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氷炎の王子

レオンの過去編です。

 いつだって、能力ちからを肯定する言葉や評価基準かちは、この世界に山程あった。

 けれどそれは、自分が本当に望んでいたものとは、いつも遠いものだった。


◇◆◇


「レオン様はまさに、ぎょくのようなお方ですな」


 異世界の記憶をもって、世界に新しい価値を伝える『異世界人まれびと』。

 レオンは幼い頃、クリスタロスを訪れたある異世界人まれびとから、そんな言葉をかけられたたことがある。


「玉?」

「はい」

 言葉を繰り返し、子供らしく首を傾げたレオンを見て、老人はくすりと笑った。


「玉とは美しく、素晴らしい宝のことを言うのです。私の昔生きていた世界では、『玉石混交』という言葉もありまして、宝石と塵芥――同じ『石』でも、まるで違う。『玉に瑕』という言葉があるように、玉は傷のない完全なものであるがゆえに、価値がある。ですから、『完璧な王子』といわれるレオン様は、まさしく玉のようなお方であるように思われます」


 眠りにつく前、レオンは『氷炎の王子』と呼ばれていた。

 世界で一番完璧な王子様。

 一〇年間のハンデがあっても、多くの人間が追いつけなかったほど、『レオン・クリスタロス』は昔から、優秀な人間だった。


「玉璽、玉座。たま。玉という字は、まさしく国を導く、天より与えられた者にこそ、相応しい文字といえましょう。貴方さえいらっしゃれば、この国は安泰ですな」


 宝石の産出国。

 クリスタロスという国の名から、老人がそう自分に向けた輝かしい未来への祝辞は、幼いレオンは、重い足枷のように思えた。


「レオンは本当に何でもできるのね。凄いわ」

「母上。あまり、無理はなさらないでください」


 病弱な母。

 心配性の彼女が、息子である自分の世間からの評価を褒めてくれる時間が、レオンはとても好きだった。

 優しく頭を撫でてくれる人。白百合のような人。

 王から贈られた彼女の所持品には、百合の飾りが施されていた。


 生まれつき、魔力が高い人だった。

 だが不幸なことに昔から体が弱かった。強すぎる力は彼女の体を蝕み、リヒトを産んだせいで王妃は以前より衰弱したと、周りの大人たちは隠れて話していた。


『出来損ないの第二王子。あの方さえ産まなければ、王妃様は……』


 心無い言葉を吐く人間を、弟のそばに置くわけにはいかない。

 レオンは弟に悪意を持つ人間を、弟の周りから消すことを心に誓っていた。

 だが王子である自分が、父に告げ口する形でら立場を奪うことは避けたかった。

 だからレオンは相手がわざと失態をするように仕向け、彼らをリヒトの周りから排除した。


「貴方は、とても優しい子ね。でも、人に恨みをかうようなことは、少し控えたほうがいいかもしれないわね」


 知ってか知らずか、母はある日レオンにそんなことを言った。

 白く細い手がレオンの頬を包む。


「リヒトはとても弱いから。だから貴方が、この国を守ってね。でも、レオン。貴方が、傷付くのも私は嫌よ?」

「安心してください。リヒトのことは、僕が守ります。王族としての仕事も、僕が完璧にこなして見せます」

「……ええ、そうね。私の完璧な王子様。貴方ならできるわ」


 レオンが胸に手を当てて言えば、レオンの母は少しの沈黙の後、小さく笑ってそう返した。

 彼女はその頃外を歩くどころか、寝台から起きることすらままらなくなっていた。


「はい。母上」

 母に心配をかけないように、レオンは彼女に笑いかけた。


 レオンが公爵家を訪れ、『剣聖』グラン・レイバルトから訓練を受け始めたのは、まだ母が存命の頃だった。

 グランはアルグノーベンの血に連なる子どものユーリを弟子に迎え入れ、レオン・ギルバート・ユーリの三人は、グランから剣を教わることになった。

 兄たちが鍛錬を積む隅で、ローズとリヒトはミリアの監視のもと仲良く過ごしていた。

 その少し前から、レオンとリヒトは公爵邸を訪れていた。


「ローズちゃん、とっても魔力が強いそうね。私のようにならないか、とても心配だわ」


 ある日、彼女はレオンにそんなことを言った。

 赤い薔薇のような、その魔力。

 ローズ・クロサイトは、産まれたときから優れた能力をその身に宿していた。


「こげる!」

 だが母と違い、ローズはいたって健康で、その頃は稀に魔法で失敗しては、周りを困らせていた。

 ローズが魔法で作った火は、リヒトに燃え移る。


「動くな! リヒト!」

 ギルバートの水魔法がリヒトを襲う。


「も、もやされるかとおもった……」

 びしょ濡れになったリヒトに、レオンはタオルを被せた。


「駄目だよ。ローズ。魔力はちゃんと操作しなくちゃ」

「ごめん、なさい」

 レオンはローズを窘めた。


 ローズの祖母が先王の妹であったことから、王家と公爵家の子供は幼いころから親交が深かった。

 ローズとリヒトは、レオンやギルバートよりは言葉が遅かった。

 それでも、二人は早いほうだと周囲の大人たちは話していた。レオンは、自分やギルバートが異質な存在だということを後から聞いた。

 そしてその度に、誰もがレオンを『流石、賢王レオンの生まれ変わり』と褒め称えた。


 生まれたころから魔法は使えた。

 炎と氷。

 対極をなす二つの力に恵まれて、知能も高く容姿も優れている。それは絶対的な自信となって、レオンの魔法を強くした。

 ある日、公爵家の図書室で過ごしていると、ギルバートはレオンに手紙を見せながら言った。


「今度、アルグノーベンから新しいメイドが来ることになっている。ついでに、お祖父様が弟子を招くらしい」

「弟子?」

「ああ。風魔法の使い手らしい。メイドは俺付きになるときいたが、ローズについてもらおうと思っている。俺とお前はともかく、この二人を、このままにしておくわけにもいかないだろう?」


 ギルバートの視線を辿り、レオンはローズと一緒に本を読んでいたリヒトに話しかけた。


「リヒト。君は今日外国語の勉強だったはずだよね? 何故ローズと一緒に魔法の勉強をしているのかな?」

「ぼくもまほうのべんきょうがいい!」


 リヒトに魔法の才能はない。

 レオンは、本を手放そうとしない弟を見て苦笑いした。それから、自分の鞄の中に入れていた本を、リヒトに差し出した。


「……なら君にいいものを上げよう」

 それは赤地に、金の装飾の施された本だった。


「これは、誰も読めない本」

「え?」

「この本を読むには、あらゆる精霊言語・まれびとの言葉を理解している必要があると言われている。精霊の言葉は、世界各地の言語のなかにその名残があるから」


 魔法が使えないならせめて、クリスタロスの王子としてリヒトが恥ずかい思いをしなくていいように、レオンはリヒトが世界の言葉や文化を学んでくれることを望んだ。


「じゃあ――このせかいにあるぜんぶのことばのべんきょうをすれば、まほうのべんきょうになるってこと!?」

「あくまで僕の仮説だけどね。でも、そんな特別な本をリヒトが読むことが出来たら、きっと誰もがリヒトはすごいって思うだろうね」

「ほんとう? じゃあぼく、このほんをよむために、いっぱい、いっぱいべんきょうする!」

 赤色の本を抱いて、リヒトは満面の笑みを浮かべた。

 


「彼が、今日から一緒に学ぶことになったユーリ・セルジェスカだ」


 ユーリがグランと一緒に屋敷にやってきてから、ギルバートとレオンの本格的な訓練が始まった。

 ユーリは自分やギルバートと比べ少し幼いようにレオンは感じたが、それでもローズとリヒトに対しては、『年上らしい』人間だった。


「ローズ様は可愛いですね」

「お嬢様に餌付けしないでください」

 ユーリは最初から、初対面のローズに対して好意的だった。


「ミリア、剣を向けるな!」

 ミリア・アルグノーベンと、ユーリ・セルジェスカは従兄弟だった。


「ミリア。今日も元気いっぱいで可愛いな」

 そして幼馴染みのギルバートは、何故かある日を境に『ミリア・アルグノーベン』に対して好意を示すようになった。


「わあ!」

「リヒト様。あまり一度に思いものを持つのは危ないですよ」

「ありがとう。ユーリ」

 リヒトが庭で本を読もうとして、何もないところで転べば、すぐにユーリが駆け寄った。

 新しくできた優しい『兄』に、幼いリヒトはとてもよく懐いた。



「リヒト、怪我をしたの? まあ、可哀想に。お母様がそばにいますよ」

「ははうえ」


 夜。

 きつい訓練を終えてから、レオンが母と話すために私室を訪れれば、先客がいてレオンは部屋に入れなかった。

 三人が優れた能力を持ち合わせて居たせいでグランの剣の指導は厳しく、まだ幼いレオンの体には、傷が耐えなかった。

 ユーリもギルバートも泣き言一つ言わないのに、王子であるレオンが、つらいと口に出すことは難しかった。

 いつも自分たちの訓練を眺めながらローズと本を読んでいただけのリヒトは、うっかり転んで出来た傷を母に見つかって、優しく頭を撫でられていた。


「レオン。きてくれたの? 貴方も、こちらにいらっしゃい」


 レオンに気付いた母が、そう言って手招きした。その手に、幼い弟を抱いて。

 レオンは手が震えた。そしてその光景を見ているだけで、涙がこぼれそうになって居る自分に気がついた。


「用を思い出しました。……また、後で参ります」

「レオン!」

 自分を引き詰めようとする母に背を向けて、レオンは一人自分の部屋に戻った。

「……あれくらいの怪我、なんでもないじゃないか」

 そう呟いて、レオンは自分の弱さに気付いて吐き気がした。


 ――結局、『手のかからないいい子』の僕と、『手のかかる』弟では、両親は弟の方が目について。温かな手も優しい笑顔も、誰も自分には向けてはくれない。


 そしてそれは、幼心に思っていた相手でさえも同じだった。


「どうして、ぼくは……僕は、出来ないんだ」

「……リヒト様に、お渡ししようかと思ったんです」

 一人で泣いているリヒトに、ローズは花を差し出そうとしてやめた。


「でも、私が花を渡しても、何も変わらない」

「お嬢様……」

「私は、リヒト様のために何も出来ない」


 無能な弟を、才能ある幼馴染が少なからず思っていたことは知っていた。

 けれどその事実を、レオンは鈍感な弟に告げてやる気持ちにはなかった。そしてその感情を何と呼ぶのか、幼馴染に教えてやる気もなかった。


「どうしてみんな、リヒトばかり」

 差し出されずに枯れてゆく。

 花の行方を、レオンは見守ることしか出来なかった。


 『賢王』レオンの生まれ変わり。

 次期国王としての才能を期待される日々の中で、雑念を払うようにレオンは意識を失うまで魔法を使う日々を繰り返した。

 愛しい誰かに向けて伸ばそうとした手で、誰かを傷付けたくはなかった。

 結果として魔力は増え、『レオン・クリスタロス』の名声はより高まることになった。


「駄目だ。……こんな感情は、僕にはいらない。僕がこの国を守らなきゃいけない」


 周りの人間は、誰もが弟に手を差し伸べる。

 自分に手を差し伸べてくれる人間なんて、この世界にはいない。

 ――それでも。

 強くならねばならない。誰にも後ろ指をさされぬように、誰の手を借りることもなく生きていけるように。


 ――傷一つない玉のように、自分は『完璧』でなくてはならない。


 誰もがそう望んでいる。そうでなければ自分に価値なんてない。

 『賢王』レオンの力を継ぐ王子。この国のために自分が求められる『自分』。

 けれど幼くして求められすぎた代償は、レオンの幼い心を蝕んで、ふと押した瞬間に、無意識に涙がこぼれることもあった。

 誰にも気取られてはならない。

 そう思っていたのに、ある日リヒトに見られてしまった。


「兄上、泣いていらっしゃるのですか?」


 レオンは慌てた。

 こんな情けない姿、弟に見られるなんて最悪だと思った。

 母や父に弟が告げ口しないだろうか。そんな考えが浮かんだレオンに、リヒトは手を大きく広げて言った。


「いたいの、いたいの、とんでいけー!」


 弟の行動が理解出来ず、レオンは目を丸くした。

「ぎる兄上がおしえてくれたんです。僕にもつかえる、魔法だって」

 リヒトはそう言うと、上目遣いでレオンに尋ねた。


「兄上。いたいの、なくなりましたか?」

 その笑顔を見たときに、レオンは思わずリヒトに手を伸ばしていた。 

 小さな体を、ぎゅっと抱きしめる。


「……あの、あにうえ?」

 目を丸くする弟からは、自分に対する悪意は何も感じなかった。

 ただ小さくて、弱くて、柔らかくて。

 優しい温もりと、少し滑舌の悪い子どもらしい声だけが、弟を構成する全てに思えた。


 ――馬鹿だ。僕は。こんなに優しい子を妬んで、責めて……。それが、一体なんになるというのだろう?


「ああ。リヒトのおかげで、ね」 

「よかった!」

 レオンがそう言えば、リヒトは心から嬉しそうに笑った。

 そして弟はそれからたまに、夜のレオンの部屋にやってきた。レオンは夜が嫌いだったが、弟の体温を感じると、不思議とよく眠れる気がした。



 初めてリヒトと夜を過ごした日のこと。

 レオンは聞き慣れない生き物の声が聞こえた気がして、リヒトを寝かせて一人城の中の庭に降りた。

 庭には小さな池があった。

 池には月が映っていた。水面には季節外れの、薄桃色の花びらが浮かんでいた。

 レオンが池に近づけば、どこからか不思議な少女の声が聞こえた。


【貴方は、何を望む?】


 それはあまりに透明な、まるで踏んだら壊れる薄氷のような、冷たさと神々しさをはらんだ声だった。


 ――自分は、夢を見ているのだろうか?


 レオンはそう思って、生まれて初めて、自分の中に生まれた『願い』を口にした。


「強くなりたい。僕は……この国を、弟を守れるだけの、力が欲しい」


【ならば授けましょう。貴方に。貴方を守る、夜のとばりを。相応しき者よ。貴方の力を示しなさい】


 その瞬間、薄桃色の花びらがレオンの視界を覆った。


「わっ!!」

 思わずレオンは手で顔を押さえた。そして彼が、風が収まったことに気付いて手を離すと――そこには、光る一つの卵があった。


「これ、は……? 光る……月の、石?」

 レオンがそれに触れると、断面に亀裂が入った。


「うわっ!!!」

 卵の中には、真っ黒な鳥の雛がいた。

「どうしよう。大人に知らせないと……!」


「ぴぃ……」

 そう呟いて、けれど弱々しく鳴く鳥の声に足を止めた。


「だめだ。その間に死んでしまうかもしれない……! 僕が、僕が助けないと……!」

 光魔法は、力の循環を司る。レオンに光魔法は使えない。

 その時レオンの中に、ある考えが浮かんだ。


「僕は、君と契約する。僕の魔力、全部君にあげる」


 死にかけの生まれたばかりの雛に、自分の魔力を与えて生かす。レオンはありったけの魔力を、その雛に与えた。

 そして彼の記憶は、一度そこで途切れた。


「……? ここは、僕の部屋の……」

 目を覚ましたとき、黒鳥はレオンを守るかのように羽でレオンを囲っていた。

 そして彼は、自分を見守る巨大な黒鳥をみて目を瞬かせた。


「……ずっと、そばにいてくれたの?」

 鳥は静かに頷いた。


「ありがとう」

 レオンが羽を撫でると、黒鳥は身を屈めた。


「乗れってこと?」

 黒鳥は静かに頷く。


「わっ!」

 黒鳥はレオンをのせると、空高く舞い上がった。


 夜の空中散歩。

 それは幼い頃のレオンのどの記憶よりも、幻想的で、美しい光景だった。


「月の光が、こんなに大きく見えたのは初めてだ」


 その日レオンは、初めて自分の国を見た。

 空から見下ろすクリスタロスは、月の光を浴びて、山がまるで宝石のように光り輝いて見えた。

 精霊晶は、月の光を浴びて光り輝くとされる。

 だからこそ――異世界の『紫水晶アメジスト』の名前の由来もあって、精霊晶は月の女神の力でこの世界に生まれたとも言われる。

 

「この国は、美しい」

 それは、心からの思いだった。


「僕は、この国を守りたい」

 それは、心からの願いだった。


 でも、とレオンは思った。

 自分は未熟だ。しかし自分のことをみんなが『賢王』の生まれ変わりだという限り、自分は『完璧』でなくてはならない。王にも、玉にも。一つの傷もあってはならない。そんな『自分』を演じるには、まだ力が足りないことをレオンは理解していた。


「君も協力してくれる?」

 レオンが尋ねれば、黒鳥は頷いた。

「ありがとう」

 レオンは夜色のその生き物に手を伸ばし、ぎゅっと優しく抱きしめた。


「流石レオン様! レイザールと契約をなさるとは!」


 レオンが黒鳥の名前を知ったのは、翌朝のことだった。

 レオン・クリスタロスの契約獣は、レイザールである。

 この事実は、すぐに世界中に周知された。


 『世界で一番完璧な王子様』

 やがてレオンは、周囲にそう評されるようになっていった。


「兄上は、僕の自慢の兄上です!」

「ありがとう。リヒト」

 リヒトは兄がレーザールに選ばれたことを、心から喜んだ。

 『誰かの自慢』

 もしそんなものがこの世界にあるなら、レオンはリヒトの笑顔を見て初めて、そんな自分であることを心から誇らしく思えた。



 けれど能力の高い第一王子だからこそ、周りの大人たちはレオンとローズの結婚を望んだ。


「魔力の高いローズ嬢ならば、レオンと共にこの国を任せるのに相応しい」

「ええ。レオンとローズちゃんなら、私も安心だわ」

「レオンの婚約者として、彼女には、王妃としての教育を受けてもらおう。いいな? レオン」

「――はい」

 レオンは父である王を前に、そう返事をすることしか出来なかった。

 もうすぐ、自分と彼女の婚約が発表される。そんな中、レオンはリヒトのある絵を見てしまった。


「リヒト、何を描いているの?」


 何も知らない幼い子供。

 リヒトの持つ絵には、金色に碧の瞳の少年と、黒髪に赤い瞳の少女が描かれていた。


 ――駄目だ。君とローズの結婚は認められない。ローズほどの能力を持つ人間と、無才の弟との結婚を、おうが許すはずがない。


 その絵を見たとき、レオンの中に浮かんだのはそんな言葉だった。


「王には、力が必要なんだ。そして妃も、同じように力を望まれる……魔法が使えない限り、君を父上は認めてくださらない」


 今思えば、弟の思い描いた未来への希望ねがいに気付いた日が、レオンにとっての苦悩の日々の始まりだった。

 リヒトの夢を、自分は奪う立場にあると自覚した日から、レオンはリヒトたちを、『正しく』導くことを決めた。

 ローズがリヒトを思っていたことは気付いていた。

 それでも、だからといって立場がある人間が、生まれ持った責任を放棄することは、許されないことだとも思った。


 ローズと自分が結婚することが、この国にとっての『正解』だ。 

 だからこそ、リヒトが傷つくと自覚しながら、レオンは幼馴染みに話をした。


「僕がこの国の王となって国を守ろう。僕は優秀だからね。僕以上に相応しい人間は居ないだろう?」

「俺はこの目をこの国の為に使う。それが俺の役目だ」

 最も信頼を寄せていた幼馴染みは、レオンに賛同した。

「私も公爵令嬢として、お兄様と一緒にこの国の為に力を使います!」

 兄思いの幼い少女は、兄の言葉にならう。

「私は、騎士になって、この国を守ります」

 剣聖に認められた才能のある少年は、剣を手に誓う。


 それは四人だけで、完成された未来の話。


「僕としては、ローズが僕の王妃になってくれたら助かるなあ。僕が王様でギルが宰相で、ユーリが騎士団長。名案だとは思わない?」

「あっ。あの、兄上。ぼ、僕は……」

 自分の名前が挙がらなかったリヒトは、当然慌てた。


「リヒトは才能がないんだから、どこかの令嬢と結婚でもすべきなんじゃないかな? 良かったね。王族に生まれたおかげで選り取り見取り」

「そんな!」

 レオンの言葉を聞いて、リヒトは立ち上がって、懸命に自らの心の叫びを訴えた。


「嫌です。僕だって、兄上たちと一緒がいいです!」

「――リヒト」

 そんな弟に、聞き分けのない子どもをなだめるように、レオンは言った。


「人にはね、向き不向きというものがあるんだよ。君は国王には向いていない。でも大丈夫。僕たち四人がいれば、この国は安泰だ」


 その言葉がどんなに弟の心を傷付けるか、理解しながら。

 兄として、これは第一王子である自分の責務であると言い聞かせた。


 感情なんて必要ない。わかってもらおうなんて思わない。魔力の弱い人間を、誰も王には望まない。現実を突きつけることが、時には必要なこともある。

 ――だから。


「君は、僕が守ってあげる」


 弟に嫌われようと――それだけが、幼いレオンのただ一つの決意ねがいだった。



 程なくして、レオンとリヒトの母が亡くなった。


「母上。母上を埋めないで!」


 母が亡くなったとき、リヒトは声を上げて泣いた。

 レオンは泣けなかった。

 なんだか足下がふわふわして、自分が立っている場所は、弟が生きる世界とは違う場所にあるような気がした。

 そしてその日何故か、レオンはある物語を思い出した。


 玉の男の子。

 帝に寵愛された女性の子ども。

 幼くして母を亡くした彼は、後に母の面影を女性に求めるようになる。

 それはまれびとから齎された、異世界のとある国の最古の長編小説。 

 物語の始まりの中で、母を失った主人公は、母の死を嘆く周りの人間を見ても不思議に思うばかりで、泣くことはない。

 それが今生の別れだということを理解できない子どもの幼さは、周囲の人間の涙を誘う。泣くことのできない子どもは、何もしないことで大人たちの同情を得る。


 『必要とされる』感情の表現方法は、幼さによって変わるものだ。

 自分も泣くべきなのだろう、とレオンは思った。

 それでもレオンは、弟のように泣くことは出来なかった。けれど物語の主人公のように、幼く在ることもできなかった。

 心の中に浮かんだ言葉は、母を亡くした息子にしては、薄情すぎることを知っていた。  

 泣けるわけがない。だって。

 

 ――泣いても、何も変わらないのに?




 母を失ってからも、レオンの日常は変わらず過ぎていった。

 王となるべく必要なことを学ぶために、レオンは日々を生きていた。

 

 ある日ギルバートが、突拍子もない話をレオンにした。

 それはギルバートとレオンが、もうすぐ原因不明の長い眠りにつく、というものだった。

 未来の世界に自分たち二人は居ない。それはとても、信じるに値しない未来はなしにレオンには思えた。


「僕と君が、居ない未来? 何を言っている? また夢でも見たのか?」

「違う。ちゃんと聞け! これは……俺の視る未来は、この先起こりうる未来だ。俺は、『先見の神子』。だからその未来は、本物だ」

「『先見の神子』……?」


 自分の幼馴染みが歴史に名を残す存在の生まれ変わりだなんて、レオンはとても思えなかった。

 だから、レオンはギルバートにある提案をした。


「君の言葉が本当なら、僕に一つ予言をしてみてくれないか。次の団長と副団長は、誰がなる?」

「なんでそんなことを聞く?」

「今後の為に、使えそうな人間を把握しておこうかと思ってね」

「……副団長は、『ベアトリーチェ・ロッド』だ」

「ベアトリーチェ……? 『変わり者のロッド伯爵』が手元に置いている、『神に祝福された子ども』のことか?」

「ああ」


 当時のベアトリーチェは、まだ『ベアトリーチェ・ライゼン』だった。


「なるほど。彼か……確かに、彼ならありうるかもしれないね」


 レオンはギルバートの予言を使い、ベアトリーチェに未来を告げた。

 『先見の明』をもつ第一王子となるために、それからもレオンはギルバートの予言を用いて、自分の地位を確かなものにした。

 ギルバートはレオンの行動を責めることはなかったが、まるで本当に『その日』が来るとでもいうように、やたらと時間を気にするそぶりを見せた。


「もうそろそろいいだろ。今は時間が大事なんだ。こんなことに、これ以上時間を費やすことは出来ない。きたるべき未来のために、俺たちにはやるべきことがある」

「やるべきこと? それで一体、何が変わるというんだ?」

「……俺はずっと、『未来』は変えられない。何をしても、また無駄だと、ずっとそう思っていきてきた。でも、やっと見つけたんだ。俺の――『運命』を」

「『運命』?」


 レオンには、ギルバートの言葉が信じられなかった。

 ギルバートはレオンがこの世界で唯一、自分と同等の能力ちのうがあると認めた存在だったからだ。


「ああ。俺がずっと、探していた」

 しかしその相手は、遠くを見据えて笑った。


「『運命』を打ち砕く者に、『強化』の魔法は与えられる。どんな最悪な結末をも覆す、壁を打ち壊す者に。俺は彼女なら、『未来』を変えてくれると信じている」

「……それが、『ミリア・アルグノーベン』だと?」


 レオンの問いに、ギルバートは頷いた。


「次期公爵が、メイド風情に想いを寄せるなんて正気かい? 彼女の魔力は高くないんだろう?」

「それがどうした? 人の感情は、そんなものでははかれない」


 ギルバートはそう言うと、レオンの目を見て言った。


「――レオン。お前に忠告しておく。いつか来るその日に、最善の選択を。そうしなければ、きっとお前は後悔することになる」

「僕が後悔? そんなこと、するはずないだろう」

「……リヒトのこと。本当はお前、どう思ってるんだ?」

「リヒトは王には向いていない。この国を守ることができるのは僕だけだ」

「……今のお前は、そんなふうにしか考えられないんだな」

「今のも何も、僕はいつだって、最善を選んでいるだけだよ」


 本心だった。

 出来損ないの弟と、優秀とされる自分。

 そんな力関係で、弟が兄を押さえて、王になろうと考えること自体が有り得ない。

 別に昔から、父の跡をついで王になりたいと思っているわけではなかった。けれど叶わない願いを弟に抱かせるのは、弟のために避けたかった。

 魔法が絶対視されるこの世界では、誰も弟を王には望まない。

 レオンがそう言えば、ギルバートはそれ以上、もう何も言わなかった。



 そしてついに、ギルバートの予言は現実のものとなった。


「――……!!」

 体が思うように動かない。レオンはその時、何が起きたか分からなかった。混乱する頭で、レオンは必死に考えた。


 ――どうして? 何が起きている? まだ僕は、何も成せていないのに。君をこの世界で、守れるのは僕だけなのに。


 意識を失うその瞬間。

 レオンの頭に浮かんだのは、自分に笑いかける、幼い弟の顔だった。

 震える声で名前を呼ぶ。手を伸ばそうにも、もうその手は届かない。


「……リヒ、ト」


 ――僕から全てを奪う。何よりも大切な、僕の弟。


「お兄様! レオン様!!」

「兄上! ギル兄上!」

 自分の婚約者と目される自分より、兄を呼ぶ幼馴染みと、優しい幼馴染を兄と慕いながら、優しくない自分のことを先に呼ぶ弟の声が、最後に聞こえた。

 そしてレオンの世界は、闇に包まれた。



 目を覚ますまでの十年のことは、何も覚えていない。 

 知らないうちに大きくなった体。心は幼い頃のまま、けれど『時間』は残酷にも過ぎていた。


 それでも周囲が、自分に『十八歳のレオン・クリスタロス』を求めていることは、レオンにはすぐに理解出来た。

 二歳年下だった弟は、いつの間にか背も伸びていて、その顔を見たときに、レオンは八年長く生きた人間として接するべきか、それとも昔のように弟として接するべきか少し悩んだ。

 けれど自分が眠っている間、ローズとの婚約を破棄を言い渡し、ローズが騎士となり魔王を倒し自分を目覚めさせたという話を聞いて、レオンは兄として、自分が王位を継ぐために再び行動することにした。


 毎日鏡の中の見慣れない自分を見ては、不安な表情をするなと心の中で言い聞かせた。

 中身が八歳の子どもだなんて、周囲に認識されただけで闘いは不利になる。

 先手有利の盤上遊戯。

 そうだったはずなのに、自分が駒を置けないうちに、十年という月日の間、リヒトはいくつもの駒を盤に並べているようにレオンは感じた。


 ――それでも、僕が勝たなきゃいけない。これは、リヒト自身のためだ。


 眠っていた間の記憶はなく、ただただ眠りにつく前、自分が厳しく接する前のリヒトが自分に向ける笑顔が頭にちらついては、レオンはかぶりを振った。

 今はもう弟のほうが長く生きているはずなのに、レオンは目覚めてからも弟のことが心配でならなかった。


「リヒトが指輪を……?」

 『鍵』の指輪。

 それをリヒトが無くしたと聞いたとき、レオンがまず心配したのは弟の心だった。


「あの子のことだ。また気にしているんだろうか」

 事件性があるにしろないにしろ、どうせ弟に指輪を見つけることは難しい。

 レオンは、指輪は自分が見つけようと思った。そしてまずは、弟に休息を取らせることにした。


「癒やし効果のある作用のある砂糖……? これはどういう品なのかな?」

 レオンは城下で集める内に、とある品を手にしていた。

 それはよく頑張りすぎる弟には、ちょうどいい品だった。


「精神を落ち着かせて、よく眠れる効果がある、か……。なら、これとこれを一つずつ貰えるかな?」

 そしてレオンはその後、乾燥した苺をホワイトチョコレートでコーティングしたお菓子を購入した。


「リヒトは確か、このお菓子が好きだったはず。これにかければ食べるだろう。……子どもの頃とは、味覚が変わっているかもしれないけれど……」

 それだけが少し、気がかりだった。

「でも無理をしているようだから、倒れる前に休ませないとね」


 レオンがリヒトを探していると、廊下をトボトボ歩いている姿を見つけた。

「……ユーリに嫌いって言われた……」

「おやリヒト。何をしているんだい?」

 背後から声を掛けられば、リヒトは振り返った。


「……兄上」

「君の失態のために連日心を悩ませているユーリからしたら、そう言いたくもなるんじゃないかな?」

 酷い言葉だと自分でもレオンは思った。


「う……っ」

 案の定、リヒトは顔を僅かに歪めた。

「ユーリはローズが好きだから、俺のことが嫌いなのかも……」

「なるほどね」


 ――ユーリは『優しい人間』だから。簡単に君を嫌える人間ではないと思うよ。


 冷たい声で言うつもりが、そんな言葉が頭に浮かんで、言葉は妙な『音』になって響いた。

 自分の失態に動揺するなと、レオンは心の中で自分に言い聞かせた。


「ユーリも君も、よくそんなものにかまけてられるな。僕からしたら、色恋なんていう感情は、とてもくだらないものに思えるのだけれど」

「……兄上?」

 リヒトが、レオンの顔を見上げた。


「感情なんてものはね、人を惑わせるだけなんだ。だから、本当は要らないんだよ」


 ――そう。もし自分に感情なんてなければ、こんなに悩まずに済んだのに。


「……あの、兄上……?」

 弟に呼びかけられ、レオンははっと我に返った。

 見れば弟は、心配そうにこちらを見ていた。レオンはリヒトの言葉を遮った。


「リヒト」

 レオンはそう言うと、そっとリヒトの頬に触れた。

 久々に触れた頬は、昔よりかたい気がした。


「また、夜遅くまで何かを作っていただろう? 目が赤い。君が何をしても無駄なんだから、さっさと早く寝るべきだと思うけど?」

 レオンはそれだけ言うと、ぱっとリヒトから手を離した。


「……」

「ああ。そうだ、これを」

 そして動けずにいる弟に、レオンはリボンの巻かれた箱を手渡した。


「女性からの贈り物の中に、安眠効果のある菓子があったから君にあげよう。僕は食べる気にはならないけれど。……ああ。毒性は特に無いから安心していい」

 『女性にモテる兄』と弟が自分を思っているならば、この理由でいいだろう。レオンはリヒトに菓子を渡すと、その場を去った。


 

 闇属性のその鳥は、人の視界を遮断する。

 指輪は無事見つかり、ベアトリーチェは本来の姿を取り戻した。弟に跪くベアトリーチェの姿を、レオンは見下ろしていた。


「麗しき兄弟愛、か。……まあ、くだらない茶番だね」


 夜に回収をしておいた薔薇を凍らせて、レオンはそれに火をつけた。

 青い薔薇は彼の手の中で灰になる。

 巨大な黒鳥レイザール。

 その上に居たのはレオンとギルバート。

 城の塔の上に降り立ったレオンは、今はその高台から、自らの国を見つめた。


「……お前は、本当にこれでいいのか」

「僕がこの国の王になる。やっぱりあの子は甘すぎる。あの子にまかせていては、国が崩壊しかねない。協力してくれるよね?」

 レオンは笑った。だがギルバートの表情は少し暗かった。


「俺は、お前たちが一番いい未来に辿り着けるよう動くだけだ」

「そう」

 幼馴染の答えに、レオンは目を伏せた。


 ――昔から『ギルバート・クロサイト』が、異質な存在であることは知っている。


「なら君は、僕の味方のはずだ。そうだろう? この国の為には、僕が王になるのが『正解』だ」

 レオンはそう言うと、ギルバートに手を差し出した。


「僕のために、その瞳の力を使ってくれ。ギルバート。――いや、『先見の神子』」


 今このことを知っているのは、レオンのみ。だからこそギルバートを利用出来れば、レオンにとって切札カードとなる。

 しかしレオンの差し出した手を取らず、ギルバートは静かに呟いた。


「俺はこの目をこの国の為に使う。それが俺の役目だ」

 十年前の彼と同じ言葉を。



 指輪が見つかり、クリスタロスに平穏が戻った。レオンは安堵したが、今度は問題が他国からやってきた。

 大国の王ロイ・グラナトゥムからの、ローズへの求婚。

 レオンは自身も決闘に参加するために、父である王に頭を垂れた。


「――父上。私は、幼少の頃よりローズを愛してきました。彼女はまだ、この思いを受け止めてくれてはおりません。ですが私は、やがてこの国を背負いたいと考えております。その王妃に、私は彼女を選びたい。私が決闘に名を連ねることを、どうかお許しください」


「お前が、ローズ嬢を……」

「眠りにつく前から。ずっと、彼女だけを愛してきました。この気持ちに、嘘偽りはございません。この国を愛する彼女こそ、私の王妃にもっとも相応しい」

「……そうか」

 リカルド・クリスタロスは悩んだ末に首を垂れるレオンの名を呼んだ。


「レオン。ベアトリーチェ・ロッドとの決闘を許可する。彼に勝ち、その力を彼女に示しなさい」

「ありがとうございます」


 しかし、自分と同じ学院を作った『三人の王』。

『大陸の王』の生まれ変わりとされているロイ相手に、外身ばかり大きくなった自分では太刀打ちができないことはすぐにわかった。


「ベアトリーチェ・ロッド。今日は君を跪かせてやるから覚悟しておけ」

「???」

 ロイの態度の急変に、レオンは首を傾げた。


「レオン様。彼はこっちが素なのです。私は昨晩呼び出されて軽く脅されました」

「脅された?」

「ええ。ローズ様を渡さなければ身の安全は保障しないと」

「それは……」

 レオンは顔を歪ませた。完全に脅しだ。


「それと、どうやら彼はローズ様を鍵の守護者として狙っているようです。勿論彼女自身……魔力の高い女性としても、興味はお持ちの様ようですが」

「……やはり、そうか」

「予想していらっしゃったのですか?」

「ああ。彼がここに来る前から、嫌な予感はしていたよ。だから僕がローズの婚約者になろうとも思っていたんだ」


 レオンは唇を噛んだ。

 するとベアトリーチェは、レオンの顔をじっと見てから、不思議なことを尋ねた。


「貴方が決闘を私に申し込まれたのは、それが理由の全てですか?」

「?」

 ベアトリーチェの問いに、レオンは首を傾げた。

 

「レオン様はローズ様のことを、一体どのようにお考えなのです? 私に決闘を挑まれるのは、国を守るためですか? 幼馴染としての好意ですか? ……それとも」

 ベアトリーチェは僅かに間を作る。


「レオン様は本当に、彼女を心から愛していらっしゃるのですか?」

「……っ!」

 レオンはベアトリーチェから顔を背けた。

 新緑の瞳は、自分の表情の変化を見逃さない。

 レオンはベアトリーチェが少し、怖いと思った。


「レオン様。私は貴方の本心が知りたい。それによっては、私も態度を改めます」

 ベアトリーチェはそう言ったが、本心なんて、レオンには晒せるわけがなかった。


 気付かないで欲しいとレオンは思った。

 自分の心の弱さを知られたら、自分への『信頼きたい』なんて、すぐに失われてしまうような気がしていた。


 ベアトリーチェとのやり取りのあと、始まった決闘の中で、レオンは自身の力不足を感じざるを得なかった。


「――私の勝ちです」 

「ははははははは! まさか俺が負けるとは。実に面白い男だ。ベアトリーチェ・ロッド。まさか君がこれほどの力を持っているとは。何故君ほどの力を持つ人間が、副団長などという中途半端な場所に居るのか理解に苦しむ。君の年下の騎士団長が、君に敵う器とはとても思えないのに」


 『相棒』であるユーリのことを馬鹿にされて、ベアトリーチェは眉間に皺を寄せた。

 ベアトリーチェは剣を下ろした。ロイがベアトリーチェに向かって、敗北の意思を見せたからだ。

 立ち上がったロイは、炎の魔法ではロイに押し負け、ベアトリーチェには剣を奪われて呆然としていたレオンを見下ろした。 


「それに比べ、君にはがっかりだ」

 冷たい声が、頭上から振って来る。


「『氷炎の王子』。君はもっとやれる男だと思っていたが、一〇年の月日は君から名声を奪うかもしれないな。世界で最も王子として優秀だともてはやされた君も、時間には抗えなかったということか?」

「……っ!」


 レオンは息を飲んだ。

 それは何より、自分自身思っていたことだった。


 魔法を使っていなかった一〇年間。

 レオンの時間は止まったままで、今の自分が使えるのは、八歳の時の魔法の、多少威力が増したものに過ぎない。

 目が覚めてから日々訓練はしていても、一〇年の欠落はやすやすと埋められるものではなかった。

 そして次の決闘で、ロイはベアトリーチェに空中戦を挑んだ。


「――こちらには翼がある」

 ロイはそう言うと、高く左手を上げた。


「来い。レグアルガ!」

 するとロイの背後から、彼がこの国にやってきたときに乗っていたドラゴンが、高い声を上げて現れた。

 鋼のような、硬質な鱗を持つドラゴンの身体はてらてらと輝き、その翼が羽ばたくたびに風が起こる。


「お前の魔法がどんなに優れていても、その魔法が、俺に届かなければいいだけのこと」

「……」

「王の生き物を舐めるなよ」


 ドラゴンは、ロイの後ろに着地した。

 ロイが体を撫でると、その見目とは裏腹に、ドラゴンは気持ち良さそうな声を上げた。


 力あるものに従属する獣。

 その信頼関係は、決してロイが『王』だからではないということを物語る。


「契約獣も、決闘への参加は認められてはいる。君は彼女に何も言っていないのか?」

 ベアトリーチェの服を不安げに掴むローズ。

 その姿を見て、ロイはまた笑った。


「これだけ体を張っても自分を選ばない彼女には、何も言えないということかな?」

「私はただ、愛する婚約者に余計な負担をかけたくないだけです」

「本当に君は、『お優しい』な」


 それはベアトリーチェを、誠実に人を思う人間を、嘲笑うような声だった。

 レオンはわざと足音を立てた。

 これ以上目の前の男が、ベアトリーチェを蔑むことのないように。


「おや。レオン王子。貴方はもう諦めたかと」

「ローズは貴方には渡さない」

 レオンは静かにそう呟いた。

 ただその言葉を、ロイは真面目に受け取ろうともしなかった。


「ははははは。実に愉快。君が俺にかなうとでも!?」

「レイザール」

 一瞬唇を噛んで、レオンは手を上げた。

 すると、太陽を隠すほどの大きな黒鳥が宙を旋回し、レオンのそばに降りた。


「なるほど。『最も高貴』とされる生き物。だが……」


 その美しさは、ロイの契約中であるドラゴンとは全く違う。

 侵すことのできない漆黒。

 闇夜を思わせるその色は、この世界を生きる生き物の中で最も美しいと言われる、双璧をなす生き物のうちの一つだ。


 『氷炎の王子』。

 レオンがかつて、そうもてはやされたのは、彼がレイザールの契約者であったことが理由でもある。

 力ある生き物は、力を持つ主を選ぶ。

 レイザールは、レオンの力の象徴でもあるのだ。

 だというのに、大陸の王はその生き物を見ても、顔色一つ変えなかった。

 いや、正確に言うと――どこか冷めた目で黒鳥を見た彼は、つまらなそうにこう呟いた。


「やはり君の契約獣は、フィンゴットではないんだな」

「?」


 ロイの言葉の意味がわからず、レオンは首を傾げた。

 レイザールと双璧をなすドラゴンは、今は眠りにつき、卵から目覚めないという話なのに。


 ――この男は一体、何を言っているんだ……?


 訝しむレオンの隣で、ベアトリーチェは閉じていた目をゆっくり開いた。


「もう、いいですか? さっさと決闘を始めましょう」

「いいだろう」

 ロイは余裕たっぷりにそう言った。


 地上でしか戦えない場合と、飛行が可能な場合は、大きく戦闘法を異にする。

 自身の契約獣の背に乗るレオンとロイに対し、ベアトリーチェはいつものように薔薇の剣を手にしているだけだった。

 そんな彼を揶揄するかのように、ロイは飛び立つ瞬間、わざとドラゴンにベアトリーチェに向かって翼を羽ばたかせた。


「……っ!」

 飛ばされぬよう、剣を地面につきたて手を体を支えたベアトリーチェを、ロイは嘲笑した。


「空を飛べない人間は、地面に這いつくばっているのがお似合いだ」

「ビーチェ様!」

 ローズが婚約者ベアトリーチェの名を呼んだ。

 魔法を使う戦闘の前から、これでは分が悪すぎる。


「ロイ・グラナトゥム殿」

 そんなロイに向かって、レオンは尋ねた。


「私の弟に、やたらとかまっていらっしゃる理由を教えていただきたい」

「傀儡にできそうな人間が王になる方が、御しやすいと思っただけだ」

 ロイはそう言うと、小馬鹿にするように笑った。


 ――ふざけるな。もしそうなれば、リヒトがどれだけ悲しむと!?


 結局は、力を持たない弟が王となれば、他国に軽んじられ、搾取されるだけになることが目に見えている。

 リヒトを嘲るロイの言葉に、感情を表には出すまいと思っても、レオンの手は僅かに震えた。


「……わかりました」

 レオンは短く言うと、さっと左手を高く上げた。

「レオン、様?」

 レオンはベアトリーチェの手を掴んだ。

 自分の契約獣の背に、ベアトリーチェを乗せる。


「れ……レオン様?」

「――飛べ。レイザール」

「何の真似だ? レオン・クリスタロス」

「僕は、この国を守る王子だ」

 レオンは、ロイを見据えて言った。


「名声なんて必要ない。誰に非難されても、否定されても。僕はこの国を……ローズを選ぶ。貴方のような人に、ローズは……。ローズは、渡さない!」

「レオン、様……?」


 ベアトリーチェは空を飛べない。

 慣れない空の上で、振り落とされないよう、ベアトリーチェは鳥の背を掴んでいた。


「レイザール。僕の魔力の全てを与えよう。かの王から、僕らを守る壁をつくれ」


 この世界で、最も高貴とされる生き物は二ついる。

 すべてを阻む闇属性のレイザール、光の祝福を与えるフィンゴット。

 ただその二つの生き物は、強い力の代償に、どの生き物よりも魔力を主に要求する。

 力ある生き物は力を持つ生き物を選ぶ。

 一説には、彼らには主の魔力を自分の中で増幅させる機能を持つ力があるといわれている。


「レオン様」

「単純な魔力だけなら、君の方が強い筈。これで彼には勝てるだろうね?」

 レオンはベアトリーチェの方を振り返りはしなかった。

 ベアトリーチェは、静かに頷いた。


「……はい」

 空中戦対空中戦ならば、ベアトリーチェにも勝機はある。


「私の勝ちです」

 レオンの行動のおかげで、ベアトリーチェはロイを追い詰めた。

 ドラゴンから振り落とされたロイに突きつけられたのは、鋭い剣の切っ先だった。


 ベアトリーチェの肩は上がっていた。

 一方、負けたはずのロイにはまだ余裕がある。それを物語るかのように、武器を向けられているというのに、彼の表情はいつもとそう変わらなかった。

 まるでこれまでの全てが、盤上の遊戯でてもあるかのように。

 レオンは嫌な予感がした。本能的に理解する。


 ――違う。この男の、本当の狙いは……。


「――それはどうかな?」

「え?」

「この戦い、勝つためのものではない。これで手の内はわかった。やはり君は、空を飛べない」

「……!!!」

「勝負など、最後に勝てばいいだけの話。暇つぶしはここまでだ」

「……貴方は。最初から、そのつもりで」


 ベアトリーチェの言葉に、ロイは不敵な笑みを浮かべた。

 幸運・魔法・精霊晶。そして、空を飛べるかどうか。

 これまで決闘は、小手調べに過ぎないと言われたベアトリーチェの顔色が険しくなる。

 そんなベアトリーチェの横で、レオンは魔力の枯渇で意識を失った。




「……ローズ?」

「お体は、大丈夫ですか?」

 レオンが目を覚ましたのは、倒れて三時間ほど後のことだった。

 そばで光魔法をかけ続けていたローズは、レオンが目を覚ましてほっと息を吐いた。


「倒れたのか……僕は」

 天井を見つめる。レイザールの力を全力で開放したのは初めてだった。体に力が入らず、動けない。 


「はい。決闘の、その後すぐ」

「……そうか。――全く、情けないな。今の僕は」

 目覚めてから、レオンは血のにじむような努力した。

 それでも駄目なのだ。月日はそう簡単にはとり戻せない。そして世界は、レオンを待ってくれなどしない。


「あの王は、僕が気に入らないらしい」

「あの方は、一体何を考えていらっしゃるのでしょうか……?」

 レオンはローズが首を傾げる姿をじっと見つめた。


「なぜ私の顔をまじまじと見ていらっしゃるのですか?」

「……こうやって、君とちゃんと話すのはいつ以来だろうと思って」

 それはいつも演じている『レオン・クリスタロス(かんぺきなおうじ)』としての言葉でなく、心からの言葉だった。

 素のレオンを前に、ローズはレオンから顔をそらした。


「……それは、いつもレオン様が、私をからかわれるからでしょう?」

「……ああ。そうだ」


 『いつものように』くすくすレオンが笑えば、ローズは不機嫌そうな顔をした。

 そんなローズに向かって、レオンは小さな声で、彼女に尋ねた。


「でも……本当に、それだけだった?」

「レオン様?」

「……ねえ、ローズ。君の手を、握ってもいいかな?」

「いつもは勝手に行動されるのに、どうして尋ねられるのです?」

「……なぜだろうね」


 レオンは苦笑いした。

 力の入らない手を精一杯持ち上げて、ローズの手に触れる。

 彼女の手に触れたとき、じわりと心のなかに熱が広がっていくのがわかって、レオンは無意識に笑みが溢れた。


 理由なんて、最初から自分が一番わかっていた。

 どんなに想っても、心は得られないと諦めてきた相手から伝わる熱は、ただただ愛しく温かかった。

 いつからだったかは、自分でもわからない。

 いつだって一生懸命で、馬鹿みたいに真面目で。言い換えれば融通がきかない。それでも真っ直ぐなその瞳に、幼い頃からずっと惹かれていた。


「君の手は、温かいな」

 愛しい少女の手はもう、弟のものでも、自分のものでもない。

 ただこの手を握る資格がないとしても、彼女を物のように扱う大陸の王にだけは、ローズを渡してはならないとレオンは思った。



 結果として、ベアトリーチェはロイに最後まで勝利した。

 リヒトは、レオンが眠っていた十年の間に培った魔法道具をつかい、ロイに好意を抱かれることに成功した。ギルバートはクロスタロスのために、魔法を使ってロイに交渉した。


「この国は、僕の国だ」

 月明かりのさしこむ部屋で、レオンは一人決意を呟く。


「約束は、違えません。……母上」


 けれどその誓いは、深い夜の闇に、消えてしまうようにも感じられた。

 レオンは夜が嫌いだった。夜の静寂は、世界に一人ぼっちの自分を、食べてしまうような気がしたから。

 でも、そう怯えていては生きてはいけない。

 闇を怯える様な弱い人間は、誰からも望まれない。

 だから彼は一度も、夜が怖いと口にしたことは無かった。

 けれどその思いを口にせずとも、そばにいてくれた弟は、今はもう、ここにはいない。


『リヒトはとても弱いから。だから貴方が、この国を守ってね』

『私の完璧な王子様。貴方ならできるわ』


 思い出の中の言葉は遠く霞んで、遠い日の母の言葉だけが、自分の中には残っているようにレオンには思えた。

 手の中の銀色に力を籠める。

 母の形見の銀時計は、確かに時を動かすのに、ずっと止まっているような気もした。

 ゆっくりと瞳を閉じる。

 瞼の裏に映るのは、笑い声の響く懐かしい景色だ。


『兄上。僕も大きくなったら、魔法を使って、この国を守ってみせます。お姫様と一緒に、お城で暮らすんです!』


 何も知らない幼い子供。

 子供の持つ絵には、金色に碧の瞳の少年と、黒髪に赤い瞳の少女が描かれている。

 お城で一緒に暮らしたい。

 そんなお伽噺のような幸福なことを、自分に話していた子どもの笑顔を思い出して、彼は拳を握りしめた。



 ロイからの申し出で、レオンたちはグラナトゥムの魔法学院への入学が決まった。

 中身が幼い子どもとは他人は知らず、優れた能力を持つレオンのことを、相変わらず周りはもてはやした。


 ロイやベアトリーチェには敵わなくても、レオンの能力は世界を見れば、決して低い方ではない。

 ただ、精神面では年上の少女たちにまとわりつかれるのも疲れて、レオンは彼女たちを撒いては時間を潰した。


 そんな中、レオンは『海の皇女』に出会った。

 弟と同じように、王族でありながら魔法を使えない人間。レオンにとって、彼女はそれだけの存在だった。

 しかしある日、自分からリヒトが離れるように行動していたにもかかわらず、レオンは見過ごせないものを見てしまった。

 青の大海――クリスタロスの王族として、敵対すべきでない、大国の皇女の言葉は、リヒトにつらい現実を突きつけた。


「貴方は、自分がまだ魔法を使える可能性があると、本当に思っているの?」

「ああ。それに確かに俺は魔力は低いと言われているけど、でもその分俺は研究で――……」

 ロゼリアは、蔑むような声でリヒトを否定した。


「そんなこと、したって無駄よ。魔力が低い貴方が何をしたって、認められるはずはないわ」


 それはレオンが、これまでリヒトに告げてきた言葉。だがその言葉を、何も知らない他人が口にすることを、レオンは許せなかった。


「誰も貴方に期待なんかしていない。出来損ないの第二王子。貴方は絶対に、貴方が手にしたいものは手に出来ないわ」

「……」

「貴方と私はおんなじね。出来損ないの、ないものねだりなんだわ」


 リヒトは声が出ないようだった。

 泣き出したい気持ちを必死に抑える。

 レオンはそんな弟を庇うため、二人の間に割って入った。


「僕の弟に、余計な考えを吹き込むのはやめて貰おうか。海の皇女。持った力を扱えないだけの君が、リヒトを責めるのは筋違いだ」

「……あ、兄上!?」

「才能があって努力するのと、才能がなくて努力するのは違う。砂浜に落ちた指輪を探すのと、砂浜の砂全てが指輪であるのと、何が一緒だって言うんだ」

「何よ! 何よ、何なのよ! 出来損ないと、諦められているのは一緒じゃない!」


 ロゼリアはそう叫ぶと、目に大粒の涙を浮かべて走り去った。

 レオンは、追いかけようとしたリヒトの行く手を遮った。


「あの、兄上……」

「――リヒト」

「……はい」

 レオンの声に、リヒトはびくりと体を震わせた。

「あんな考えしか出来ない人間と、付き合うことはおすすめしないよ」


 頑張れば何でも出来る。

 夢は叶う。

 そんな夢に溢れた世界なら、人はきっと涙なんて流さない。

 人は自らの前に立ちふさがる壁を前に生きる。それを超えたときに人は泣き、超えられないときにまた泣くのだ。


「君と、僕は違う」

 一人呟く。


『あにうえ!』

 目を瞑れば、幼い頃の弟が自分に笑う。

『僕も、兄上のようにできるようになりますか?』

『……どうして。どうして僕は、兄上のようにできないんだろう』


 自分がいるから弟は苦しむ。そんなこと、最初からわかっている。

 比較されて育った弟は、あまりにも自分と比べて弱すぎる。変えられない現実が、弟の心を苛むなら。その心が壊れる前に、自分は兄として、弟に烙印を押すべきだと思った。


「君は、出来なくていい。――リヒト。だから、もう頑張らなくていいんだ」


 レオンは幼いときに一度だけ、幼馴染みたちと共に浜辺で遊んだことがあった。

 そしてその時、リヒトが当時大切にしていた小さな宝石を、誤って落としてしまった。

 夕暮れになってもまだ、一人宝物を探すと言ったリヒトに、父が似たものを与えるから諦めるように言い、レオンは大事なものをそんな場所に持ってきたリヒトを責めた。


『大切なものだったのに』

『宝物だったのに』

 もう戻らない宝物を探して泣く弟を、レオンは見守ることしか出来なかった。


 ――砂浜に落ちた指輪を探す君は、昔から地べたを這いずって泣いている。


「指輪はもう無い。だから……だから……」


 でも、本当は。

 弟が一番求めるものを与えられるのは、自分だけだと知っている。

 


 レオンは、胸元に手を当ててゆっくりと目を見開いた。

 多数決での決定は、次期国王はリヒトだ。

 だがリカルドは、レオンが選ばれなかったことに、少し動揺しているようでもあった。


「お答えください。私にも、弟がいます。私にとって弟は、かけがえのない存在です。貴方だって本当は、そうお考えではないのですか?」


 ベアトリーチェは真っ直ぐに、レオンの意志を問うた。


「貴方が本当にこの座を望むなら、出来ることはあったはずです。でも貴方は、そうしなかった。リヒト様を守るように行動されていたと、そう話も聞いています」


 ジュテファーがレオン付きになったのは、ベアトリーチェの指示によるものだ。

 ジュテファーは、敬愛する兄に嘘は吐かない。


「僕は……」

 その時、高く鳴く鳥の声が聞こえレオンが天窓を仰げば、レイザールの姿が見た。

 巨大な黒鳥は、悠々と空を舞う。その瞬間レオンの中に、暗い夜の出来事が甦った。


【貴方は、何を望む?】


 その問いに、なんと返したか。レオンは今でも、はっきりと覚えている。


『強くなりたい。僕は……この国を、弟を守れるだけの、力が欲しい』


 それはレオンを世界に繋ぎ止める、たった一つの決意ねがい

 王になれるのは、たった一人だけ。

 ならば。


 ――いつか自分の手を離れる弟に、弱くて頼りないその手に、一体自分は、何を握らせてあげられるだろう?


 玉は傷のない完全なものであるがゆえに、価値がある。

 王族であるが故に、『賢王』の生まれ変わりであるとされるが故に、期待に押しつぶされそうな日々を送っていたから自分だからこそ。


 ――『玉座』なんてそんな重いものは、僕が背負うから。君が幸せなら、何もいらない。だから、どうか。君は、君だけは、ずっと笑っていて。


 レオンはずっと、リヒトに『自由に』生きて欲しかった。



 レオンが目覚めてからのリヒトは相変わらず魔法の使えない頓珍漢のポンコツだったが、それでも変わらずリヒトの周りには人が居た。

 レオンが作った『令嬢騎士物語せいし』のせいで貶められ、子どもにすら軽んじられても、リヒトは怪我を負った子どもに、手を差し伸べようとした。

 そんな弟の、変わらない優しさに気付く度に、自分がどう行動すべきかレオンは悩んだ。


 すれ違う。

 レオンはずっと、自分の心に嘘を吐いて生きてきた。


 幼い頃からいつだって、自分の本心を隠して、誰かの望まれる自分を演じて生きてきた。

 そうすることが癖になって、弱音を口にすることすら出来なくなった。

 氷のような心は触れた相手を傷付ける。だから本当の意味で、自分は誰にも干渉できないようにもレオンは思えた。

 だから本当は、一番自分がわかっている。

 ――王に向いているのはきっと、自分よりも。

 レオンは、人には見られぬよう小さく笑ってから、リヒトの顔を見た。


「リヒト。君は、王になりたい?」


 レオンの問いに、リヒトはゆっくり、大きく頷いた。

 そんなリヒトを見て、レオンは下を向いて腰の方へと手を伸ばした。

 ユーリは剣に手を伸ばす。

 しかしそんなユーリの手を、ベアトリーチェは阻んで首を横に振った。


「なら」

 レオンは、リヒトを傷つけるようなことはしなかった。

 代わりに、リヒトの手にある指輪を握らせて、静かに頭を垂れた。

 それは幼い頃、リヒトが砂浜でなくした赤い宝石の付いた指輪だった。


 リヒトは眼を瞬かせた。

 傷はついていたけれど――それでも確かに、彼がずっと探していたもの。

 十年も前のこと。

 レオンはリヒトの代わりに、その宝石を見つけた。けれど弟には渡せないまま、レオンは長い眠りについた。


「――僕が、君を守ってあげる」




 その言葉は、かつてリヒトがレオンに向けた言葉と同じだった。

 彼が眠りにつく前に、自分に向けられた最後の言葉。

 昔その言葉を聞いたとき、リヒトは兄に自分は必要ないと、そう言われたと思っていた。


 けれど今――兄は優しい眼をして、自分に笑いかけている。

 ヘンだ、とリヒトは思った。

 こんなの、自分が知る兄じゃない。これじゃあまるで――優しかった頃の『あにうえ』のようではないか。

 リヒトはレオンと同じように、膝をついて尋ねた。


「ありがとうございます……。えっと、違う。そうじゃなくて……! なんで兄上がこの指輪を!? それに……あ、あの。兄上? ……その、どこか痛いのですか?」


「……」

 レオンは、心の底から心配そうに言う弟を見て苦笑いした。

 勘がいいというか鈍いというか――昔からこの弟は、隠したい自分の本心を、的確についてくる。


「今、それを言うのかい?」

「え……。いや……あの、その……」

「全く……。――本当に、これだから……」


 レオンは目を細め、今度はリヒトの頭を優しく撫でた。

 子どもの頃の、優しかった頃の『あにうえ』のように。


「……兄上?」

「今までごめんね。――リヒト」


 熱のこもった兄の言葉。その言葉を聞いたとき、リヒトは魔法学院で、エミリーに問われた言葉を思い出した。

 紫の瞳はただ穏やかに、優しくきらめく。


『貴方は誰にも、魔法を与えてもらえなかったの?』


 リヒトはその問いに、かつて答えることは出来なかった。

 魔法の使えない自分は兄に、愛されているとは思えなかったから。でも今は、違うと言えるような気がした。


 ――違う。兄上はずっと、優しかった。きっとこれまでも、自分を愛してくれていた。でもそれを、自分が受け入れることが出来なかった。


 『完璧』だと誰もが褒めたたえられた兄が、本当はまだ幼い子どもだったと、今ならリヒトは理解出来る。

 あの頃、兄が小さな手にどれほどのものを背負って生きてきたかも知らず、自分がどれだけ子どもだったかも、今のリヒトになら分かる。


 ――覚えている。『あにうえ』は、優しい人だった。それだけじゃない。目覚めてからだって、本当は……。


 指輪を自分が奪われた時、王位争いの時の最中だったのに自分を気遣ってくれた。青い薔薇――花を処分したのは恐らく兄だろうとリヒトは考えていた。


 ロゼリアも言っていた。

 兄は自分を思っていていると。不器用なだけなのだと。そしてかつて王位継承者としての兄に忠誠を誓っていた筈のベアトリーチェは、レオンの行動の意味を問う。

 圧倒的な力を持っていた筈のレオン。

 レオンの魔法属性は炎と氷。

 それが意味するところは――……?


「……俺も。俺も、ごめんなさい。……あにうえ」


 いつの間にか、リヒトの目からは涙がこぼれていた。

 リヒトは、兄の服をぎゅっと握りしめた。

 幼い頃、優しい『あにうえ』にしていたように。


 嫌われていたわけではなかった。兄は自分のことを、昔から変わらず思ってくれていた。そのことが、リヒトはたまらなく嬉しかった。

 レオンはリヒトの頭を撫でた。

 夜が怖いと言えなかったレオンの、一人きりの冷たい部屋に、幼いリヒトが枕を抱えてやって来た――あの日の彼が、リヒトが眠りにつくまでかつてそうしていたように。

 その瞬間、レオンは自分の中で、何かがかちりと割れる音を聞いた。


 柔らかく溶けていく。氷は水へと姿を変える。レオンはそっと、自分の指輪へと手を添えた。

 ずっと、欲しかった魔法を『願う』。

 するとレオンの手のひらには水が満ちた。それはレオンがずっと、指輪に書きこんでいても使えなかったはずの水魔法。


 空から降る雪がやがて溶け恵みをもたらすように、雪の与える恩恵は時間を経て現れる。

 けれど冷たい雪が人を凍えさせるのもまた確かで、氷属性を持つ人間はその両方を持ち合わせる。


 氷を溶かすのは炎だ。

 絶対的な自信。才能を認められ、自分を肯定する心は、レオンの中に確かにあった。

 二つをかけ合わせれば、水は生まれる。

 けれど、ローズが墜落したときのような場面で使えるかというと話は別だ。

 墜落する彼女を包み守る。そのためには、本当の水属性が必要だった。

 氷のような冷たさ。けれどいつかそれは、溶けて水となる。

 不器用な彼の優しさは、棘のように人を傷付け、その意思の強さは、炎のように人を遠ざける。

 レオンはずっと、誰かを傷付けてばかりの魔法ではなく、本当に人を守れる、優しい魔法が欲しかった。

 それはこれまで、レオンがどんなに望んでも手に入らなかった魔法ちから


「……答えは最初から、ここにあったのか」


 世界で一番強い、完璧な王子様。

 与えられた肩書は、『選択』を彼から奪った。


「陛下」

 レオンは、『王』に向かって頭を垂れた。


「僕は……王にはなれません。望まれたのは、僕じゃない。だから……認めてください。リヒトを――この国の、次の王に」


 一人、また一人。リヒトの周りには人が集まる。

 かつてレオンに向けられていたの羨望とは違う。

 リヒトを見る人々の瞳は、誰もがどこか優しい色を宿していた。

 リヒトが選ばれるのは、彼自身の弱さに由来する。

 リヒトは弱いから。

 だからこそ、自分たちが――彼を支えたいと思うのだ。


『この玉座は冷たい』

『自分に従う人間たちの前で、完璧でなくてはならない』

『一つの傷も許されない』

『玉は、美しくあらねばならない』


 言葉は呪いのように降り積もる。

 いつだって、昔から、自分に言い聞かせるように呟いて、レオンは胸が苦しくなった。

 不向きだ、と思った。けれどだからこそ、自分が王になるべきだとレオンは思った。

 

 誰もが立場があり、立場には責任が伴う。

 たとえ王になることを望まなくても、その地位に生まれたならば、相応しい行動と努力を求められる。

 そんな世界は、きっと弟には向いていない。


 でも、実際はどうだろう?

 十年間の長い眠りの末、目覚めた世界は大きく変わっていた。

 体ばかりが大きくなって、時間を失ったレオンには、『完璧な王子』の続きを演じることしかできない。

 でも、リヒトは違う。レオンは目覚めてから、リヒトの人柄や行動に、救われた人々を見てきた。

 誰かに認められて、嬉しそうに笑う。そんな弟を見たのは、レオンは初めてだった。


 人に愛される才能。


 レオンには、それは自分に欠けた才能ものに思えた。

 本当の心を、弱い自分を、レオンは他人に晒すことなんて出来ない。

 『完璧で優れた王子』でなければ、自分に存在の価値なんてない。

 そんなふうにしか思えない自分では、他人を従えることは出来ても、他人ひとを笑わせて導くことなんて出来はしない。

 でも弟が王になるなら、その玉座は決して冷たくなんてない。

 きっと彼が王となる国は、慌ただしくはあるかもしれないが、きっと笑顔にあふれていることだろう。


『俺はお前たちが幸せになれるよう選ぶだけだ』


 幼馴染の言葉の意味が、今ならレオンにもわかる気がした。

 ギルバートの言う『幸福な未来』。

 その中にはリヒトとレオン、二人が存在する。

 けれど自分が王となれば、リヒトはきっと幸せにはなれない。弟はもう、自分には笑ってはくれないだろう。


『いたいのいたいの、とんでいけー!』

『お姫様と一緒に住むのが夢です!』


 弟は昔から変わらない。

 真っすぐで、柔らかい光のように、自分の中に在り続ける。

 レオンは、ベアトリーチェのかつての言葉を思い出していた。


『名前が変わっても、どんなに遠く離れても、年をとって姿が変わり、いつか貴方が、私の背を超えてしまっても。私にとって貴方は、かけがえのない弟です』


 弟を持つ兄として、自分と同じように、弟から離れようとしたベアトリーチェの言葉が、今はただそのすべてが、レオンは自分の言葉のように思えた。


『私はいつからか、貴方が傍にいるのが当たり前なように思えていた。このかけがえのない時間の幸せを、尊さを、忘れてしまっていたのです。時間が私を置いていく。みなが私を置いていく。それでも貴方だけは、私を追いかけてきてくれる。繋がっていてくれる。家族なのだから――それが、当然だと思ってしまっていた。遠くで駆ける貴方を見るたびに、私とは違う誰かと笑い合う貴方を見るたびに、私はそれを眺めるだけで一人満足して、貴方に手を差し出そうとはしなかった。それが貴方の心をどんなに傷付けていたかを考えずに、貴方に背を向けて、自分のことだけを考えて過ごしてきました。許してください。……私を。愚かな貴方の兄を』


 だがリカルドは、レオンの願いに顔色を曇らせた。


「しかし、魔力の低い王など前例がない」


 指輪の力が明らかにならなかったのもそのためだ。

 クリスタロスはこれまでずっと、魔力の強い王と王妃をいただいてきた。

 他国の王を見ても、魔力の低い王など、この世界には存在したためしはない。


「魔力の低さだけが否定の理由なら、補う者は、ここにおります!」

 自ら五人に選択をさせながら、それでもリヒトを時期国王に認めようとしない父に、レオンは高らかに宣言した。


「レオン王子がそれを望み、リヒト王子が王になるのなら……。グラナトゥムは、力を貸すことを約束しよう」

「ディランも、グラナトゥムにならうことを約束するわ」


 ディランにおいて、水晶宮の魔法の使い手であることは、次期国王の資質とみなされる。

 かつての力を取り戻したロゼリアは、今や大国ディランの次期女王なのだ。

 赤の大陸グラナトゥムの国王と、青の大海ディランの次期国王の支持――ロイとロゼリアが続けた言葉に、リカルドは動揺した。


 まさか自分の二番目の息子が、魔法の使えない弱い子だと思っていた人間が、そこまで大国の王と皇女から思われているとは、リカルドは思ってもみなかった。

 確かに二つの国が、リヒトが在位のうちはクリスタロスと友好な関係を築いてくれるというのなら、その話は渡りに船だ。


「しかし……」

 だがリカルドはクリスタロスの王として、『他国に頼ることが前提の次期国王』を、すぐに肯定は出来なかった。


「待ってください!」


 リカルドが、言葉を詰まらせたまさにその時――高い少女の声が、扉を開く音と共に響き渡った。

 闖入者ちんにゅうしゃはかつてリヒトを惑わせ、ローズとリヒトの関係を切り裂いたとされる張本人――『光の聖女』、その人だった。

 アカリは大きく息を吸い込むと、玉座に座っていたリカルドを見上げて叫んだ。


「リヒト様の魔力なら……補う方法は、あります!」

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