夜の小景 市木/中野
市木 佐紀
自分の血液が、冷めていく水のように熱を失うのを感じていた。 額に置かれた彼の手だけが暖かく、確かに感じられる気がする。夜陰に冷えた空気を吸い込んでも、呼吸が奥まで届かなくなってくる。 焦げた機体の残骸の臭いも、燃料のツンとするそれも、鼻が痺れたように、感じない。
ヘリが墜落する以前に折られた腕は、肩から先が麻酔でもってかかっているかのように無感覚だった。
瞳が痛いほどに冴えて、白銀の星の散らばる空を捉えた。「教官」が私の顔を覗き込む。何の憐憫も、動揺もなく。
かつて、私たちは追う者と追われる者だった。 私を育て上げた教官が、自らの属する国家を裏切った事を証明する。 それが私の任務だった。 そしてその過程で、自らが触れてはいけないものに触れたのを知った。 私は教官やその後ろの黒幕に関する証拠を掴んだ。 その時にはもう、知りすぎていた。
私は、この調査が終われば切り捨てられる事を理解している。
それでも良かった。 憎みながら敬愛した、教官を追っていられるなら。 教官は私と証拠を消すために、移動用ヘリの中で待っていた。 そして格闘になり、発砲の末ヘリは深山の最中に墜落した。
ひどく気管が痛んだ。 咳き込むと奥から、痛みと血の味が溢れる。
笑ってしまう。 片腕は格闘で粉砕骨折し、残ったほうは肘から下が消えていた。 引き千切れた筋繊維に、神経と割り箸のように折れた骨が見え隠れしている。 右足にしたって、膝から下が同じことになっていた。
ありえない方向に足首は曲がってはいたが、左足はまともに形を残している。ぐにゃりと曲がった脚を包む濃いブラウンのストッキングは、見るも無残に伝染していた。
私は笑った。右足の膝から下がないのに、ストッキングを気にするなんて! 私は目の前で、すり傷だらけになりつつも変わらずに私を見ている、教官を見た。
眦まで切れ上がった、冷たく硬い鉄紺の瞳。 尖った鼻先に、引き締まった顔立ち。 ぴくりともしない眉。 刈り込んだ黒髪に、無地の黒い戦闘帽がよく似合う。 紺色の戦闘服の下には、今も息づく鋼の肉体。
庇の下、秀でた額を、赤黒く裂傷が走っていた。 そこから流れる血が私の唇に落ち、甘い鉄の風味を私は味わう。 命の味が舌に広がる。
消えかけている私の命への、それは慈しみだった。だから彼は私を殺さないのだ。 顎をなで下ろす指先が、奇妙に優しい。
「教官」
私をのぞき込む彼を呼んだ。 私はありったけの力を込めて微笑んだ。 深山の中、今からも逃亡し続けなければならない彼を。
彼によって育てられ、彼によって手折られたのならば。 せめて最期は、最愛の人の為に。
「私を、バラ、バラにして、食べて・・・下さい」
生き延びるために。
教官は真っ直ぐに私を見下ろす。 私の頬を撫でた教官が、ついと目を伏せた。 私は彼にとって、何だったのだろう。 それを見定めるかのように、霞んできた目を精一杯開く。 教官によって捌かれ、咀嚼され、教官と一つになり、溶けていく事を想像すると、甘美な寒気が走った。
「私はあなたに、・・・なりた、かった、のだから」
泥沼を歩く人生だったけれど、こんな最期なら上出来だ。
教官の顔が近付いた。 唇に、鉄臭い血の臭いと、温かな体温が広がる。
そっと触れるような、儚い口付け。 柔らかな闇と重さが、肉体の隅々まで痺れさせていく。
それだけで、私は祝福された人生に感謝した。
急速に暗闇が広がってくる。 息を絞り出し、もう一度彼を呼んだ。
「な・・かの・・・きょう、かん」
私の体も心も、最後まで彼のものだ。 唇に触れた指の感触が遠のいていくのが惜しい。
「約束だ。俺はお前を食って生き延びる」
それは天上の声のような、優しく甘やかな響きだった。 力尽きて闇に沈んでいく私の胸の奥を、その人は温め続けた。
*
中野 千歳
赤い源流が、勢いを失って静かに流れ出る。 枝の折れた生命の木の、それは豊かな樹液だった。 彼女の側に跪き、瞳孔の開ききった黒い瞳をそっと閉じる。
蝋のような色をした顔に、青白い血管が透けている。 血色を失った、死人の顔色。 私になろうとした女の、安らかな寝顔だった。千切れた片足に、肘から下を失った片腕。 ヘリの残骸を舐める赤い炎に、その体の白い膚が映える。
弛緩した首筋と、散らばった黒髪が。 紅く染まった、満ち足りて恍惚とした表情。 その微笑んだような唇に、温もりは、もうない。 肉の色をした唇が私に正義を問うことも、私の名を問うことも、二度と。
待ち伏せたヘリの中で、彼女は私に聞いた。
「中野大尉、――いえ、・・・少佐とお呼びするべきでしょうか」
私は片眉を吊り上げた。
「もっとも名前など、あなたにとっては意味の無いものでしょうが」と。
その通りだった。 どの名前も仮面に過ぎない。
中野千歳。日本人の両親から生まれながら、北の荒れ果てた国で産声を上げた私の人生は、最初から欺瞞に満ちていた。 真実だったのは、私がこの女を一から育て上げた事だけだ。
「教官」
少佐でもなく、中野大尉でもなく。 彼女が好きだった呼び名を、彼女は呼んだ。 愛する男の名を呼ぶように。
そして彼女は呼吸を緩やかに止めていきながら、私はあなたになりたかった、と呟いた。
黒々と葉を伸ばした森が、音を立てて揺れる。 月の無い闇夜。燃えるヘリの残骸。 私が愛した教え子の、聖い血肉。 ブルーグレーのスーツ、スカートから伸びるすらりとした脚。 右腕に巻いた、私と同じモデルの腕時計の夜光指針が光る。 はっきりと映える薄緑の輝き。
時間はない。 私は中型の折り畳みナイフを取り出した。 スカートにナイフを押し当て、切り裂く。 艶消しの刃が滑るように布地を分かつ。切り裂かれた生地の間から、まだ体温を残す白い内腿が現れる。 ただの布と化したスカートを、手で引き裂いた。 ストッキング越しに、黒色のショーツが守られている。
両脚を押し拡げ、その間に膝をついた。 既に伝染だらけのストッキングを、両手で裂く。 墜落で膝から吹き飛んだ片足は、傷口から黒ずみ、動脈や折れた骨を覗かせていた。
大腿の内側の肉を取ろう。 完全に分解するには時間も道具も圧倒的に足りない。 肩に膝を引っかけるように載せ、残っている方の脚を持ち上げた。
ナイフを白い皮膚に差し込む。 力を込めると、緩やかに血が溢れて、黒い刃は飲み込まれていく。 中程まで切ると、血にまみれた、黄色い脂肪の粒が露出した。
ぐい、と肩に載せた膝を持ち直すと、身体が持ち上がり、虚ろな白い顔が僅かに仰け反った。 まるで息を吐くかのように。 流れ出した赤黒い川は、太股を流れ落ち、地面に吸い込まれていく。 曝された下着が、どす黒く血を含んでいく。
鮮やかな赤にぬらりと光る表皮と、脂肪を剥いだ。 抉れた大腿に、露出した筋肉。ナイフを差し込むと、ぶちぶちと血管が千切れる感触と、筋繊維の硬さが伝わる。
大腿ごと切り落とせればまだ楽なのだが、現状ではそうもいかない。 女の肉が柔らかいとはいえ、人体の解体自体が大変な労力を要する。 彼女の流した血に私の太股はベッタリと濡れ、作業に汗をかいて知らぬ間に喘いでいた。
ナイフを入れる度に、息が漏れる。 返り血が汗に混じって頬を流れた。 私が肩で息をする度に、彼女の体も波打つ。 わずか微笑んだままの青い顔が、そのたび顎を突き出す。
肉を削ぎ落としながら、私は体の芯から熱が染み出るのを感じた。 興奮、リビドー、アドレナリン、そのどれもが渾然一体となったような熱。 昂まりと、まるで何かに満たされたかのような、不思議な感覚。
身体が燃えるような熱さ。 最も愛した教え子の血肉を捌きながら、私はその長い恍惚を味わい続けた。 そうして、どこかで聞いた昔話を思い出した。
男女は昔、一つの体だったという。 しかし神は人間を恐れ、男女を切り離し、不完全にした。 それから人間は、半身を求めてさ迷うようになったという。
天を仰ぐと、頭上でざわざわと木が揺れる。 血の色と臭いにまみれながら、私はいつの間にか笑っていた。 私は半身と真にひとつになることを許されたのだ。
私は今、もっとも満たされた。
切れた大腿の動脈に、唇を寄せて血を啜る。 鉄臭い、独特の味が鼻孔まで突き抜けた。 止まった彼女の時間は、私の中で再び動き出す。 乾いた笑い声が漏れる。
彼女の最後の声も、瞳も、みんな私だけのものだ。 血肉も、魂でさえも。
彼女のジャケットの胸ポケットから、フラッシュメモリを取り出した。 これが生命線になるかもしれない。 あらゆる意味で、彼女は私の前に横たわる血路だった。
そしてそれから、彼女の硬直を始めた腕から腕時計を外す。 私と同じメーカーの、同じモデルの色違い。 視認性とタフさを最大の長所とするアナログのミリタリー・ダイバーウォッチだった。 私の文字盤は青だが、彼女の文字盤は黒い。
私は自分の腕時計を、そっと彼女の手首に巻いた。 そして、彼女から外した黒い盤面のそれを、自分の手首に巻いた。
それが終わると、私は死んだヘリパイのジャケットを剥ぎ取り、彼女の顔を覆ってやった。 そろそろ行かなければならない。
私は燃え残っていた救急ボックスの中の、包帯が密封されていたプラスチックバッグに肉を入れた。 それから遺体に敬礼し、市木、さよならと呟いた。
一寸先も見えない暗闇が、目の前に広がっている。