初夏、少女と少年のお話
ある学校の放課後。窓際の机に少女が座っている。初夏の暑さからか頬から一筋の汗が垂れていた。
彼女はそれを手で拭いながら鬱陶しそうに自身の長髪を撫でた。
夕方とはいえ夏の暑さを感じさせる教室だ。うんざりするのは納得がいくが、その表情からは他にもどことなく満足げな物が垣間見える。
周りには誰もいない。授業もとっくに終わり陽も傾き始めたこの時間、殆どの生徒は部活か帰宅の途についている。
ここにいるのは余程の物好きぐらいだろう。事実遠くから聞こえる蝉の声以外彼女の耳には入ってこない。
「おおおお! やばい! やばぁい! やばぁいぞ!」
しかしそんな静寂も直に破られる。外の廊下からは絶叫と共に誰かが走ってくる足音がした。
少女はピクリと肩を動かし目線を教室の扉へと移す。すると扉は開け放たれ、息も絶え絶えの少年が飛び込んできた。
「聞いて、くれ。これはっ一大事だ。少なくとも、俺の人生の中で一番、やばい」
力尽きたのかそのまま床に倒れこみながら、ぜえぜえと言葉を吐いた。床の埃が制服と彼の短髪に付くがお構いなしである。
少女はそんな格好の少年を悠然と笑った。
「どうしたんだい? 私の幼馴染君。話をする前にその埃を掃ってくれると嬉しいね。でないと埃と君とが混じってどうにも見にくいんだ。いや醜いんだ。まあとにかく此方に来なよ」
「人を塵みたいに言うんじゃない」
息を整えながらも立ち上がった少年はそう抗議する。しかし直にそんなことよりもと彼は少女に詰め寄る。
震える手は起きた事態の大きさを示している。目を血ばらせながら彼女の前に立つと重々しく告げた。
「告白、いや、ラブレターをもら、った」
「ほう?」
少女が興味ありげに相槌をする。
「だが書いてあるものの意味が全く分からん!」
ばっとポケットから一枚の紙を取り出すと彼は相手に突き付けた。可愛らしい便箋には大きな漢字で『一』と書かれている。
だがそれ以外には何も書いていない。ただただ漢字の一が示されるのみである。
少女はすっと目を細めた。
「……少し検分させてもらっても?」
「ああ、ぜひお願いしたい。俺の天啓をどうか解き明かしてくれ」
少年は便箋を渡す。
少女は受け取る。
そして流れるように少便箋を真っ二つに破る。
「のおおぉおおぉん!」
「は、下らん」
高速で動く彼女の手は、そのまま紙を数十の紙片に変えるとそのまま横にぺいっと捨てた。
滂沱の涙を流しながら少年は最早意味を成さない紙屑を集める。
「ひどいっ、なんでっこんなこと! 人間のやることじゃないっ」
「鬱陶しい幼馴染が汗だくで奇声を上げながら走ってきて、ラブレターなどと言って見せた中身が数字の『一』だぞ? 馬鹿らしすぎて破り捨てるのも仕様がないさ。付き合って期待して損した。本当に損をした。近づくなボケが。お前の汗の匂いで私のフローラルな匂いが台無しになる。馬鹿め、死ね、灰になれクズ」
「お前だって汗かいてるじゃねえか! しかも座ったままで。汗っかきに言われたかねえ!」
「お前の汗が雑巾の搾り汁だとしたら、私の汗は花の香水だ。一緒にするな汚らわしい」
もう知らんとばかりに少女は顔を横に向け頬杖を付く。少年は幼馴染の余りな行為に机に臥せって男泣きした。
いたく傷ついているようだが前の机の椅子を引いて座っている当り、ちゃっかりとした性格だ。
泣く声が教室に響く。
「これはっ、絶対にラブレターなんだっ。お前には分からないだろうがっ、俺には、分かる。顔を赤らめて、もじもじしてっ、『あのっ、この中に書いてあるものを、ちゃんと見てくださいっ』て言ったんだぞっ。長髪のおさげで、眼鏡っ子が言ったんだぞっ」
怨嗟の声が後から後から少年の口から漏れ出てくる。
少女は五分それを無視していたが、十分も経つと溜息をついて向き直った。
「ああ……分かった、分かったから泣かないでくれ君。此方も大人げなかった。余りの事態に動転していた。だから顔を上げよう。建設的な話をしようじゃないか」
「本当か」
喜色の表情をした少年が顔を上げる。涙はとっくに引っ込んでいた。
いそいそと先程破られた紙を机に並べはじめる。
「じゃあさっきの文の解読を」
「いやいい。あれはどう考えても数字の『一』だ。それ以上でもそれ以下でもない。しかもあぶり出しだとかそんなものも仕込まれていなかった。私が保証しよう」
「いやでも」
「今度は窓から捨ててやろうか?」
直に紙片は少年のポケットにしまわれた。
「此方としては早く終わらせたいんだ。便箋を見ながら君の妄想を聞く気は全くない」
そういって彼女は尋ねる。
「具体的に何があった」
「さっき二十分前下駄箱前で女の子にあった。可愛かった。眼鏡で長髪のおさげだった。可愛かった。花の香りがした。その子にさっき言った感じであの手紙を渡された。余りの事態に気を失ったらいつの間にか少女はいなくなっていた。以上」
「……うん……では最初の質問だ。君の妄想であると言う可能性は?」
「いきなり全否定は止めてくれ」
少女は頬杖を止め、椅子に体重を預ける。腕組みをして思案しているようだった。
邪魔しないように少年は黙って待つ。そして結論が出たのか目線が少年へと戻ってきた。
「君が暑さで見た白昼夢だ」
「しまいにゃもう一度泣くぞ」
ほんのりと涙目に少年はなった。分かった分かったと少女は宥める。
難しそうな、苦み走った顔で少女はもう一度黙り込む。今度は何か考えていると言うよりも、言いづらそうな、そしてどの様に言おうかといった顔だ。
一回目を逸らし、もう一度少年に向けた所で尋ねる。
「君的にはさっきの手紙はどう思うのだ」
「どうって?」
「あれが何を示していたかという事だ。参考程度に聞いておきたい」
真剣味が籠る返答が返ってくる。眉に力がこもり懸命に絞り出す様は、敬虔な信徒が神に告白するものに似ていた。
「貴方のことが、『一番』大好きです、かな」
「それだと一番大嫌いもできるな。そもそもなんだ一番大好きとは? 二番目に好きな奴もいるのか? その少女はビッチか何かかな?」
「何でこうお前の言葉は一々俺の心を抉りにくるんだ」
遂に少年の悲しみは涙となって頬を伝った。
そんな少年のことなど気にも留めずにもう一度溜息をつき、手でこめかみを揉んだ。
少女は彼に提案を行う。
「どうにも情報が足りない。これでは聡明な私でも答えは導き出せん。だからどうだろう。もう当人に聞いてきたらどうだ? 二十分前ならまだ其処らにいるかもしれん」
「それだ!」
勢いよく椅子を蹴り倒し立ち上がる。そして先程までの沈鬱な雰囲気などどこへやら教室から飛び出していった。
まさに声もかける間もなく、台風のような勢いだった。
もう何度目かもわからない息が、少女の口から洩れた。
「どうしよう」
それから少年は血眼になって学校中を走り回った。校内、校外を問わずそれはもう走り回った。
居ないだろうが一応と校庭の微妙な森になっているところにも懸命に突き進んでいった。
中に入れない女子更衣室も居たならば不味いと扉に耳を付け中の様子を探った。
変態だと誤解され警備員に追いかけられても、顔だけは何とか見られずに逃げおおせた。
だがどうにも件のおさげの少女だけは見つけられなかった。
少年は照れて帰ったのかもしれないと、頬を赤らめると同時、まさか幼馴染の少女が言うように白昼夢ではないかと青ざめた。
三十分経ち、これ以上探す場所など無くなった彼は、またとぼとぼと教室へと帰ってくる。
中を見てみれば少女は片手を壁に当て俯いていた。
不思議に思い少年は尋ねる。
「どうした? 猿の反省の物まね?」
「……君が校庭を必死の形相で走るのを見て、幼馴染の余りの哀れさに世の中の無常を悲しんでいた」
「なにそれひどい」
こうして少年少女は元の位置へと戻る。振りだしだ。
「君の妄想であるという可能性が一番大きいがそれでは話が進まない。とりあえずは『一』の解読こそが糸口だと私は思う」
「もう突っ込まないし泣かないぞ」
告白から大分時間を置き平静を取り戻した少年は、幼馴染の毒舌にもいつもの様に振る舞えるようになっていた。
「先程君は『一』を一番といった、ただの数字の一としか見ていなかった。それではこれは解けないのだろう。発想を転換する必要がある」
「転換?」
「『月が綺麗ですね』」
「月なんて出てないけど大丈夫?」
無言で少女は少年の顔面を殴った。鼻血は出ないがノックダウンされ後ろの机に後頭部を打ち付けられる。
咳払いと共に少女は続けた。
「話を最後まで聞け。君はこれを聞いてどんな意味だと思った?」
「いや、ただ月が綺麗だねって意味じゃね」
何事もなく復活した少年は疑問を呈する。
分かってないなとばかりに、チッチッチと少女は人差し指を左右に振る。そしていいかい? と前置きを置いた。
「これは有名な作家夏目漱石が『I love you』を翻訳した言葉だ。だから正解は『愛してます』なのさ。割と有名な話だ。ん? ああ言い返さなくても良い。君は知らないのだろう? それは承知している」
「そういや月と言ったらお前と行った月見を思い出すな。他の友達が偶然来れなくてお前とだけだった奴」
「話を聞かないのなら私は帰っても良いんだがね」
すぐさま無言で少年は頭を下げた。
彼女ができるかもしれないという千客万来のチャンスの中、今の彼のプライドは塵よりも軽い。
「私が言いたいのは知識の有無が言葉の意味に関わってくるということだ」
「つまりどういうことなんだ」
「…………知らん。後は君だけで考えろ。私ばかりに頼るな」
縋る目をすげなく流される。
少年は自分の知っていることが鍵だと言われても、全く意味が分からない。
そもそもなぜ恋文を読み解くのにここなで頭を使う必要があるのだと嘆いた。
だがどんなに嘆いてもこれを解かなくてはならない事には変わりがない。
「いち、イチ、一? どういう意味だ。俺が知ってる一? テストの点数とか? いや漫画じゃあるまいし一点なんて取ったことない。じゃあなんかで一位をとったこと? そんなのいっぱいありすぎて……思い出せないけど多分一杯あるから思い出せない。では一ってなんだ? いやそもそも一とはなんだろう? 一と全。全は一……。俺という存在は世界からしたらちっぽけな存在だ……。考える葦……」
閃いたとばかりに少年は少女を見つめる。
「つまり一とは俺のことだったんだ」
「馬鹿かお前は」
バッサリと切られ少年はうがー、と叫んで後ろに倒れこむ。鈍い音で後頭部が再び机にぶつかった。痛そうだ。
今彼の頭は完全にオーバーフローしている。一とはどういう意味か、そも一とは何なのかという哲学的な境地にまで達し始めていた。
だが当然答えは出ない。
「うう、答えがでねえ。真実は、真実は何処に」
「君じゃ永遠に届かないよ。諦めな」
「じゃあお前はどうなんだよー」
「は?」
何気ない問いに少女は硬直してしまった。思わず口が開いてしまったぐらいだ。
「お前は一といったら何思い浮かべるんだよ」
「…………」
今まで流暢に言葉を紡いでいた少女は、彼の問いに黙り込む。
問いに窮するというよりかは、答えて良いものかと悩んでいるようだった。
それでもいつまでも待たせるわけにはいかないと少女は答えを返す。
「そうだね。何を思い浮かべるかは言わないけど、あまり良いものだとは思っていないよ」
陰のある、自嘲めいた声音だった。少年を馬鹿にしていた微笑も、今は何処か儚げだ。
突然の変わりように少年は少しだけ怯んだ。
「一は他の数字じゃ割り切れないからね。どんな素数も一という他の物で割り切れるけど一だけができない」
答えというよりは独白に近い。
「割り切れないってのは良くない事さ。他の物を重視すれば行動できるのにそれをしない、つまりは煮え切らないどっちつかずってことなんだから。だから私は一という数字は好きではないのさ」
「…………」
静寂が包んだ。
どちらもどうすれば良いのか分からないようだった。少女は言い終えるとそのまま窓の外を見ている。
我関せずという様子だ。
だからこの場を変えるとしたら少年にしかできない。彼は自身の頭に浮かんだ言葉を、述べて良い物か悩んだ。
しかしそれ以外に思い浮かばなかった以上、彼にはそれを言うしか他に道はなかった。
ゆっくりと、噛みしめるように言葉を吐いた。
「……0.1とかなら割れね?」
「君は死んだ方が良いな」
少女が少年を撲殺しようとその拳を握りしめたところで、見回りの警備員が早く帰れと見に来たため、辛くも学校で惨事は起きなかった。
ただ助かったのにも関わらず、警備員を見たとき少年の身体は何故だか震えていた。
二人が教室でうだうだしている間に陽はすっかり傾いていた。彼らの足取りを、僅かな陽が弱弱しく照らしている。
薄赤色の陽に染まったアスファルトの道路に、二人の影が長く伸びていた。
住宅街だというのに蝉の声がうるさい。
「あぁー結局分からなかった……俺の青春、俺の初めての恋文……」
がっくりと肩を落とし少年はとぼとぼと歩いていた。呆れた様子で横を少女が歩いている。
さも不快とばかりに少年を糾弾した。
「そんなものに私を巻き込むな。君一人でやってくれ。そもそもあれが本当にラブレターだったかも定かじゃないだろう」
「いや絶対そうだから。あの眼鏡っ子の好き好きオーラを見間違うはずがねえ。あの一という文字にさえしっかりと万感の思いを感じたぜ」
「だとしてもだ。見ず知らずの奴にそれ以上執着しても仕様がない。その様子だと、顔すらおぼえていないのだろう? 諦めろ幻だったんだよ。それにもしかしたら性根の悪い女だったかもしれん」
「あーすっぱい葡萄って奴。ねーよ。あの子は絶対悪い子じゃねえさ。俺馬鹿だし、少ししか話していないけどそれ位分かる」
「…………顔も声も覚えていない奴が良く言う」
「舞い上がってそれどころじゃなかったんだよ」
少年の弁明を最後に二人の会話が途切れる。
険悪な雰囲気ではなく、話すことが尽きたのだ。黙々と歩き続け、遂に分かれ道に至る。ここで二人は帰路の都合上左右に分かれる。
ふう、と少女は息を吐いた。じゃあ、と少年に声をかけてそのまま右の道に進もうとした。
二人の別れはいつもこんな感じで軽い物だ。定型通りなら少年はおう、と返し左の道に行く。
そして今日もそれに変わりはない。少年はおう、と返して左の路へと進んだ。
だが唯一今日だけは変わったことがあるとしたら、少年が左に進みながらそういえばと、彼女の名前とその黒い長髪を思い出した位だろうか。
「いつも名前呼ばねえから忘れてたわ」
少女は少年と別れた後暫くして道の真ん中で立ち止まる。
そして通学鞄から何かを取り出す。その何かは、眼鏡とヘアゴムだ。それを勢いよく道の壁に投げつけた。当然衝撃に耐えきれず眼鏡は叩き壊れる。
「はあああぁぁあああああああぁあぁ! 何の罰ゲームだ!」
蹲りそのままアスファルトの上をゴロンゴロンと転がる。傍から見れば警察か救急車を呼ばれる事態だが、幸いにも周りに人はいなかった。
それをいいことに全力で彼女は内なる衝動を吐き出す。
そのまま三分ほど経ち、体力も限界に近づいたところでやっと彼女が止まった。
だが今度は口から呪いの声が漏れ出る。
「確かに私にも落ち度はあるさ。素面じゃできんからと髪型も変え、眼鏡もかけたさ。ここまでやれば分かるだろうし、分からなくて聞きに来ても『私のことをちゃんと見てっていう事だよ。言わせるな。恥ずかしいな』ってちょっと可憐そうに言えばいいやみたいな感じで、内容がなぞかけみたいにもしたさ。だからな、分からなかったままなら別に良いさ」
ぎりっと奥歯を噛みしめる音がした。
「でもどっちも分からずに私の所に聞きに来るとかどういう事なんだ! 何! あの子可愛かったってご褒美!? 羞恥プレイ?! この内容はどういう意味ってラブレター書いた本人に聞きに来るとか拷問?! うぎぎぎぎいい。もうしらばっくれるしかないだろうが!」
じたばたと足を動かす。彼女の抑えきれない情動が身体の中で暴れ狂っている。
「でも聞かれた時チャンスだったんじゃ……『彼女は言っただろう? この中に書いてあるものをちゃんと見てって? 君の周りに一にまつわる人物はいないのかい? そういえば、私の名前はなんだったかな? うんどうしたんだい? 何か気付いたかな? そんな顔を赤くして』とか! ……こんな木端恥ずかしいこと言えるか!」
うおおぉぉ、と少女は頭を抱えた。
「そんなの無理だ。あの馬鹿に直接的に好きだなんて言う行為は、恥ずかしすぎて憤死するっ。ここが私の譲れない一線っ。そもそも頭下げるみたいで私のプライドが許さん! 絶対に割り切れんっ」
羞恥心とプライドが邪魔し、恋のためと割り切れぬ少女、一子の受難は続く。