不穏な気配②
──とま、った……?
燐太が、ホッとして肩の力を抜いたとき、ソレはニヤリと笑った、ように見えた。
──え……?
《アハ、アハハハハ……タノシ、イ、ネェ》
──わ、笑ってる……と言うか、楽しんでいらっしゃる……。
小さな子どものような、かん高い、無邪気そうな声。
燐太は更に顔をひきつらせた。
──笑えばおっかないもんがいなくなるって、嘘じゃないか!
燐太が心の中で叫んでいると、ソレはぴたりと笑うのを止めた。
──なん、だ?
燐太が首を傾げるのと同時に、ソレが燐太の方に再び向かってきた。
さっきまでのあれは、一種の演出かと疑いたくなるようなスピードで、滑るように近づいてくるソレ。間違っても、ズル……ズル……というような音は聞こえない。
あっという間に、びっくりして動けない燐太の目の前まで来ると、ソレは燐太の顔を覗き込んだ。
《ネ、……オニ、イサン……大ヘ、ンダ……ネェ》
燐太に顔をぐっと近づけて、ソレは言った。
《ミツカ、ッチャッタ……ネ。ニ、ゲナ……イト》
ソレが何を言っているのか分からない。
見つかったって何に? 逃げるって何から?
今の状況も忘れて、燐太はぐるぐると考える。その間もソレはしゃべり続ける。
《ツカ、マッタ……ラ、オシマ、イ、ダヨ? ……ガ、ンバッ……テ逃ゲ、キッテ、ネ……?》
そう言うと、ソレはぶわりと燐太に向かってきた。ぶつかる、と反射的に目を瞑る。
だがソレはぶつかることなく、燐太の身体を通り抜けていった。ぞわりという嫌な感覚と共に、負の感情が入ってくる。
燐太は歯を食いしばって、それらが通り過ぎるのを耐えた。
《オ……ニイサ、ン、ハ……我ラ、ノ獲モ、ノナ……ンダ、カラ、ツカマ、ッチャ……ダ……メダ、ヨ?》
頭に直接響く声に、燐太は頭を抱えた。
まるで頭の中を掻き回されたかのように、ぐるぐると気持ち悪い。
ようやく気持ち悪さがなくなった頃には、まとわりついていた嫌な感覚も、心に入り込もうとしていた負の感情も、きれいさっぱりなくなっていた。
燐太はズルズルとその場に座り込んだ。
──何だったんだ、いったい。
先程のやつは、今まで燐太に絡んできたのとは違う。明らかに燐太に忠告していた。
"ミツカッタ"とは、何に? "ニゲナイト"とは、何から? 全くもって、燐太には理解ができない。
"ツカマッタラオシマイ"とは、そいつは燐太を追いかけているのか。
分からないことだらけだ。しかも、最後の台詞は全くもってありがたくないお言葉だ。
しばらく考え込んでいた燐太は、突然開いた教室のドアに、思わず身構えた。
「……っ!」
「……リン? どした、何かあったのか?」
そこにいたのは棗で、座り込んでいる燐太を目にすると、足早に教室に入ってきた。
横に膝をついて心配そうに顔を覗き込む棗を見て、燐太は体の力を抜いた。
「真っ青だぞ。だいじょぶか?」
「うん、だいじょーぶ。ちょっと貧血」
へらっと笑う燐太を、心配そうに見つめる棗。
そんな棗を見て、燐太は心の中で、やっちまったと毒づいた。
──心配かけたくなかったのに……。
燐太は、溢れそうになるため息を呑み込み、無理矢理明るい声を出した。
「よし、ナツ帰ろ?」
「……」
「ナツ?」
「……あぁ、今朝のことも聞かなきゃいけないしな」
「あー……」
どこからどう見ても、無理しているのがバレバレな燐太に、棗は口を開いたが、出てきたのは、言おうと思っていたのと違う台詞だった。
二人は顔を見合せ、小さく笑うと、教室を後にした。
誰もいなくなった教室に、不気味な笑い声が木霊した。
結局、心配性な棗は、燐太を家まで送った。
「本当に大丈夫か? やっぱり今日泊まろうか? あ、それともうちに来るか?」
「だいじょぶだって。ナツは心配しすぎ。本当に大丈夫だよ、ありがと」
一人暮らしを心配して、泊まると譲らない棗に、燐太は苦笑する。
この心優しい親友は、燐太が一人暮らしだと知ったとき、「うちに一緒に住めば良い」と言ってくれた。棗の両親も、「何かあったら頼りなさい」と、燐太のことを温かく受け入れてくれた。
そんな優しい棗だからこそ、燐太はこれ以上心配をかけたくなかった。迷惑をかけたくなかった。
なんとか棗を説得して、家の向かいにある踏み切りで、燐太は棗を見送る。棗は何か言いたそうな顔で、何度も振り返りながら帰っていった。
しぶしぶ帰っていく棗を見届けて、家に入ろうとしたとき、燐太は後ろから強い視線を感じた。
明らかに、悪意を含んだ、ビリっとした視線。
燐太はバッと振り返るが、後ろには誰もいない。
「……?」
気のせいだろうか。燐太は首を捻りながらも、特に気にすることなく、家に入った。
誰もいない踏み切りの向こうで、女が一人、立っていた。
燐太の住む部屋を、睨むように見つめながら。
〈赤い女 不穏な気配②〉