海の上の話
しょっぱい。
まず頭が覚めた。僕は何かにしがみついて浮かんでいるらしい。身体が冷たく、鎧を着ているかのような錯覚に陥ったが、しかし寒くはない。何故だろうか、きっと限界を超えてしまっているのだろう。半身、というより三分の二身は海水に心地よくたゆたっている。頬に食い込む濡れた年輪の感触、僕が掴まっている何かは木製で大きめの板らしい。
目を開けてみた。そういえば開けていなかった。焦点を中心に左へ九十度回転した視界には星だらけの空と、例えるなら隣に友人がいることは分かるが顔はよく見えない、といった明るさの上弦の月がある。僕が比較的近眼で夜目もあまり利かないせいかもしれないが、星と月に包囲された空間はそれでも暗かった。
なぜこんなことになっているのか。自分が何者かでさえひどく曖昧になってしまっていた僕には全く見当がつかない。大方乗っていた船が嵐にあって分解し、何だかんだで漂流しながら生きながらえている、いられているということなのだろう。
左の眼尻が痒い痛みを発している。僕は頭を起こした。映像の角度がもとに戻る。そして同時に、もう一つ分かったことがある。
僕の隣には魚が泳いでいる。『隣』も『魚 』も『泳いでいる』も決して比喩ではない。僕と同じ向きに、同じペースで泳いでいる。いやこの場合、僕が魚の泳ぐ方向へ流されているというのがいいかもしれない。大きい、僕と同じくらいの大きさ。よく見えないけれど、右水面下にそれくらいの魚影が確認できた。
流石の僕だって、記憶が混濁していたって、すぐにそれが、魚は魚でも人魚であることには気がついた。
人魚。伝説上の存在。優艶で悲哀に満ちた声が奏でるその歌で船の乗組員を、酷いときには一人残らず海中へと誘い……この続きは知らないが、きっと食べてしまう、とかそんな感じ。とにかく生きては帰れない。あと、それはもう絶世の美女であるというのも定説の一つだ。
定説といったけど、でもそれは遠い昔、それこそ何百年も前の大航海時代の話だ。この状況がタイムスリップでない限り今は二十一世紀のはずだ。これは記憶というよりは、あくまでも感覚。二十一世紀になっても、まだ人魚は存在するのだろうか。
人魚が浮上した。僕の右隣、魚影の位置から真っ直ぐ上に出たようだ。勢いよく出現したわりには、あまり水滴が跳ねなかった。
顔の細部はよく見えない。定説通りなら、かなりの美女であるはず。夜目が利かないことが悔やまれた。このまま死ぬかはわからないが、死ぬ前に一度は見てみたい。そう思ってはみたものの、不思議と死ぬ気はしなかった。
「目が覚めてしまったの?」
人魚の第一声であった。とても、なんと言うのだろう、耳ざわりの良い声だ。ただ、この声に誘われて自ら海へ身を投じるかと言われれば、僕ならそんなことはしないだろう。綺麗な声であったが、普通の範疇に入る声だ。もっとも僕も重ねて
「君は一体何者なんだい?」
と問いかけてしまっていたので純粋な声だけの音は聞こえなかったのだけれど。
クスッと人魚が笑った。そしてふぅとため息をついた。嬉しいのか落胆したのか、忙しい生き物だ。まだ時期尚早かもしれないが、僕はこの人魚が僕に害をなす生き物ではないと確信した。根拠はない。だが感覚が僕の判断に同意していた。
「おかしな人ね。あなたを除けば私をみて、声を聞いて、見惚れるか、聞き惚れるか、あるいは戦慄しない人なんて居なかったのに」
嬉しそうというより、可笑しげな声で人魚か言う。
どう返答しようか迷うが、きっと正直に答えた方がいいだろう。そして聞きたいこともある。僕はこの人魚と積極的にコミュニケーションをとることに決めた。一様に変わらない景色に飽きてきて、暇潰しという側面もある。
「ごめんなさい。君の声は確かに綺麗なんだけど、僕には、何と言うか……」
少し考えると、ぴったりの言葉が見つかった。
「そう、聞き慣れた感じがして。だから僕は君の声に聞き惚れることはないと思う。それに僕は夜目が利かないようで、実を言うと君の顔がよく見えないんだ。だから君に見惚れることもない、というよりできない」
人魚は少し驚いたようだ。息を呑む気配がする。そしてまた、少し笑った。ふふふ、と笑ったその声は、何かを圧し殺しているようだった。
「そっか、なるほどね。じゃあ楽しくお喋りをしようか。今私は波が君を岸まで運ぶお手伝いをしているところで、到着まではもう少しある。その間の暇潰しにさ」
声が少し震えていた。ぼやけて見える人魚の肩も震えている。そして時々、喉がクツクツと鳴っている。圧し殺していたのは大笑いだったようだ。一体先程の会話の何が可笑しかったのだろう。不思議に思ったが、人魚も乗り気らしいので、素直にお喋りを楽しむことにした。どうやら僕は助かるようだし、なにも心配することは無くなった。
「じゃあ……そうだな。君の名前は?」
「人魚に名を問うのはタブーだぞ少年。それに私も君の名を知らない。岸に着くのはあっという間だ。日が昇るまでには着く。その間くらいお互いの名を知らなくたって不都合はないでしょ」
僕が問いかけると、人魚はおどけてそう言った。一理ある。人魚に名を問うてはいけないとは知らなかったが、確かに名前は知らなくとも会話は成り立つ。ここには二人しかいないのだから、二人称のみで会話が可能だ。
「では、互いの特技について、とか?」
「良いね。その話題なら私にも話せるし、会話だって膨らむだろうし。そうだ、私から話しても構わない?」
僕が頷くと、人魚は嬉々として話始めた。向こうにはこちらがはっきりと見えているらしい。なんだか少し恥ずかしくなった。今の僕はどんな顔をしているのだろう。
「私はね、君がきっと思っているように泳ぐのも歌うのもできる。でもそれを特技といってしまっては、君たち人間が『歩くのが得意だ』というのと対して変わらないでしょ。だから特技は別にあるの」
「へぇ」
しまった。そう言ってくれることを想定して『僕は歩くのが得意だ』とボケるつもりだったのに。
「実はちょっとしたアクセサリーを作るのが得意。髪飾りとか、ネックレスとか、本気になればティアラだって作れるよ」
意外だ。何が意外かって、人魚のイメージとしてアクセサリー作りが得意というのは違和感がないが、その規模が違う。なんだ、ティアラは『ちょっとした』に入ってしまうのか。よく見れば、人魚の頭に月の光を反射してきらめく何かがのっている。
「それも君が作ったのかい?」
「えっ、ああ、これ。この小さな王冠のこと?」
それは王冠だったのか。
「これは、ううん。私が作ったものではないわ。貰ったの、人から。そう、それでね、機会があればあなたにも何か作ってあげられるけど今は無理。次はあなたの特技を聞かせてちょうだい?」
何やら慌てている人魚。なるほど人から貰ったとはすなわち『剥ぎ取った』とかそういうことか。確かにそれなら慌てている理由もわかる。僕の安心に少しだけ疑念が挟み込まれた。
「僕か……特技は……」
UFOキャッチャー。
「そう、UFOキャッチャーが得意だよ」
「何それ。何かを捕まえるの?」
そうだった。人魚がUFOキャッチャーを知っている訳がない。咄嗟に思い付いたことを言ってしまったが失敗だった。どう説明したものか……。
「えっとね、あー、ゲームセンターという施設があって、そこによく置いてあるんだけど、硬貨を入れると一枚につき一回遊べるんだ。そしたらその、クレーン……商品を掴むやつをレバーとかボタンで操作して、うまく出口まで商品を運べたらゲットできる……分かる?」
我ながらひどい説明だ。UFOキャッチャーどころか陸の上のことを人魚はほぼ知らないはずだ。きっと僕が人魚の立場なら途中から分からなくてキレるレベルの滅茶苦茶なことを言ってしまった。
「へぇー。器用なのね」
「分かったの!?今ので?」
「えっ、あー、以前似たようなものが落ちてたのよ海に」
「機械そのものが?」
「そうよ。それかなーって。あってるのかしら」
あれだけ大きい機械が海のなかをどんぶらこと……凄まじい光景だ。人間の不法投棄もここまでだと逆に笑える。それを海へ投げ落とすとき、なにも感じなかったのだろうか。
「うん、きっとあってるよ……」
「どうしたの暗い顔して」
「いや、人は業が深いなあって……」
大変だ、話が詰まりそうだ。今度は僕が話題を出さなければ。えっと……
「それよりさ、お互いの住んでいる世界の話をしようよ。僕は君の知らない陸の話を、君は僕の知らない海の話をしてさ。どう?」
「ああ、それが良いね。じゃあ今度は君から話してみてよ」
「よし、じゃあ僕からいくよ」
それから僕は色々なことを話した。人魚は人間が作った社会の仕組みとか、交通網のことはわりと詳しいようだったので、主に娯楽の話になった。野球を観たり、ボウリングをしたり、漫画を買って読んでみたり。おぼろげながらも僕がしたことあることはあらかた話した。人魚は興味津々で、中には知っていることもあったようだが、そのなかでも一番食い付きが良かったのは、カラオケの話をしたときだった。
「あ、それなら私知ってるよ。皆で自由に歌を歌いあって遊ぶんだよね。良いなあ。私もいろんな歌を歌ってみたい。皆で楽しくさ」
「君は歌を歌うことはできるんじゃなかったのかい?」
「そうだけど、一曲しか知らないの。知っているというより、刻まれているというか。だからもっとたくさんの歌を知って、もっと歌を歌いたいの」
その一つしか知らないという歌はきっと、船員を海へ誘う呪いの歌なのだろう。確かに一曲しか知らないのでは、そのうち歌い飽きてきそうだ。たくさんの歌が日々創り出されている陸の世界は、そういう意味では幸せなのかもしれない、そう思った。
「じゃあ、そろそろ君の話を聞かせてよ。僕の知らない海の話を」
「私の話は、君の話ほど多くはならないよ」
「どうして?」
「何もないからよ」
人魚は悲しそうに言う。僕はなぜかその言葉から、何もない、というのは、誰もいない、も含んでいるのだと分かった。また定説だろうか、以前にそのような話を耳にしたことがある。人魚は一人なのだ。一人で生きている。広い海、深い海のなか、独りだ。
「人魚が魚と話せるという伝説があるようだけど、少なくとも私はそうじゃない。海底で綺麗な石や貝を拾ってアクセサリーを作るのも限度がある。漂流してくる物にもあまり種類はない」
暗い。なんて暗い話だ。海の中はそんなにも楽しくない場所だったのか。なるほど、分かってきた。僕は珍しい漂流物だったのだ。だから人魚は僕のところに来た。弱った人間なら確かに何の害もない。暇潰しをしよう、というのも切実な願いだったのだ。
いや、でも待て。
ならなぜ、その暇潰しの材料をもと居たところへ帰そうとしているのだ。
あ、そうか。その帰す作業自体もまた暇潰しなのか。今ただでさえ話題が詰まるところだったのだ。それならいい感じのところで切り上げた方が確かに楽しい暇潰しにはなりそうだ。
「いやでも、少しは楽しいこともあるんでしょ?」
そう結論付けて、僕は話をポジティブな方向へ修正することにした。
「……そうね。私の母が居た頃までは、楽しいこともあったわ。知ってる?瓶のなかに手紙が入っているのよ。それを濡れないように泡で包んでから開けて、読むのがとても楽しかった。そして読んでから、宛先があればそこへ届くように、無くなることが望まれている物なら深海へたどり着くように、海流に放ってあげるの。ロマンチックでしょ」
ボトルメール。人間が、思い思いの感情を込めた手紙を海に流し、それが届くことを、あるいは届かないことを祈る。昔はそこそこ流行っていたらしい、と僕も聞いたことがあった。今でも百年以上も前の手紙が、送り主に届けられることがあるらしい。
それより、今人魚は何と言った。母?
「君に母親がいたのかい?」
「そりゃあそうよ。じゃあなぜ私が居るの。もうどこかへいってしまったけれど、私を育ててくれた。そうそう、手紙の中には私の母宛ての物もあったわ。中身は見せてくれなかったけど、ほとんどが恨みの手紙だったみたいね」
「へぇー」
驚いた。人魚にも世代交代があっただなんて。人魚が独りで生きているという定説が早くも部分的に否定された。ならば父親は誰なのだろうか。いや、人魚と人間を同じと考えるのは少し浅はかだ。きっとその辺は神秘なのだ。そういう生き物なのだろう、人魚というのは。
そこでふと気になったことがあった。人魚の呼吸はどうなっているのだろうか。今こうして僕と喋っているということは肺呼吸なのだろうか。それともエラ呼吸なのだろうか。考えてみれば、僕はかなり貴重な体験をしているのではないか。この期に聞いておいた方が良いかもしれない。
「ねえ、話は変わるけどさ、君ってエラは付いているの?」
ぷっ。という音が聞こえたかと思うと、人魚は急に笑い始めた。僕のとなりでバシャバシャ音をたてて身をよじっている。何がそんなに可笑しいのか。しばらくして、人魚はようやく落ち着いた。
「ご、ごめんごめん。いや、何か暗い話になってしまったと思っていたからさ、まさかそんなことを聞いてくるとは思わなくてさっ……」
人魚も空気のよどみを感じてはいたらしい。ともかく暗い空気は吹き飛んだ。よくやったよ僕。
「あるよ、エラ。肺もあるけど」
「えっ、どこにエラが?」
首の横とかだろうか。
「触ってみる?」
そう言うと人魚は、ボケッとしていた僕の両手をとり、体の両側、肋骨の辺りに添えさせた。木片から手を離してしまったが、不思議と僕が沈むことはなかった。
柔らかい感触に、切れ込みのはいった引っ掛かる部分がある。確かにエラだ。人魚にはエラがある。だがその発見よりも、僕は接近した人魚の顔に注意を奪われていた。
綺麗な顔だった。近眼で夜目が利かずとも、ここまで接近したら分かる。ほんのりと朱みがかった金色の髪に、透き通るような碧眼。ただ海水に濡れたのではない、まるでさっきまで泣いていたのかのようにきらめく頬の上にあるその碧眼が、真っ直ぐに僕の目を見つめていた。確信犯のようだ。僕に顔をしっかり見せるために。
だが、何のために……?
「もうそろそろお別れだね、少年」
その言葉に周囲を見ると、空からはもう星が退散し始めていて、暗闇も明るい蒼が端から塗り替え始めている。ずっと目には映っていたはずなのに、全然気づかなかった。
それに、まだ小さくはあるが島も見える。
「あ、もう岸に着くのか……」
「そう、君はようやく帰れるんだよ。日常に」
故郷に、ではないのか。その言葉が、日常という言葉が引っ掛かる。まるで、今まで日常から、長い間離れていたような……数時間程度では済まない、長い長い間……
日常から、離れていた?
待てよ、今、ここまで来ている。
頭の付け根まで、大切な何かが。
大切な何かの記憶が、ここまで来ている!
「よしっ、じゃあ君をあの浜まで送るよ。しっかり掴まって息を止めていてねっ!」
「待って!君は……」
ザブン、と海中に沈み、猛烈な勢いで水が流れ出した。僕は振り落とされないように、必死で人魚の腹にしがった。目など開けられない。だが、頭の中には沢山の映像が溢れ始めていた。
港、ショッピングモール、ゲームセンター、野球場……最近の記憶だ。なぜか分かった。そこにいた僕は独りか?違う、隣に誰かいる!
友人か、違う!両親か、違う!僕の知っている誰でもない!
一体これは誰だ、誰と居た記憶だ?分からない。確信を持てるだけの根拠などない。だが感覚は告げていた。
あのときも、あのときも、隣に居たのは……!
サバン!と水面上に顔が出ると、僕は振り落とされ、尻餅をついた。砂の感触。手をついていないと上体を起こしていられない。でもここは上体を起こしていれば海水面は腹の位置だ。
浅瀬、浜辺だ。
前には人影が見えた。水平線から顔を出した朝陽が、人影の顔を隠してしまっている。
だが僕は知っている。その顔にも、声にも覚えがある。数時間の記憶ではない。もっと、もっと長い間に蓄積された、確かな記憶だ!
「無事についたね」
「待って、君はっ」
「ありがとう、とても楽しかったよ。君と過ごした時間は、私のずっと大切な宝物だよ」
「待ってくれよっ!」
彼女の名前は。君の名前はっ!喉まで出かかっている。人魚に名前を聞くことはタブーなんかじゃない!僕は聞いている、呼んでいる、呼んでいた!何度も何度も何度も!
だが出てこない。思い出せない。記憶に無理やり蓋をされているようだった。もう少しで、もう少しで、思い出せるのにっ!
「良かった。魔法はまだ完全には解けていないようね」
○○○○○は嬉しそうな顔を作った。
「あなたが私にしてくれたこと、私があなたに貰ったもの。どんなことにも、どんなものにも代えがたい。一緒に居たいけれど、君は居るべき場所に帰らなくちゃ」
○○○○○が作った嬉しそうな顔はすぐに崩れ始めた。
「本当に……ありがとう。こんなときにまで、まだ私を呼ぼうとしてくれるのね……」
a○○○○は泣いている。涙をこらえている。隠しきれない涙が、水面へと落ちる。もう少しで、名前が思い出せる!
ア○○○○は、涙をぬぐった。そして、本物の笑顔が彼女の顔に灯る。
ア○○○○は歌い始めた。優艶で悲哀に満ち溢れた呪いの歌。言葉はもう分からなかった。でも、言葉の意味は分かった。最初から彼女のことを知っていた僕の感覚は、歌の意味も知っていた。
私はあなたを想いましょう。
あなたが忘れてしまっても。
私だけは忘れないように。
私はあなたに歌いましょう。
あなたが朽ちてしまっても。
私だけは朽ちぬように。
「さようなら。私のかけがえのないーー」
「待って、ア……」
もう、思い出せないのだ。
嘘をつかなかった僕の感覚は、そう告げていた。
結局、僕は名前を思い出せぬまま彼女を見送った。
あの後、朝早く釣りに来た見知らぬ男性の通報で僕は病院に運ばれた。症状は脱水症状に極度の疲労、軽めの低体温症。あと記憶の混濁。僕は二月ほど前から行方不明になっていたらしい。生きていて、しかも命に別状がないのは奇跡だとも言われた。
話によれば、僕は誘拐されて船にのせられた。海上保安庁がその船を発見して拿捕する直前の夜、船は強い低気圧下に突っ込んで『荷物』をいくつか落としてしまったらしい。その後の捜索で船の『荷物』は二日以内に無事保護されたそうだ。僕以外は。
僕には全く覚えがない。誘拐された覚えすらない。だが海上保安庁の記録ではそうなっているようだし、ニュースでも僕が発見されたことを報道している。
そして僕には、未だにあの海の上で目覚める前の記憶は無い。あの数時間よりも前に、もっとたくさん、彼女との記憶があったはずなのに、僕どころか世界がそれを覚えていないのだ。
夏休みの初日の朝から、あのとき目覚めるまで、一体僕は何をしていたのだろう。断片的な記憶こそ出てくるが、もやがかかったように細部が思い出せない。
だから僕は手紙を書いてみることにした。
一つのビンが漂ってきた。広い口のビンの中に紙と、別に何かが入っている。
「久々のボトルメールね。これも調査とかなんとかで変な数字が書いてあるだけのやつじゃなきゃいいけど」
「ねーねーお母さん。これわたしが開けてもいい?」
せがむ娘に促すと、上手に泡をつくってビンを開けた。中から出てきたのは、手紙とオルゴール?
「えっと……だめだわからないや」
どうやら娘にはまだ難しい内容の手紙のようだ。こちらにも泡を作り、合体させて手紙を読んでやることにした。
「うーんと……
『人魚さんへ
結局僕は君の名前を思い出すことは出来ていない。
でも教えてくれとは言わない。
きっとこれは君になにか考えがあってわざとこうしているんだろう?
それなら僕はそれを受け入れるよ。
そうそう、今回これを贈ったのは君にあげたいものがあったからなんだ。
一緒にオルゴールが入っていただろう?君はもっといろんな歌を知りたいと言っていたね。だから僕は歌を送るよ。一緒に歌詞が書いてあるカードも同封されているはずだ。オルゴールを五回回せば一つめの、十回回せば二つめの、十五回回せば三つめの曲が流れる。対応する番号の歌詞で歌ってくれ。もちろん、アレンジや替え歌は自由だ。たった三曲で君がどれだけ満足してくれるかは分からないけど、きっと前よりは楽しい海生活を送ることができるだろう。オルゴールに錆びる材料は使われていないから遠慮せずにどんどん使ってくれ。
今君がどこに居るのかなんて検討もつかない。
けれどこのボトルはきっと届いていると思う。
そこで、一つ頼みがあるんだ。
僕にはもうそろそろ娘が産まれる。その子のために君が作ったアクセサリーを送ってくれないか?ネックレスとかサイズに融通がきくものがいいな。そのボトルに入れて送ってくれればきっと僕にも届くから。
君のことは覚えていなくても、忘れなどしないから。
楽しみに待っているよ。
蒼太より。
追伸
君は僕の名を覚えている、そうだね?』……」
「どうしたの、お母さん?もしかして、お父さんから手紙?」
なんだ、途中で起きちゃったから、やっぱり記憶が完全には消えなかったんだ……しかも、私が覚えていることはバレてたんだ。
「いや、なんでもないよ。それよりさ」
娘はキョトンとしている。しんみりとしてしまった母のオーラを感じ取ったのだろうか。しかも妙に鋭い。その辺の勘が冴えているところも、あの人らしいのではあるのか。
「一緒にアクセサリー、作ろっか」
一つのビンが漂ってきた。いち早く見つけた娘がバシャバシャと海へと入っていく。妻が心配そうな顔をしているので、慌てて僕も追いかけた。
娘が拾い上げたビンを見せてくれた。広い口のビンの中には、何かキラキラしたものが入っている。
「ははっ。ちゃんと届いたんだ」
思わず笑い声が漏れた。
「ねぇ、なんなのそれ?」
「ねーそれわたしのだよー」
好奇心に負けてざぶざぶと海に入ってきた妻と娘との前で広口のビンを開けると、中からは小さめながらも沢山の貝や輝く石で装飾されたティアラと、これまた貝や石があしらわれた綺麗なネックレスが出てきた。
「おとーさん、それわたしのー」
「はいはい。どっちが好き?」
指差す娘の頭にティアラを乗っけてやると、満足そうな顔で浜へと走っていった。妻のハンドバッグの中の手鏡が目当てなのだろう。
「あらあら。凄いものが出てきたわね」
「ああ。僕の大切な人の手作りだよ」
ネックレスを妻につけてやった。嬉しそうな、怒っているような不思議な顔をしている。僕が大切な人、と呼称したから嫉妬しているようだ。
もちろん一番大事で一番愛しているのは妻に他ならない。そのことを伝えると、にんまりとした笑顔が帰ってきた。騙された。
「ねえその人って、前に話していた『人魚さん』?」
「そうだよ。何年か前に送った手紙の返事が来たんだ」
妻には以前話していた、人魚のこと。きっと冗談だと思っていただろうから、今の話を聞いて引いてしまったかもしれない。そう思って目をやると、妻は微笑んでから
「……そっか。良かったね」
そう言って、妻は娘のいる浜へと戻っていった。きっと妻は最初から分かっていたのだ。僕が冗談で人魚の話をしているわけではないことを。やはり、妻にはかなわないな。
夕陽が水平線を朱く染めている。あのときの太陽は、今僕の背中にある。もう陽が落ちてしまう。僕は近眼で、夜目が利かない。彼女の姿も、もうそろそろ見えなくなってきた。
「でも、僕は忘れないよ……」
君が覚えているなら、僕も。
僕を呼ぶ娘の声が聞こえた。早く帰ろうとせがんでいる。なんでも、観たいテレビ番組があるらしい。
「……分かった。もう帰るよ」
呼び声に向けて返事をして、僕は海を出た。




