

 ユーリより小さく幼く見えるベアトリーチェだが、見た目トは異なる落ち着いた雰囲気が、不思議な彼特有の色香を作り上げている。

 四人の中で本当は誰より年上の彼は、アカリがローズのことを見つめる瞳の優しさに気付いていた。


 敵対していた筈の二人の少女。

 騎士団に報告に上がった情報だけでは説明出来ない。何がきっかけで、アカリがローズに心を許したかはベアトリーチェにはわからない。それでも長く騎士団に在籍し、年下であるユーリの相棒として選び、騎士団を支えている彼の洞察力は伊達ではなかった。


「……わかりました」

 きゅっと拳を握りしめ、顔を上げたアカリを見て、ベアトリーチェは小さな子どもの成長を見守るような、優しい大人の目を向けていた。

 ユーリは心の何処かで、アカリを信じられずにいた。

 けれど年上の相棒に『貴方も』と目で促され、ユーリはアカリに頭を下げた。


「ローズ様のことを、どうか宜しくお願いいたします」

 アカリはまさかの相手からの言葉に、目を瞬かせた。

 不思議と力が湧いてくる。

 アカリはローズの親しい相手に認められたことが、心から嬉しかった。


「私に――お任せ、ください!」

 アカリはそう言って、満面の笑みを浮かべた。

 手のぬくもりを、忘れない。

 ローズが、自分を信じると言ってくれたその言葉が、今のアカリを強くしていた。


『貴方なら出来る』


 言葉は、自分とは違う誰かに伝え残すために、物や思いを、音や文字で表したものだ。

 ローズがアカリに伝えた言葉は、彼女が慕っていた兄から受け継いだもので、そのことをアカリは知らない。

 それでも言葉は受け継がれる。

 見えないところでそうやって、人と人は繋がっていく。

 時間も、空間も、飛び越えて。

 人と人との物語は重なる。


 アカリの笑顔を見て、ユーリもまた驚いていた。

 それは『光の聖女』アカリ・ナナセが、この世界に来て初めて、心から笑った瞬間のように彼には思えた。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「ありがとう。アカリのおかげです」

「ローズさん……」


 目を覚ましたローズは、自分の手を握ってずっと光魔法をかけてくれていたらしいアカリに礼を言った。

 一ヶ月くらいは寝込むのも覚悟していたが、体も軽いし彼女の反応を見る限り、そこまで時間は経っていないらしい。


「これからも私、ローズさんのためにも精一杯頑張ります!」

「頼りにしています」

「はい!」 

 アカリは元気よく返事をした。


 レオンたちとは違い、ローズは単に魔力の使い過ぎだ。

 ローズが眠っていた場所は、アカリの部屋の隣だった。

 本当は、自分がつきっきりで面倒を見るから、アカリは自分の部屋でローズに光魔法をかけたいと頼んだが、アカリが無理をしすぎる可能性への危惧と、聖女の部屋への出入りすることは周囲が気を遣うということで、隣の部屋になったとアカリに聞かされたときは、ローズは少し笑ってしまった。


 今の彼女は、心から自分のことを思ってくれているのだと――そう、わかって。

 話をしながら、二人は部屋の外へ出た。 

 

 ローズは目を細めた。

 久しぶりに見あげた空は、どこまでも遠く高く、澄んで見えた。

 それはまるで自分がこの世界にとって、ちっぽけな一人の人間にしか過ぎないと告げるように。

 人は神様にはなれない。一人きりの力では、世界は変えられない。

 今の彼女はその事実を、自然と受け入れられる気がした。


「そう言えば」

 その時ローズはふと、最後のアカリへの疑問を思い出した。


「……アカリ。貴方に対してあと一つだけ、疑問に思っていたことがあったのですが聞いてもいいですか?」

「はい。なんですか?」

 アカリはきょとんとした顔をしていた。


「パーティーの日に、貴方が泣いていたのは何故ですか?」

「……それは」 

  

 ローズの問いに、アカリの表情が少し曇る。

 アカリは、自分より身長の高いローズに少ししゃがむよう手で合図をすると、ローズの耳元で真実を打ち明けた。


「もともと私はゲームの中でしか男の人を知らなくて怖いというのもあるんですが、この世界に来てちょっと困った体の変化が一つだけあって。実は男の人に肌を直接触れられると、泣いてしまうんです……」


 アカリはそれだけ伝えると、顔を赤くしてローズから離れた。


「え?」

 ローズは予想していなかった答えに思わず声を漏らした。

 ――それでは、あの日の彼女の涙は……。


「あの日はリヒト様に顔を触られたので……」

「…………そういえばそうでしたね」

「となるともしかして、魔王討伐の際の人選は、自分に触らない可能性が高い人間ですか?」

「配慮してくれそうな人なら平気かなって……大勢の前で泣くわけにもいかないですし……」


 アルフレッドは明らかに誤解していたし、自分も誤解していたし、このことは周りに明らかに方がいいのだろうか? ローズがそんなことを考えていると。


「アカリに触れるな!」

 叫ぶリヒトの声が聞こえて、ローズは背後を振り返った。


「見て見ろ。泣いてるじゃないか!!」

 リヒトは今、アカリに触れている。


「リヒト様」

 どうせ頓珍漢なことを言う彼のことだ。

 アカリがローズに光魔法をかけていたのだって、敵にも優しい『光の聖女』は流石だとか思っているんだろう。

 ローズは彼を見ながら、冷ややかな心で彼の間違いを予測していた。

 真実を知った今のローズは、少しだけリヒトにむかっときていた。

 彼が傷付くかもしれないが、本当のことを教えなくては気が済まない。


 ――アカリがなんですって? ……そんなの、貴方が勝手に思い込んでいるだけ。貴方は、彼女と心で結び合ってなどいないのですよ。

 そう思う今のローズは、多分彼女にしては珍しく、いじわるたっぷりの『悪役令嬢』に違いなかった。


「アカリが泣いているのは貴方のせいです。アカリは男性が怖いそうで、触られると泣いてしまうそうですよ」


 正しくは、この世界に来て唯一の、彼女の体の異常らしいけれど。

 ローズのことを、全て正しいと肯定する人間は沢山居る。

 けれど彼女自身は、自分が抱えるものが、正しいものばかりではないと気付いていた。

 自分はきっと、強くない。強くあろうとしているだけ。だからこそ心の何処かで、誰かに怒ったり、妬んだりする心が無いとは言えない。

 婚約破棄されたあの日。

 自分が口にした言葉はきっと、強がりだったのだろうとローズは思った。


 魔法は心から生まれる。全属性に適性を持つということは、人より深く多くの感情を抱いてしまうということだ。

 清廉なばかりでは居られない。

 ローズだって、いろんな気持ちを抱えて生きている。


「え……」

「……じゃあ、あの日、アカリが泣いていたのは……」

「リヒト様が顔を触ったからです。――さぞや、怖かったことでしょう」


 皮肉たっぷりにローズは言う。


「で、でも! 服を掴んでくれていた!」

「予想でしかありませんが、手を繋ごうといって拒否されて、袖を掴むということで落ち着いたのではありませんか? リヒト様はアカリが照れて手を握らないのだと勘違い、とか……」

「……」

「そのお顔ですと、正解のようですね」


 はあああと、ローズは大袈裟に溜息を吐いた。


「リヒト様はどうやら、弱者の気持ちは分かっても、恋心を理解するのは苦手なご様子ですね」

「そ、そんなわけ!!」


 リヒトは慌てた。彼女が自分に告げた言葉で、自分の世界がひっくり返されてしまう。


「あ、アカリ……」

 リヒトはローズの隣にいたアカリに視線を移して尋ねた。


「アカリは……俺のこと、好きだよな……?」

 アカリは視線を逸らした。

 ローズに真実を話して和解した今、アカリが自分の気持ちを偽る必要はなかった。


「リヒト様」

 ローズは、冷ややかな声でかつての婚約者の名前を呼んだ。


「まさかとは思いますが、あのパーティーの前にも、同じことを彼女に訊ねたわけではありませんよね?」

「……」

「異世界から召喚されて、頼る相手の無い彼女です。仮にも一国の王子である方にそう訊ねられたら、否定する方が難しいのではないでしょうか」

「そんな……」

「ろ、ローズさん!」


 リヒトは呆然とした。

 そんな彼を、アカリは更に絶望に突き落とした。


「私、ローズさんと一緒にいたいです。ずっと一緒に過ごしたいです。私を傍に置いて下さい。……邪魔は、邪魔はしませんから!」


 そして『ヒロイン(アカリ)』は、敵である筈の『悪役令嬢(ローズ)』に縋りついた。


「アカリ、辛かったですね。大丈夫です。これからは、私が貴方の味方です」


 よしよし。

 自分に抱き付くアカリの頭を、ローズは優しく撫でる。

 アカリの頬が少しだけ赤く染まる。

 何故二人がこんなに仲良く? そしてどうしてアカリは照れているんだ……? 自分はアカリに碌に触らせてもらえなかっただけに、リヒトは呆然と二人を見つめていた。


「リヒト様」

 ローズはアカリからリヒトに視線を戻した。


「今度私の友人を泣かせたらどうなるか……リヒト様であろうと、容赦は致しません」

 強い意思を感じさせるローズの赤い瞳に睨まれて、リヒトは蛇に睨まれた蛙宜しく体を硬直させた。


「……!」

 ローズが本気を出せばリヒトは一瞬でやられる。

 蛇に丸のみにされる蛙のように、リヒトには成す術がない。

 そんな圧力を感じて、リヒトは沈黙を続けるしかなかった。

 するとどこからか丁度、彼を揶揄するかのように声が聞こえてきた。


 いやはや。同類を憂う仲間意識は、種族をも超えるらしい。リヒトの瞳によく似た色の蛙は、ぴょんぴょんと跳ねながら、鳴き声を響かせる。

 ゲコ、ゲコゲコ。ゲコゲコゲコゲコ。

 蛙はリヒトの周りを飛び跳ねる。

 リヒトはかんに触るも、むやみやたらに生き物を殺せるような人間でもなく、下を向き恥辱に震えていた。

 その光景の、滑稽さといったら。

 王族を嘲笑するような不敬は誰もしなかったが、彼の立場さえなかったら、今頃爆笑だったにちがいない。

 ただ発端となったローズは、気が晴れたのか満足した顔をしたのちに、どこか寂しそうに目を細めた。

 彼女に抱き付いていたアカリは、ローズの変化に気付いて少し顔を上げてから、微かに胸が痛むのを感じた。




 ひゅ――おおおおおお――――。

 どこからか生き物の鳴き声が聞こえ、空に浮かぶ日輪を、巨大な翼が隠す。

 けれどそれは魔王ではない。

 翼を羽ばたかせる音を聞いて、ローズたちは手で陽の光を隠しながら空を見上げた。


「――え?」

 ローズは顔を僅かに顰め、アカリは大きく目を見開く。

 そこにいたのは沢山の翼を持つ生き物たちと、眠りについたはずの各国の王子たちだった。

 国を負うに相応しい、見目美しい顔をした青年たちは、ローズとアカリに向かって口々に言う。


「『光の聖女』アカリ・ナナセ様! 『剣神』ローズ・クロサイト様!」

「どうか我が国に来ていただきたい。貴方方は、私の命の恩人です」

「是非。私の国に!」

「どうか私と――結婚してくださいませんか?」


 ローズはとっさにアカリを抱き寄せた。

 男が怖いという彼女を、ましてや触られたら泣いてしまうという彼女を、一人他国の王子に嫁がせるなんて、ローズには出来ない。


「申し訳ございませんが、お断りいたします」

「ろ、ローズさん……?」

「私はこの国から出るつもりはありませんので。……そして、彼女も」


 ローズ様はアカリを自分へ引き寄せ、そして微笑んだ。


「私は彼女と共にこの場所で、この国を――世界を守ります」

 その光景はまるでおとぎ話のハッピーエンドで、王子が姫に愛を誓う場面のようだった。


「ローズさん!」

 ローズはアカリに両手を包まれ、乙女のきらきらした瞳で見つめられ少し動揺した。


「……アカリ?」

「私、決めました。これからはローズさんとtrueendを目指して頑張ります!」


「?????」

 ローズは意味が分からず首を傾げた。

 そこへ眠っていたローズが目覚めたとの知らせをきいたミリアとユーリが、遅れて駆けつける。


「こ、これは一体、どういうことなのですか……?」

「しかし、彼らが目覚めたということはつまり……」


 ミリアとユーリは、目の前の光景に目を丸くした。

 何故他国の王子たちがここにいて、そして何故アカリがローズに迫っているのか二人にはいまいち理解できなかった。


「ローズ」


 その時だった。

 ローズの名を、誰かが優しい声で呼んだ。

 忘れられるはずがない。ローズは振り返って、愛しい彼らの名を呼んだ。


「お兄様……? レオン様……?」


 十年間待ち続けた。その願いがやっと――……。

 泣きそうになるローズに、兄であるギルバートは優しく笑みを作った。

 そうやって瞳だけで心を通わせる二人とは異なり、リヒトの兄レオンは、一歩前に足を踏み出して言った。


「ただいま。留守を任せて、悪かったね」


 リヒトの兄、レオン・クリスタロス。

 彼の後ろには、軍服に身を包んだベアトリーチェが控えていた。

 弟であるリヒトとは違い、王族としての美貌と気品を兼ね備えた彼は、自らの不在をそう述べる。


 ここは自分の国で、次の王は自分だと。そうみなに告げるように。

 彼の言葉に、その場に控えていた人間たちは目を見張った。

 金の髪に紫の瞳。

 光を浴びてきらきらと輝くその姿は――まさに『先導者』と呼ぶに相応しい。

 ベアトリーチェはレオンに膝をついて首を垂れた。レオンを囲む騎士たちも、次々に彼に倣う。


『やっと王が。次の王が、帰還なされたぞ』

 その光景を見たリヒトには、彼らの心の声が聞こえるような気がした。

「ただいま。――リヒト」

 たった一言で人々を従えさせたレオンを前に、リヒトは動けずにいた。


 ずっと待っていたはずなのに。兄が帰ってきて、みんな喜んでいるはずなのに。胸が苦しいのは、どうしてだろう?


「おかえりなさいませ。……兄上」

 リヒトは後ろめたさで、レオンの顔を真っ直ぐ見ることが出来なかった。

 ただ彼に出来たのは、レオンの前に膝をつかずに、立ち竦むことだけだった。

 膝をつくのは、王のすることではない。

 服従の意を一瞬でも示せば、牙は喉元に食らいつき、リヒトは簡単に負けてしまう。そして、彼の糧にされてしまうのだ。リヒトの居場所を奪い、自らが次期国王となるための。


 『百獣の王(レオン・クリスタロス)』。

 王となるべくして生まれたような、そんな名前を持つリヒトの兄は、弟を見てふっと笑った。

 どうやら弟は、自分と戦うつもりでいるらしい。

 けれど弱者の精一杯の抵抗なんて、絶対的な強者の前には、ただの悪あがきにしかうつらない。

 それが価値のあることなのか。それとも愚かなことなのか。

 答えはまだわからない。

 二人のどちらが王になるのか――未来はまだ、決まっていないのだから。



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